「法皇」、「隠者」に見る老い
人間、誰でも健康でありたい、豊かでありたい、自由でありたいと思うところはあるでしょう。
しかし、年を取ってきますと、豊かさはともかく、健康でなくなってきたり、肉体的自由度が少なくなってきたりします。
これは人というか、生物として生まれた宿命のようなものかもしれません。
ところで、物事・自然にはサイクルがあります。何かが始まり、次第にピークを迎え、やがて衰え、終わっていったり、滅んだりしていくサイクル・回転です。ただ、終わるだけではなく、さらに新しい形で再生・復活する(また始まる)ことも一連の流れにはあります。
人の一生もひとつのサイクルとして見れば、若年から青年、熟年、老年へと変わっていくのは、まさに私たちも自然の一部である証拠と言えましょう。
と言っても、最近はアンチエイジングなどで、肉体的にも若さを保ついろいろな方法が試されていますし、科学や医学が発達すると、SFばりに肉体を交換したり、衰えた部分を自分の細胞から新たに創ったりして、補完するということもあるかもしれません。
するとサイクルはどこかで停止したものになり、人は自然とは切り離された何か特別な存在、異物のようなものになっている可能性もあります。それは幸せなことなのかどうか、議論の分かれるところでしょう。
とにかく、現状では年を取れば、どうしても肉体的には衰え、劣化は否めず、やがて死を誰もが迎えるのは必然です。いわゆる老いと死の問題は、否応なく訪れ、向き合うことになります。
鍛え方や健康に留意する人の程度にもよりますが、年を取ってくれば、何かしら毎日、どこか調子がおかしい、万全ではないという状態になってきます。
若い頃にはどこか変だという時は、明らかに病気やトラブルであり、逆に言えば原因と対処(治療)もしやすく、また治りも早いのが普通です。従って日常的に違和感を覚えるのは極めて少なく、もともと病気や障害がある方は別として、普通はほぼ毎日健康、という感じです。
しかし、老年、いや最近では中年以降の場合でも、病気というほどではなく、かと言ってやはりどこか痛いとか、おかしいという感じがあり、病院へ行くかどうか悩む、あるいは行ったところで年齢による衰えが主要因というもので、結局すっきりしないままの日々が続くということが多くなるかと思います。
話は変わるようで実は変わらないのですが(笑)、マルセイユタロットの大アルカナの絵柄で、老年の人に見えるカードは、「法皇」と「隠者」が顕著です。
もしかすると「13」や「皇帝」も、見ようによっては老人的に見えるかもしれませんが、誰が見てもというレベルで言えば、やはり「法皇」と「隠者」の二枚となるでしょう。
カードには数があり、「法皇」は5で、「隠者」は9です。マルセイユタロットをもし数秘的に見るとすれば、そのひとつに「10」のサイクルで見る方法があります。つまり、1から10までの順や流れを数の意味的に見ていく考え方です。
すると、「法皇」と「隠者」では、5よりも9が進んでいることになり、「5」の象徴性に、4の加算、段階としては3つ進み、「9」という数になっていて、しかも10という終わりや完成のひとつ前にもなっています。
ここから、5の「法皇」は老年と言っても、まだまだ自らが現役の部分もあり、また現役の人たちと接するところもあるように想像できます。最近の高齢者のような感じですね。
実際、マルセイユタロットの「法皇」の絵柄も、弟子とも、聴衆とも考えられる何人かの人たちが集まって、法皇とおぼしき人物の話を聴いているように描かれています。
一方、「隠者」はただ年老いて、杖もついている人物がただ一人、孤独にいるだけです。けれども、意気消沈したような顔ではなく、ランタン(灯火)を掲げて、何かを探していたり、人を待っていたりするかのようにも見えます。
「法皇」と比べると、さきほどの数の話にもあったように、もっと年齢が進み、あまりほかの人と交流もしないよう(行動的にできなくなってくるとも言えます)になっているのかもしれません。
カルト映画の巨匠にして、タロット研究家、マルセイユタロットリーダーでもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、この「隠者」は後ろ向きに進むという話をされています。
バックしながら実は進んでいるというのは奇妙な感じですが、数のうえでは、次の10に向かっているわけで、しかし、進み方が後ろ向きであるということです。
このイメージから、スーと幕引き、引退、表舞台から消えていくような感じも受けます。
そこで、最初の老いと死の話に戻ります。
私たちは、年を取っていくと、人間のサイクル(それは数では10で例えられる)の終わりに向かっていき、肉体的には衰えていきます。最初(初老)は、「法皇」のように、まだ体も思考も働いていて、現役の人たち、若い人たちと一緒にいて、自分の経験を伝えていくことができますし、そうすべきであろうとも言えます。
しかし、さらに年を重ねていくと、もう肉体的にはかなりキツくなり、思うように行かないことが増え、行動は制限されます。すると、したいことや欲求は物理的にはかなわなくなることが多く、当然、それにこだわればこだわるほど、苦悩や飢餓感が増します。
従って、よく言われるように、執着を捨て、肉体的・行動的なものから出る欲求は浄化・昇華していく必要が出てきます。「手放し」のようなことですね。言わば、「隠者」のようにスーと幕引きしていく準備がいるわけです。
しかし、マルセイユタロットの「隠者」のアルカナ・秘伝には、いろいろと、「隠者」の名の通り、文字通り隠された意味や象徴性があります。
何もしないわけではありませんし、すべてを諦め、いい加減になって引退するわけでもないのです。
彼にもやれることはあり、肉体的な不自由があるからこそ、精神的・霊的な自由を、より実感し、解放することができるようになるのです。彼はもう現実の些末なことにとらわれことはなくなり、ひたすら魂の求めに応じ、肉体世界の感覚から逃れ、本質的な自由を探究している存在なのです。
10という一つ人生の終わりに向かう直前で、極められたのが「隠者」です。あとはスーと、サイクルの終わりに後ろ向きに進んでいきます。
それでも、消滅ではありません。先にも述べたように、サイクルは回転し、再生・復活を遂げるもの(新たな創造を行うもの)です。マルセイユタロットは、11からもカードがあります。これが何を意味かるのか、考察するととても面白いことになるでしょう。
老いは私たちの誰にでも確実にやってきて、最後は死ということになるのですが、肉体的衰えはあっても、いやそれがあるからこそ、精神や霊的な開発、充実を逆に図るチャンスでもあり、現実を超えた世界に(通常は死後の世界とも言えます)参入する準備をします。それは現実的には年を取った老人ではありますが、反対に、霊的には若者になることでもあります。
事実、10「運命の輪」を超え、11の数を持つ「力」の女性は、若々しい姿で、マルセイユタロットでは描かれているのです。
コメントを残す