すべては真実、すべては嘘と見ると・・・
マルセイユタロットの図像を見ていると、これまで蓄積したり、信頼してきたものをバッサリ切り落としたり、疑ったりするような内容と思えるカードがあります。
図像を並べていくと、それが一連のストーリー、流れの中でのポイントとなっていることがわかります。
このことは、現実的な意味においても、なかなか重要な示唆があるのではないかと思います、
私たちは信じているものがあるからこそ、前向きに、ポジティブに、あるいは信念を持って生きていけると言えます。
しかし、その信じていたもの(者ということもあります)が嘘であるとわかったり、それほど全面的に信用できるものではないとわかったり、今までの経験がまるで役に立たない事態に遭遇したりすると、かなりのショックを受けます。
中には人生が終わったかのような、何もかも信じられない気持ち、すべて投げやりになってしまう人もあるかもしれません。
しかし、考え方によっては、このことも興味深いことになるのです。
ここでもし、すべては嘘であるか、すべては真実であるか、または、すべては虚偽と真実が織り混ざったものか、そのうちのどれかが世界であると見ていくと、意外に納得できるものになってきます。
このうち、ちょっとした悟り感と言いますか、一見わかった風なものですと、一番最後の、いろいろなものが混ざったのがこの世界であるという認識が出るのかもしれません。
実は、「間(あいだ)を取る」とか、「中間で落としどころにしておく」というのは、何でも無難に説明できたり、時には逃げの理屈にも使えたりするものでもあります。(笑)
だいたいにおいて、「極端」というのは間違っていたり、バランスを欠いたりしたものとして非難されがちです。
それでも、ここでは、あえて「極端説」を採ってみましょう。
すなわち、すべては嘘の世界と見るか、すべては真実の世界と見るか、です。
この両方は、まったくお互いに逆説となりますが、実は、反転して同じものと考えることも可能です。
それは、「すべてが嘘という意味での真実の世界」「すべてが真実であるというように見せかけている嘘の世界」という言い方をすれば、少しわかってくるのではないでしょうか。
すべてが真実だとすれば、一人一人、そしてあなた自身が思ったり、考えたりしたことはすべて事実であり、真実だとなります。しかし、真実ではあるのですが、その考えたこと・思ったことに疑いを持つこともまた真実になります。
要するに、あなたの思い(思うという行為)が真実であり、思った内容自体は飾り・演出・題材でしかないという考えです。となると、演出の元そのものが本当の真実であり、私たちの経験している世界自体は嘘も真実もないということになります。
ただし、私たちの(見たり、経験したりしている)世界が演出上のものだとすると、演出された中の世界では真実とか嘘はあってもおかしくはないです。
わかりやすく言えば、映画やドラマのストーリーの中では、嘘もあれば真実もあるということです。
よく探偵ものとかでは、最初は嘘の証言とか誤解の目撃談とかがあって、探偵が調査と思考を巡らせて、真実や真犯人がわかるというようなストーリーになっていますが、この探偵ものの世界(ストーリー)の中では、確かに真実と嘘が明確に存在しています。
しかし、その物語を見てる私たちのほうでは、物語の中の真実や嘘が何であろうが、関係はありませんし、嘘も真実もないと言えます。
そして、ここからがまた面白いのですが、そうは言っても、物語の中で嘘と真実が分かれていないと、見ている側は面白くありませんし、物語を楽しむ(ドキドキする)意味では、物語の中の嘘も真実も、見ている者に影響は与えています。
まあ、嘘なのか真実なのかわからないストーリーというのも、それはそれで面白いのですが、どちらにしても、嘘であれ真(まこと)であれ、「これはいったいどういうことだろう?」とか「これは嘘だったのか!」とか、「うわ、真実はこれか!」みたいな心の動き・反応があるのは、見ている側にあるのは確かです。
つまりは物語の真実・嘘などを確かめるより、見ている側のほうに感情の動き、思考を巡らす動き、それらが起こることが重要なのではないかという洞察です。
大元の真実はもともとありつつも、それそのものの(大元の)世界にいることは、すでにすべで真実の世界なので疑いようもなく、ただ純粋にひとつのものだけになると考えられます。
しかし、大元から演出された物語の世界では、一人一人においても、また信じること(内容)も、考えること・感じることの違いによって、虚実が次々と変転していきます。
言わば、本当の真理と物語上の真実(嘘も含む)は別物だということです。
ここに、私たちが現実世界で生きる意味、私たちがこの(現実の)世界に浸かる(経験する、楽しむ、喜怒哀楽を味わうことの)意味があるのだと考えられますし、同時に、この世界を対象として真理を見ようとしても、物語や個人的な真理にたどり着くだけであって、それは大元の真理ではないということになります。
ということは、いくら探究を自分の(この世界の対象とするだけの)経験からしていこうとしても、グルグルと演出の中で回り続けることになります。(マルセイユタロットの「運命の輪」が象徴的です)
だから、この世界を対象としない、さらに現実を超えた思考、感覚が真理の探究では求められます。しかし、それは、そういうことを望む人に言えることであり、普通は、この演出の世界を楽しむことのほうが重要になってくるのかもしれません。
それで、最初に戻りますが、私たちが信用していたもの、信じて疑わなかったもの、または逆に、とても疑わしいと思っていたもの、嘘だと信じていたものから反転(逆転)するような認識に至ることがあった場合、それは二元の統合のチャンス、もしくは演出された世界のルールに、ほころびや穴を発見することにつながるかと想像されます。
つまりは、大ショックな価値転換があることは、真理到達の意味では大きな恩恵になるのではないかということです。
マルセイユタロットでも、大きな変革を示唆するカードたちは、そのようなポイント(の位置)に登場します。
そして、私たちは、大元の真理と、演出された世界の真理(ルール)とを見分ける能力、それぞれを感じとる力があるものと推測されます。
別の言い方をすれば、認識レベルの違いによる複数の自分がいるということです。
従って、どのレベルに主にフォーカス・同調しているかによって、真理や正しさの意味は異なってくることになるでしょう。
通常はなかなかのその違いを自覚することも困難かと思いますが、混同・混沌から、まずは分離を始め、やがて再統合をしていくことが道筋となります。まさに、錬金術で言われるところの、「解体して統合せよ」なのです。
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