承認欲求の扱い
今の時代は、簡単に自分から情報を発信できるようになり、自己アピールや、自分を他人に知ってもらうことも容易になりました。
しかし、その反面、発信したものの反響・反応がどうなるかも気になるようになり、他人から自分が認められているのか、注目されているのかどうかという感情が、多大に刺激される事態にもなって、いわゆる「承認欲求」に悩まされる人も多くなっています。
誰しも、人から認められたいという思いはあるものです。
けれども、それがあまりに過剰になったり、欲求として常に苛まされるようになったりすると問題になります。
では、現代のこの刺激的な環境において、どのように承認欲求をコントロールすればよいのでしょうか?
それについて、二・三、タロット的な示唆も含めて、書いてみたいと思います。
●刺激を遮断する
まず承認欲求において、もっともシンプルで、簡単な解決法・コントロール法は、欲求を刺激させるものから自分を切り離すということです。
SNSなど、登録は存続するにしても、できるだけ見ない、やらない、反応しないことです。
また、荒療治的には、一番自分を刺激していた媒体の登録を削除する(やめる)ことです。別にやめたからと言って、本当に生活に困るわけではないでしょう。
それを続けることで、心が悩まされることと、やめることで一時的な寂しさは味わっても、心が安定することとでは、どちらが差し引きして、よいのかという計算にもなります。案外、なくても(やっていなくても)困らないことに、あとで気がつきます。
コメントやいいね!などもの評価も必要以上にしないと決め、人の感情(人がどう思うのか)よりも、自分の感情(自分がしたい・したくない)を中心に行動します。または、極端な傾き(どちらかに徹底する方法)をあえて入れ、友人誰でも何でも必ず平等に反応するか、反対にまったくしないかという選択もあります。
承認欲求のこと以外でも、SNSなどは、結構、いろいろな偽情報が刺激として入ってきますので、昔のテレビ同様、洗脳道具と化しているところもあり、のめり込むのは危険とも考えられます。
まあ、個人をブロックするよりも、全部をブロックする感じで(笑)、つまりはやめること、見ないことが一番と言えます。
●ただ純粋に好きなことをする
素直に自分が好きだと思えることに、熱中することもよいです。
注意すべきは、その好きなことをやるプロセスと結果において、人との優劣や出来・不出来、モノの多寡、収穫のあるなしにこだわらないことです。
例えばタロットが好きならば、そのままタロットをやる(学ぶ・実践する)ということであり、他人のリーディングと自分とを比べて落ち込んだり、知識のあるなしで優劣の判断をしようとしたりしないことです。
ですから、何事もきっかけが、他人を見返そうとか、人よりも優れた特技・知識を得ようとか、そういう「比較」「突出」「差異」のためにするのではなく、ただ自分が好きだからやる、やるたいからやる、人とは関係ない・・・という状態で取り組めるものがよいことになります。
言い換えれば、純粋に自分の喜び(その喜びは、他人より優れているというものではないもの)のためにできることを行うわけです。
●霊性・スピリチュアリティの成長(発展)観点を持つ
これが今回、一番言いたいことでもあります。
タロット、特にマルセイユタロットの世界では、大アルカナの数の順番(大きくなっていく順番)が、そのまま人間の成長や完成の道筋を示しているという説があり、もはやこれは、タロット界ではよく知られているメジャーな考えになっているかもしれません。
この、タロットに描かれる「人間の成長」は、普通の成功とか、ひとかどの人間になるという意味もありますが、むしろ、もっと大きな概念・世界観から見た成長で、言わば「霊的な成長」を含むものであり、物質を超えた総合的・霊的な完成を目指すことが示されているのではないかと(個人的には)思います。
その証拠に、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄を数の順に追って見ていけば、人間よりも、次第に天体や宇宙的なものが現れ、個性よりも没個性的、言い方を換えれば差異のない共通的・宇宙的・元型的人間像へと進化しているように見えるからです。
つまりは統合であり、より高次への思考や感性を持つ存在へと成長しているわけです。
ところで、心理学的にも、欲求を人間の成長とともに、段階的に分けている説があります。すでに古典的なものになっていますが、アブラハム・マズローの欲求段階説というものです。
これには批判も多く、今ではまともに見られていないところもありますが、それでも参考になるところは多いと思います。
私の講座の発展コースでは、この説を一部紹介しており、そこからの資料を引用しますと、
このように(マズローによると)、人間は低次から高次になれば、下の欲求階層から上の欲求階層へと移っていくと謳われています。
つまり、生存的・動物的な低次の欲求が満たされれば、次に他人の愛情や承認を求める欲求が出てきて、最後には、より高次な自己実現的な欲求が出てくるというもので、最終的にはこの段階説にはありませんが、総合的・霊的な完成(への欲求)も出てくると考えられるものです。(この図の、さらに頂点に位置すると考えられるもの)
ここで注目したいのは、承認欲求が上から二段目(あるいは承認欲求の種類によっては、所属や愛情の欲求のこともありますから、さらに一段下)の段にあるということです。
低次(下の階層)の欲求は、上下の階層の欲求と関連があり、その上下の欲求にされされたり、求めたりすることによって、当該階層の欲求から逃れられると想定されるところがあるのです。
承認欲求と愛情の欲求の下の階層は、安全・安心の欲求階層であり、これは言わば、衣食住が最低限保証されているような(食は最下層の生理的欲求とも考えられますが)状態を求めるもので、これが脅かされると、承認欲求どころではないということになります。
ですから、暮らし自体が厳しい環境になれば、承認欲求に悩まされることは少なくなりますが、しかしこれでは、根本的な解決どころか、むしろ低下・後退している状態と言えます。
ですから、上の階層を見ていきます。すると、自己実現の階層ということになります。そして、マズローの図にはありませんが、さらに上には、さきほど述べたような総合的・霊的完成への欲求もあると考えられます。(マズローが言いたかった一番上の欲求は、このようなことではなかったかとも考えられます)
マルセイユタロットで言えば、大アルカナの数の上のほう(前後半で分けると11くらいから21、三段階でわけると14・15くらいから21までの階層)の目標や意図を持つということになります。
霊的な目線(成長)とは何かと問えば、一言では言い表せないものですが、見える世界と見えない世界の統合、「ひとつ」として等しく思考できる、感じられる観点を持つ発展プロセスと言えましょうか。
霊的な成長へと自分をシフトさせていくと、今までとは気になるものがまるで違ってきます。(まったく気にならなくなるわけではありません)
最初は承認欲求を刺激するものに対して、とてもばからしく見えてきますし、一時的には虚無のような状態にもなるかもしれません。
しかし、それも反転して、いろいろなエネルギー、人々の心の状態の渦巻き(ボルテックス)が伝わってきて、ダイナミックな生きる力も感じてきます。と、同時に、私たちをある段階で留めさせようとする方向(安定でもあります)と、進化・発展・破壊しようという方向性との巨大な葛藤も見て取れます。
実は個人的なもの(思考・感情)と思っていたものが、大きなものとつながっていることに次第に気がついてくるでしょう。
つまり、世界は自分であり、また自分は世界でありつつ、やはり自分の世界と他者の世界のふたつは厳然としてあって、これもまた渦巻いているわけです。
霊的な観点では、おそらく、自分の承認欲求は、醜いものでも悪いものでもないのです。ただ、欲求に気づくことに重要性があります。
あなたが認められたい・求められたいのは、本当は他人からではないのです。
ともかく、あなたが霊的な成長の観点に戻る時、これまでの現実的・物質的欲求から変化することになるでしょう。
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