牢獄のおとぎ話

今回はおとぎ話風の話をします。マルセイユタロットとも関係する話です。

内容については、正しいか間違いかの考えで判断しようとすると混乱するかもしれませんので、本当に、おとぎ話、そんな話もあるのね、くらいの感じで読んでいただければいいかと思います。

それでも、この話を読んで、もしかすると、楽になったり、共感を覚えたりする人もいるかもしれませんし、反対に反感や違和感を覚える人もいるかもですが、それもまた人それぞれで、どれが正解というものでもありません。

さて、この世の中について、皆さんはどのように感じていらっしゃいますか?

今幸せな人は、すばらしい世界、生きいてよかったと心から思える世界かもしれません。反対に、不幸でつらい状況にある人は、まさに地獄のような世界と感じていらっしゃるでしょう。

それは、個人ベース(の状況や感情)で見た世界と言えましょう。

では客観的に、世間のニュースや、自分以外のこと(社会や国、世界規模)で、これまで起こってきたことを思い返してみるとどうでしょうか?

よいこともたくさんありますが、どちらかと言えば、理不尽なこと、悲惨なこと、納得できないことのほうが多いのではないでしょうか。

もっとも、報道されることは「事件」であることがほとんどなので、その事件も、よいニュースよりも、悪いことのほうが非日常感・インパクトがありますから、マスコミやネットから流される情報は、ネガティブな世界をイメージさせてしまうこともあると思います。

しかしながら、世界はすべての面で完璧であるとは言い難いところがあるのも確かです。

ということで、仮にこの世界がすばらしい天国のような世界ではなく、逆に「牢獄」のようなところだと仮定してみます。(思いきっりネガティブですが・・・)

言わば、この世界は地獄のようなところだとする説です。そしてここからは、実際の私たちの世界というより、おとぎ話的に、ある架空の世界の話だと読んでいただければいいかと思います。

さて、この世界は牢獄の世界だとしても、実は、ほとんどの人は牢獄に入れられている自覚がない状態です。

牢獄は巨大な牢の中であり、一見したところ、自分が牢屋に入っていることなどわからず、むしろ自由に選択も可能な、広々とした、無限の可能性に満ちた世界だと錯覚しています。

事実、一応、牢獄といえど、モノにあふれ、囚人たちも生産しており、それらが流通もしています。そしてその流通をさらにスムースにするため、牢獄内だけに通じる価値券(お金)のようなものがあり、それを集めること、たくさん持ったものが、牢屋内で強い権力を持ちます。

とはいえ、価値あるモノを生産する技術をもっている人、発見した人も、それなりに尊敬されることになります。

こうした牢獄内で人々は暮らし、喜怒哀楽の感情を味わいながら、暮らしています。

ところで、自分が牢獄内にいることに気づく人も、ある日現れます。よく見ると、自分の住んでいる世界の果て(限界)に、格子や壁があることを発見したわけです。

自分が牢獄にいることに気づいた人は、それはそれは大層衝撃的な出来事だったわけですが、しかしながら、どうあがこうと、自分が外に出られないことも同時に理解しました。格子が非常に堅牢・強力なうえに、牢獄を監視してる牢番たちもいたからです。

そこで、今度は逆に、牢番とコミュニケーションし、牢屋内における自分の地位の向上、便宜を図ってもらうため、牢番と交渉するようになりました。

牢番もなぜか、そういう囚人たちを特別扱いし、いろいろと道具とか知恵を格子越しに与えました。しかし、牢屋から出ることだけは絶対に許さず、その話をすると、はぐらかされます。

実は、かつて牢屋の中は、モノもあまりなく、生産する設備や、さらにはモノを交換する券などもなかった時代がありましたが、牢番の介入により、次第に便利な道具が牢獄内にもたらされるようになり、牢獄内でのよい生活が営まれるように、様々な知恵も提供されていたのです。

その結果が、今の牢獄内の人々(囚人)の(便利な)暮らしでした。

牢獄内を自覚しながらも、牢番との癒着で自分たちを特別な存在にしている者(特別囚人)たちは、牢獄から出られないことはわかっているので、この権力や地位が脅かされないよう、世界(牢獄)の格子を隠し、限界に近づかせないように施しました。

こうして、牢獄内の多くの人々は囚人としての自覚はないものの、一応、モノと牢獄内での自由が許される世界で、それなりに過ごしていくことになったわけです。

ただし、やはり牢獄であるので、理不尽なこと、ひどいことも起きます。この中では争いや奪い合い、時には殺し合いさえも起き、価値券を得るために、何でもOKの人も出ています。

中にはそれが嫌で、平和運動をしたり、人々の調和を訴えたり、広い牢獄内で隠遁のような生活(引きこもり)を送ったりする人もいますが、どこに逃げようと、何をしようと、結局は牢獄内の中の話となります。

一方、普通の人(囚人)は、牢獄にいる自覚はないので、この世界こそすべてだと思い、人々は牢獄内で幸せを感じるための勉強をしたり、技術を磨いたり、成功を収めようと努力したりします。

それらすべては、牢獄内の生活をエンジョイしたり、充実したり、安心させるための手段・技術・知識となっています。

こうした牢獄内の成功のための知識や技術の売り買い(価値券によってなされる)もさかんです。また精神的なことでも、牢獄内(自覚はなく)で、いかに安らかに過ごすかのテーマで語る人もいます。

さらには、「神」という概念を入れることで、牢獄内が神による恩寵の場所神より与え賜れた場所として、牢獄であることをますます忘れさせられるようになります。

さて、かつて牢獄内の果てまで冒険し、この世界が牢屋であり、中の人は、自分も含めて囚人であったと気づいた人々の内には、さきほどのように、牢獄の支配層を目指す者と、牢獄の実態を一般の囚人であるほかの皆にも教えようとする者とがいました。

後者は牢獄からの脱出(脱獄)をあきらめておらず、何らかの方法はあるはずと探求を続けていく一派となります。

前者は、そんなこと(脱獄)は無駄なので、むしろ牢番と同調し、現実を見て牢獄の中の暮らしを充実させたほうがよいという一派になります。(この中にも、支配層になる自己中心的な派と、とにかく牢獄内の生活(一般の人々の暮らし)をもっといいものにするため、牢番からの情報を利用しようとする他者貢献的な派などが出ます)

おそるべきことに、囚人は死んでも、牢獄から出されることはなく、魂も再び、牢獄内に転生してくる構造となっています。中には一部、牢番に転生する者もあるという話ですが・・・

果たして、牢屋とは何なのか? 牢番とは何者なのか? そして、この牢獄はなぜ作られており、囚人たちはどうして囚人なのか? なぜ、牢獄内がこれほどまでに自由で、モノが多様にあることを許されているのか?

脱獄は許されないのに、牢番が牢獄ライフをよくするために、知恵や技術を一部貸してくれるのはなぜか? 仮に脱獄すれば何が待っているのか? 牢獄(牢屋)を脱出しても、また新たな壁が現れるのではないか? 囚人たちの真の自由とはどのような状態なのか? 囚人(無知)でいることのほうが幸せではないのか?・・・など、

このおとぎ話には、いろいろ考えさせられることがあるのではないかと思います。

牢獄に天国と地獄があるのか、はたまた牢獄外にあるのかも、想像してみると面白いでしょう。

 

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