運命が決められているという考え

人間の人生(一生)の仕組みを知ろうと努めていくと、やがて陥ってくるのが虚無感のような、ニヒリストのような、空しさ、投げやりな気持ちかもしれません。

人は物心がついてきますと、自分というものを強く認識するようになります。

幼く、まだ未熟な状態では、せいぜい母親とか父親、兄弟、家族、自分に関わる周囲の人たちとの区別がぼんやりつくくらいだったものが、学校へ行き出し、多くの他人と接する世界に放り込まれると、自我(自分を意識する心)の成長(発達)とともに、その分、他人との違いも意識されるようになります。

すると、「どうも人はまったく同じではない」「不平等な存在(一人一人違うもの)だ」ということが、現実的にわかってきます。

すごく運動神経がいい子もいれば、頭がよくて勉強のできる子がいる、お金持ちの裕福な家庭に育っている子もあれば、とても貧しい家の子もいる・・・すでに学校時代から様々な違い、もっといえば不公平感を味わうわけです。

だからこそ、逆に学校の先生たちの言葉や、理想的な教育論では、「人間誰しも平等」ということを強調します。

そして、さらに成長していくと、学校から社会に出ます。

そこでは、さらに過酷な不平等感を経験しますが、成熟していくことで、平等の意味合いも変わり、権利の平等性と生得的な区別(差異)との理解も増し、きちんと両者を分けて考えることができるようになります。(残念ながら、この区別が、まだついていない大人たちもいますが)

ここまでは、常識的な範囲内での「差異」とか「平等」への意識(への成長)なのですが、もっと人間について見ていこうとすると、目に見えない領域や、魂のことまで考えるようになってきます。

そこで、正しいかどうかは別としても、輪廻転生(それに付随するカルマ)のことや、前世や未来世、つまり一代限りの「自己」を超えたものを意識するようになるケースがあります。

こうして、現実的な意味での人間の一生を、通常の時空感覚(の意味)からだけではなく、超時空的な長期的・全体的視野を入れるようになりますと、果たして、人の平等性や違いというものは、本当はどういう仕組みや規則で決められているのか、わからなくなってきます。

そこで、卑近な例でいえば、人の運命とか生まれ持った気質などを(占い、その他の理論から)学ぼうとする人もいるわけで、そこから見れば、やはり人は生まれながらにして平等ではなく、あらかじめ決められた個性をもって生まれてきており、しかもそれを背負いながら一生を過ごしていくということを知ります。(何度も言いますが、それが正しいかどうかはわかりませんが)

人の生まれながらの性質を知れば(それがわかる技法を身につければ)、最初のうちは興奮し、まるで自分と他人の人生(一生)や、成功(人生における幸せ)のポイントがわかったかのようになって、勝利宣言をするような自信を持つ人も現れます。また、実際に、そういうコツをつかみ、その人の思う、よい人生をつかんでいく人もいるかもしれません。

しかし、さらに学びと実践を繰り返していくと、どうも、理論だけでは済まない(収まらない)事象、さらには運命とかカルマの問題だけでは理解できない部分も出てきます。

あるいは、逆に、人の一生は、最初から決められており、その運命(宿命)からは逃れることはできないと悟ってくることもあります。

ここでいう、「運命から逃れられない」というのは、自由意志と、ある程度の選択範囲を持ちつつも、大きな枠のような流れ(方向性・目的)には逆らえないということを意味しています。もっと別の言い方をすれば、今生で決めた大目的をはずれた選択はできないということです。

マルセイユタロットでこのことを考えた場合、「運命の輪」の輪から逃れられないのが普通であると言ってもよいでしょう。

「運命の輪」は数の上では10であり、この10には数秘的には12に至る前の、現実の構成の完成という象徴性があり、平たく言えば、現実からの支配は10の中にあると表現されるものです。

これをネガティブにとらえれば、結局、人は決められた運命の中でしか過ごすことができない、それがひとりの人間の人生だとなります。

※(ただし、決められた中でなら、選択の自由性・平等性・多様性はあります)

この認識に至ると、一番最初に記したように、空しさも現れてくるわけです。「どうせ、人生は決められているのよね」と。

私もこのにはまりました。グノーシスを探求している者にとっても、陥りやすい罠です。

この罠から今もって完全に脱出しているとは言い難いですが、けれども、これは罠でありつつ、実は恩恵でもあるのだと気がついてきました。

マルセイユタロットでは、幸いにして、10「運命の輪」の次にも、まだまだカードが番号的に続きを示しています。大アルカナで言っても、やっと半分なのです。

ということは、先(進化・さらなる認識のレベル)はあると言えます。

つまり、運命の支配を超える道があるわけです。それはまさに完全なる自由への道と言っていいでしょう。

これが一代の人生で達成できるのか難しいかもしれませんが、少なくとも、運命や決められたことだけではない世界があるのは希望でもあります。

しかし厳しい言い方をすれば、そういう世界観は現実離れしているものであり、さきほど述べたように現実を象徴する「10」を超えてしまうと、それは遊離、非現実、形のない精神や霊の世界に入ることとも考えられます。

それは現実的な意味で幸せといえるのか? 目指すべきものなのか?と問われれば、難しいところではあります。妄想と紙一重かもしれないのです。

ともあれ、人にとって(運命が)決められている(決めている)ということならば、その意味ではまさしく人は平等なのです。

しかし、決めたこと、決められている内容が一人一人違うと言えます。平等な中でも差異があり、それが個性となって表れ、さらには、「運命の輪」の中での自由選択と行動によって、(輪の中の)結果も違った人生になるでしょう。

それでも、輪の中を充実させることが、先に進む糧になるのだと考えることも、タロット的に可能なのです。ここでは詳しく言いませんが、私が得たタロットからの知見では、そう説明されるのです。

それを知った時、虚無感は少なくなり、今、この生きている人生が大事であることを、別の意味で悟ってきます。虚無感を受け入れながら、希望を見出す世界へと、さらに探求を進めていると言ったほうがいいでしょうか。

そして空しさは、自分の運命(が決められている)というものに対してではなく、自分一人だけの成功とか現世利益的享受の価値観のほうに対してになり、自身の中で、ある種のシフトが置きます。

なるほど、マルセイユタロットでは14の「節制」に向かうというモデルで、10を超えると示されているというのがよくわかります。

言いたいことは、たとえ運命が決められていても、また一見、それに支配されているようでいても、人は希望を持つことができるし、今の人生を生ききることには重要な意味と価値があるということです。

むしろそうしないと、逆に本当の悪い意味で、運命に支配されるようになってしまうのです。

そして、運命の「枷(かせ)」は、実は、大きな目的を果たすための仕掛けでもあると言えます。その気づきが自らの運命の枷(かせ)を、はずしていくことにもつながってくるでしょう。

 

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