全体と個性 自分のバランス性
マルセイユタロットにも「太陽」と「月」というカードがあるように、人や物事には二面性があると考えられます。
天体の太陽も月も、一日の昼も夜も、なくては困るように、それは、どちらも必要なのもので、また、本当はどちらかで決まるものではなく、ひとつのものがふたつの表現を取ったものに過ぎないと、最近では多くの人に理解され始めています。
この考えでいくと、太陽も月も同じものということになります。面白いことに、太陽のほうがはるかに巨大なのに、地球から見た場合、太陽と月は同じ大きさに見えるようになっています。これがただの偶然なのか、神のデザインなのか、とにかく興味深いところです。
余談ですが、皆さんは常識的な科学知識・天文学にふれているので、太陽と月の大きさの違いがわかっているため、たとえ同じ大きさに見えたとしても、それは遠近感によるものだということがわかっています。
しかしながら、果たして本当にそうなのでしょうか?という問いかけも、あるにはあるのです。
私たちが普通に三次元感覚で見ていると、宇宙の天体に限らず、地上の建物や景色についても遠いものは小さく、近いものは大きく見えています。
それでも、純粋に目の前に見えている景色自体の存在を認めると、別の言い方をすれば、キャンバスに絵が描かれているようかのように見ると、立体的ではなく、平面的に景色があると感じ、距離によって物体の見え方(大きさ)が変わるのではなく、私たちが物体の大きさを変えているという反転した見方もできます。
まあ、それは錯覚で、バカげた話だと笑っていただいてもいいのですが、ここで言いたいのは、私たちの通常的・常識的な観点は正しいのか? 見え方というのはひとつしかないのか?ということを問題提起しているわけです。
占星術の真の見方も、今、表立って伝えられているものとは逆の観点になるのだと私は思っていますが、それを説明しても、物質的・三次元感覚にとらわれている間は、なかなかわからないと思います。
話を元に戻します。いずれにしても、二面のものであっても、さらには多数のひとつひとつが違うものであっても、それらは究極的にはひとつからの別の表現であれば、全体としてはバランスが取れていると言えます。言い換えれば、それぞれが役割や機能をもっていることになります。
まさに、全体でオーガナイズされながら、一人ひとり、ひとつひとつ、役割や表現、個性をもって流動していくという世界観が見えてきます。
ここで、問題なのは、「全体」と「個別」の齟齬といいますか、アンバランス性が生じる場合です。
「全体」は、すべてを統括し、いわばひとつの存在みたいなもの、神のようなものと言えますから、それ自体がアンバランスになることはありえないと考えられます。
ですから、問題となるのは、個別側のアンバランス性です。
天体でいえば、例えば月がその役割を忘れ、太陽になったり、ほかの惑星になったりしてはまずいわけです。同じように、私たち一人ひとりも、何らかの役割・機能があり、そこから大きくはずれた状態になってくると、その存在性が危ぶまれることもあるかもしれません。
しかし、ここにも全体のオーガナイズが働き、あるもの、ある人がアンバランスになっても、スライドするかのように、ほかのものや人が調整すれば、全体とししてのバランスは保たれます。
人間個人の肉体や精神にも、このことが言えるかと思います。
どこか不都合や不具合が起こっても、しばらくは、ほかの部分でカバーさせ、何とか調整を図り、やがて機能が戻れば、もとのバランスに回復するという仕組みです。
ケガをしたり、病気になったりしても、健康を取り戻せることができるのも、このようなバランス調整・回復機能があるからと言えるでしょう。逆を言えば、それは「全体」としての何か、私たちを統括する何か(脳なのか魂なのか、それはわかりません)があるということです。
ところが、元に戻せないほどの衝撃、不均衡、問題が起これば、悪くすれば、生物の場合、死んでしまいます。その個別の存在表現のバランスが崩れ、もはやその状態では保てなくなって、別の形態、すなわち死ということで、全体とのバランスを取るのだと考えられます。
