他人軸、自分軸の選択

以前にも何回か書いたことがありますが、人生に目的とか使命のようなものがあるほうがよいのか、ないほうがよいのかという意見に対して、私自身は、(タロット的に見ても)、どちらでもいいという立場です。(笑)

その理由は、簡単に言えば、「人それぞれ」だからです。

目的や使命感を持つほうが、それに向かって歩むことで、より有意義に生きることができるという人がいますし、特に目的はなくても、毎日毎時間、その時その時を大切に生きていれば、自ずと充実してくるという人もいます。

結果に向かってプロセスを積み重ねていくものが面白いと感じるか、プロセスそのものが結果と同じであると思うかの違いと言ってもいいかもしれません。

タロット学習においても、何のためにタロットを習っているのか、タロットを学習してどうしたいのかということを明確にしたほうが、学びの意図・方法・力のかけ方(抜き方も含む)もわかって、やりやすいという人がいます。

これと反対に、とにかく興味や関心に従って、どうなるか、どうしたいかははっきりせずとも、やりたいからやるんだ、学びたいから学んでいるんだと、自分の感性(その時その時の心)に従ってやっていくほうが性に合っているという人もいます。

これは、やはり個性の問題と言えますし、学びのスタイルにも、人それぞれの相性のようなものがあると考えられるからです。

しかし、それ(個性の問題)だからこそ、留意しておきたいことがあります。

それは、自分の思い・選択が、他人軸か自分軸がのどちらであるかをはっきりさせておいたほうがよいということです。

個性とはエゴ(悪い意味のものではなく)であり、要は自分が人とは違っているという部分を自覚する自分らしさ(自我)です。

かなり多くの人が誤解していると思いますが、(心理的あるいは全体的)統合や霊的な向上のためには、先に個の確立が求められるのです。いきなり相手と融合(融和)するのは危険であり、しかも幼稚な段階と混同してしまうおそれがあります。

つまりは言い方を換えれば、エゴの理性的な確立が必要なわけです。

これがないと、おそらく簡単に洗脳されたり、操られたりする不安定な自我のままになるでしょうし、他人との和合を一時的にできたように見えても、自他の闇の部分をコントロールできずに、理由のわからない嫌悪感や不安感によって、激しい対立・葛藤を今度は迎えてしまうことが予想されます。

ですから、先に自分と他人の軸の違い(それは最終的には観点の違いとして認識でき、結局同じものとして理知的に了解できるものだと考えられますが)を明確にしておくことが重要だと考えられるのです。

自他の違いをはっきり認識し、そのうえで、さらなる和合・統合ができれば、それは両者の違いがまだあまり見えていなかった時に、同情的に共感していたレベルのものより、もっと高次なものだと言えます。

話を戻します。

自分を中心にした選択が自分軸でのものとすると、他人を中心としたものは他人軸でのものとなります。

人から「こういうことすればいいよ」「こうあるべきよ」「これをすることを勧めるよ」「あなたはこれが使命なのよ」などと言われ、そのまま鵜呑みにしてしまう態度、あるいは、影響を受けすぎて、コロコロとその度に変わってしまう態度、人から言われたことで混乱し、何を(選択)すればいいのか、何が正しいのかわからなくなってしまっている状態・・・これらは、まさに他人軸に自分の軸を移してしまっているものと言えます。(子どもの頃はまだ自我が未成熟なので、仕方ないところはありますが、大人になれば、独立性を高めなければなりません)

自分軸のセンターにフォーカスし、一歩立ち止まり、本当に人から勧められること、言われることは、自分軸に合っているのか、自分の軸を中心とした回転に同調することができるのか(回転を大きくしたり、鋭くしたりしてくれるものなのか)を、感性と理性(両方必要です)で考慮することです。

ここで、他人からのものは悪いとか間違いとか、自分軸とは異なるから排除しなければならないものだとか、とは違うので注意が必要です。

人は一人で生きていませんから、他者の影響なしには現実世界では存在しえません。むしろ、それによって変化、成長するのが人間です。

大事なのは、影響は受けても、判断・選択・行動するのは自分であるということ、自らは「自分という国の王」であり、「他者の国の王の配下・属国・奴隷」ではないということなのです。

マルセイユタロットにおいても、大アルカナの「皇帝」(ほかのカードと関連して見る)位置、王的なものを示す王冠の象徴のあるカードなどを見ても、その重要さがわかります。

他人の影響なくして、自分を成長させることはできず、また、だからと言って、他人の人生や考えを、自分がそのまま受け入れて、まさに他人のクローンを生きるようなことになるわけにもいかないのです。

「私はわたしである」こと、これを自覚し、ここからブレなければ、あまり選択に迷うようなことも少なくなるでしょう。

ちなみに自分軸と言っても、単なるわがまま、好き嫌いの低レベルの感性から出る選択、相手や周囲の立場・状況に配慮できないものは、言わば、他人軸と自分軸がくっついてしまって(癒着してしまって)おり、「ドラえもん」のジャイアンのセリフではありませんが、「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ」のような、幼児性状態と言えるので、区別が必要です。(例えには出しましたが、ジャイアンの言葉の本当の意味は別にあるのですが・・・まあ、これは余談です)

自我の確立での大きな落とし穴は、このような自他の癒着状態(自我の未成熟、退行)と、自我(から出る欲望)の際限ない拡大(自我の肥大)と考えられますから、だからこそ、理性での峻別が求められるのです。

従って、心・感性だけの判断には危険性があるということになりますが、同時に、理性だけというのも、他人や世間(それは実体のない不特定多数の意見のことが多い)での「正しさ」に偏ってしまう(他人軸に移管してしまう)おそれがあります。

感性と理性、両方必要であると言ったのは、こうした理由があるからです。

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