統合による豊かさ、分離による豊かさ
マルセイユタロット的には、この世界と言いますか、宇宙には、いわゆる陰陽とも表現できる「二元」の質、エネルギー状態があるととらえられます。
それは、「ある」というより、そのような「見方のほうがある」と言ったほうがいいかもしれません。
それでも、おそらく、私たちがリアルに体験している(住んでいる・存在している)この現実世界の中では、ふたつの違うものが対立(分離)したり、混合したり、循環したりすることで、様々な違いと、時に一体感も味わえるのだと思います。
つまりは、私たち自身が自分として存在していると感じるためには、少なくともふたつの違う性質の表現が必要であるということです。
考えてみれば、例えばデジタル・電気信号の世界でも、オンとオフ、1とゼロ、電気が流れているか流れていないかみたいな、ふたつの状態で、画像とか動画など、リアルと見えるあらゆる世界を表現しています。これもただ一種類だけなら、映像も見ることができないわけです。
つまるところ、これかあれかの違いが、すべての差異・個性を生み出していて、逆に言えば、すべてはひとつの、それぞれ違う表現に過ぎないと言えるのかもしれません。
マルセイユタロットはこの二元の統合、一なるものに回帰する思想を持ちますが(と言っても、あくまでそれもひとつの考え方で、絶対ではありません)、同時に、逆方向とも言える、ふたつからさらに分かれていく方向性も示唆していると見ることが可能です。
これは小アルカナを含むトータルなデッキとして見れば、よくわかることです。言わば、大アルカナに向かう方向性と、小アルカナに向かう方向性の違いです。
一般的なスピリチュアルな(ことに興味のある人の)関心は、分離から統合、すべてがひとつになるような、全一的境地、いわば悟りのようなものを目指す方向性にあるようです。
これはさきほどの、二元分離(ふたつの性質の表現)が個性やバラエティを生み出すということから考えると、ふたつを統合してひとつになることは、逆に個性がなくなる、味気(色が)ないものになる世界を目指すということにもなりかねません。
ところが、スピリチュアルといわれる(内容やタイトルにある)人達のブログやSNSなどのものでは、よく豊かさということが言われ、その実現方法や目的が書かれているようにも思います。
この「豊かさ」というものが、“すべてある状態”だと仮定すれば、それは確かに「すべてある」のですから、豊かと言えなくもないでしょう。
ただ、「すべてある状態」とは、必ずしも、私たちが思う物質(モノ)や形の状態ではなく、まだ何ものともつかぬ原初のエネルギー状態だとすれば、それは「すべてである可能性」とは言えるものの、物質の形では顕現している状態ではありません。
ですから、「豊かさ」という定義が、あくまで物質の形まで変化している、物質の次元(物質としての表現の形を取ること)においての豊かさでなければならないとすれば、それは豊かさとは言えないのではないでしょうか。
言い換えれば、ひとつになるという統合の方向性は、物質の形を希薄化していくようなものと想像することもでき、もしスピリチュアルに関心のある人が、統合と同時に物質の豊かさも実現しようというのであれば、そこには矛盾があるようにも思えます。
それでも、こうも考えることができます。
統合やひとつの方向性は、すべての可能性に戻ること、その状態そのものになることだと言え、すると、すべての可能性そのものになるわけですから、文字通り、すべてを実現する「可能性」は高まるわけです。(高まるというより、それそのものになるわけですが・・・(笑))
「ひとつ」という状態では、物質という形はなくなるのかもしれませんが、物質の元にはなるわけですから、ここから次元を下降していけば(状態を変化させて行けば)、物質化していくことも可能です。
しかし、もともと物質的、分離的世界にいて(それが通常の現実認識の世界)、その状態がノーマルで固定されていると、自分の中での認識もそれで常識化され、二元分離が普通であり、結局は、自分と他人、自分とその他もろもろ、いろいろの世界という図式になります。
それは、自分にはこれが足りない、他人にはあれがあるとか、自分はこれが優れている、他はあれがダメだとか、そういう差異、差別、区別が明確に意識される世界観となります。