ですから、極端にポジティブ、必要以上にネガティブみたいな、無理やりな転換、行為というのは、時には自分の中で不均衡を生じさせ、その回復に大きな反動が来たり、ひどい時には、精神か肉体の病気になったりすることもあるわけです。
自分にとってのバランス、役割というものが個々にあるので、それからあまりにかけ離れたことを行うと、バランスが壊れ、その修正に時間がかかったり、大変な状況になったりするわけです。
ただし、これは自分を変えてはいけないということではありません。
自分を変える場合、今のバランス性というものがあるのですから、そのバランス性を保つと当時に、次のレベルへと上昇、拡大していく必要があるのです。
それは、今のバランス性を無自覚から自覚的なものへと変えていくことなのです。これはマルセイユタロットでは、「運命の輪」で象徴される、ひとつの術のようなものになりますが、要するに、自分における二面性の潜在的なものを、表面化して目に見えるようなものにする、自覚できるようにするということです。自分のおける、プラス・マイナス、いい・悪い、表と裏、ポジとネガを認識して統合(裏の発見と受容)するみたいなことです。
シンプルに言いますと、自分における次元上昇を目指すということなのですが、それは力ずくで進む(上がる)ものではなく、きとちんとした内的・外的プロセスを辿って行われるものです。
自分に変化がない、自分に変容が起こらないと言っている人は、劇的な変化が短期間で起こるのだと勘違いしていたり(実はすでに少しずつ変容プロセスは進行しています)、本当の意味で、自分の別の(隠れていた)部分を見ようとしなかったり、避けていたりしているおそれがあります。そこに非常に強い、自分の今の自覚意識ではわかりづらい、不安と恐れが隠れていることがあります。根強い信念とか、過去のトラウマなども考えられます。
また、どこかあきらめとか、自己卑下、自分に自信が持てない、生きる価値がないと思っているところもあるかもしれません。結局のところ、物語(作り物)でもいいので、全体に対する自分の役割、使命感、つまりは個性(自分としての)的な生きる意味を見出す(ストーリーとして創造する)ことです。
こう書いていて、ふと思い出しましたが、私の好きなアニメ作品である「化物語」(ばけものがたり)シリーズでは、バランスを崩した存在(この場合は怪異・妖怪のようなものの存在なのですが)は、「暗闇」というものに飲み込まれ、存在が消されるという設定になっており、暗闇から逃れるためには、この世に存在する意義、意味、整合性があればよいということになっていました。この原作者の西尾維新さんには、いつも驚かされるのですが、まさにそのようなことなのです
つまり、自分に生きる意味を創造することで、暗闇(「全体」ともいえますし、自分の破滅願望とも言えます)によって排除されることを防ぐことになるのです。
自分の生きる意味は、他人が創造・付与することができません。自分で見つける(創る)ものです。しかし、他人がいるからこそ、人とは違うと思う自我もあるわけで、自分の個性、役割も他人がいてこそ決められるのです。だから、自分の内にすべてがあるとか思わないで、答えやストーリーの材料は、実は外側にあると考えるのもよいのです。
それは人から自分らしさを言われることでもよいですし、助言を受けることでヒントが出るかもしれませんし、引きこもらず、少しずつでも、これまでとは違った経験や、人と交流していく中で、自分の個性、役割が際立ってくるかもしれないのです。
また、誰か愛しい人のために生きるというストーリーも、自分の生きる意味を見つける最初のきっかけとしてはありなところもあります。
ともあれ、あなた自身が、全体からその状態(つまり生きているあなた自身の状態)でのバランス性が保てないと認識されないように、生きる意味、価値を見出す、作り出すことです。
そして、もっとレベルの違う、表現の違うバランス性が出せないかと、自分を今より上昇、拡大させていくのも面白いでしょう、それがすなわち、成長と言えるのです。
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