この状態は、自分で制限をかけていると言ってもよく、自他が分離しているからこそ、限界というものを認識(設定)しがちです。
つまりは、この世界は豊かではない、限界である、特に自分は・・・と区別(制限)して見てしまうのです。
実際、形がメインの世界ですから、形、物質としての豊かさの表現が自分にない(自分が持てるようにならない)と、まさにリアルに豊かさなど実感しようがないのです。
さらに、他人の物質的な豊かさを見せつけられると、それと比較して、自分のほうはそこまででは「ない」という状態が、よりフォーカスされてしまいます。
これも分離の意識と、物質・形が豊かさによって「ある」ということを認識する世界だからです。
しかし、統合方向に認識をシフトしていくことで、物質的な形は希薄化(抽象化)していきますが、かなり究極まで近くなると、先述したように「豊かさの可能性そのもの」、原初の状態に回帰してきますから、実感という表現とはちょと違うかもしれませんが、認識の確かさとして、分離していた時よりも、はるかに豊かさがあること、豊かさ(エネルギー)そのものに接するようになる(そのものになる)と思います。
例えれば、金塊の形でしか「金」だ思わなかった人が、溶解した液体のような金も、実は金であることを知るとか、固体から液体、液体から蒸発して見えなくなった気化状態のものも、空気中には存在していることを実感するという感じでしょうか。
これを思考はもとより、感情も体感も含めて、トータルに実感する(すなわち、それ自体が統合ですが)ことで、ただ空想とか、夢想とか、理屈とかだけで理解するのでない状態にもっていくことが、統合による豊かさ(霊としては濃く、モノとしては希薄)と、実際のモノの豊かさ(モノとしては濃く、霊としては希薄)とを共存させていく鍵になるのではないかと推測します。
おそらくスピリチュアリストの方が、スピリチュアリズムで覚醒していくと、精神や霊(スピリット)だけではなく、物質的な豊かさの実現も可能だと述べられるのは、普通は矛盾するようなことではあっても、そうした、「豊かさの可能性の次元」を実感するレベルまで高めてのことを言っているのだと思います。
それは意識においての分離の統合とも言え、別の言い方をすれば、制限されていた枠の解除です。
こう書けばシンプルではあるものの、実際にはそう簡単なものではないでしょう。
なぜなら、最初のほうから言っているように、自分が自分として存在するために、(二元)分離世界の認識がセッティングされているので、現実の通常意識のままでは、跳躍した感覚が起こりえない(起こると自己崩壊、ゲシュタルト崩壊になる)からです。
意識的(意図的)に、認識を変える努力(修行・修法)をするか、これまでの認識・世界観が激変するくらいの、ものすごいインパクトのある体験をするかということになります。
まれに、前世データのような、時間軸を長大なものに置き換えた(そういうデータを入れることを仮に考えた)場合、今生で努力もなく、簡単に認識が変わったという体験を持つ人もいるかもしれません。また前世とは関係なく、もとともそういう素養というか、特別な人もいる可能性も否定できません。
いずれにしても、統合の方向性は浮世離れしていく(笑)方向性であり、分離感がなくなって、別種の幸せ感(全体としての一体感)を得ていく代わりに、個性や形というものも希薄になっていく世界です。常識やルールも、普通とは変わっていきます。
そこに物質性を入れたり、具体的に表現したりするということになると、そもそもは矛盾していく話なのは前述した通りで、それも理解しつつ、それでも、すべての可能性を実感することで、一度大きな存在になった自分が、再び現実の元の自分に戻ったとしても、その自分は、おそらく内的に意識が拡大した別の自分であり、かつてあった制限ははずされ、物事の形としての実現性も、以前より飛躍的に「ある」「できる」状態になっているのだと想像されます。
ということで、スピリチュアル好きな人に、物質的な豊かさの希望を入れておきたいと思います。(笑)
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