「気づき」について。

気づきというものは面白いものです。

気がつくのですから、今までは気がついていなかったことを示すわけですが、単に忘れていたことに気がつくという場合もあるので、知らなかったことを知るというニュアンスとは違うところもあります。

そして、私たちは、気づきといいいますと、一回で起こるとか、今気がついたことが「気づき」だと思うことか多いですが、「気づき」は必ずしも一度で起こるとか、今の気づきが最初で新しいものというわけではないのです。

実は、今気づいたことに対する、小さな気づきの過程が、何度もすでに起こっていて、そのことを忘れていただけかもしれないのです。

人によっては、その小さな気づきの最中に、あとで(最終的に)気づく大きなものに、まさに「気づいて」しまうこともあるかもしれません。

一回で大きな気づきを得たという(思う)ほうが、劇的で、さも、その「気づき」がすごいものかのように感じられるので、無意識に、自分の気づきを演出している場合もあると考えられます。

その演出が、細かな気づきや、その過程の忘却という形で行われることもあるでしょう。

例えば、人の書いたブログとか、SNSの投稿で、「私は気づきました!」と書いている内容のものをよく見かけますが、その人の過去の投稿などを読んでいますと、すでに、その気づきの状況は起こっていたり、内容は同じなのに、自分は「気づき」として書いていなかったり(まさに「気づいていなかったり)する場合を見かけます。

他人から見れば、それはもう以前にあなたは気づいていたのでは?とか、すでに前に気づいていても、おかしくはなかったのでは?と思うようなことがあるわけです。

つまりは、本人自身の気づきは、本人でしかわからない、本人のタイミングで起こるとも言えます。(そう自分が演出していると言い換えることもできます)

ですから、いいように考えれば、何かのセミナーを受けたり、学びをしたりしても、一緒にやっている人が、「気づいた」とか「変化した」とか言っていても、それはあくまでその人、本人のペースで起こっていることであり、自分自身はまったく気づきがないとか、何も変わらないと思うようなこともあったりしてもよいのです。

それでも、少しずつ、自分の中(自分のペース)では、ある気づきや変容に向かって、準備が進んでいるということも考えられることになります。気づきというものは、マイペースなのだと思うとよいでしょう。

マルセイユタロットでは、自分を「愚者」と見立て、その「愚者」が21枚のほかの大アルカナカードで象徴させられることを旅したり、経験したりするという考え方があります。(これに基づくと、小アルカナは、さらにその旅や経験の細かな方法など示す、という考えにもなります)

この場合、大アルカナの数の順番とは関係なく見ることも可能で、いわば、21枚のカードを縦横無尽に、あるいはランダムに経験していくとも言え、もし、「気づき」をテーマとすると、その「愚者」が飛んだカードの気づきが訪れる、あるいはヒントや過程になると考えることができます。

タロットリーディングで、自分にとって、違う質問でも、同じカードがよく出る場合がありますが、これなどはわかりやすく、そのカードに関する気づきや学びが、今テーマとなっていると考えることができます。

しかし、そういうわかりやすい形だけではなく、いわゆる気づきの方法や表現をカードが象徴させていることもあり、それだと、カードの種類は違うことが出るのが普通です。

言い換えれば、、ある気づきのテーマや目標に対して、カードはそのステップにおける小さな気づきや、気づくための場所や方法、人物などを表すことがあるわけです。

私たちは、スピリチュアル的にいえば、皆、神性を宿す存在です。ということは、気づきというのは、先にも言ったように低次の自分の生活を劇的にするための演出にしか過ぎず、神性的な高次の自分は、当然ながら、すべて知っているわけです。ですから、気づきという概念そのものが起きません。

わかっている、知っているのに気づくというのは、忘れさせられているか、忘れているふりをしているからです。

また、こうとも言えます。

気づきとは、自分の中のモードのチェンジであると。

先述したように、人間の中には、高次で神性的な部分と、普通で、忘却状態にある低次部分とがあると考えられます。

通常は、後者のモードで生きていますが、何かの瞬間に、前者のモードにシフトしたり、そのほうが強く出たりすることがあり、そうすると、「知っていたということを知る(戻る)」という感じになり、それがすなわち、低次モード側からすると、「気づき」として表現されるものになるということです。

気づくと安心したり、穏やかな自分になったり、癒しや治療が発生したりするのも、元の自分といえる高次の自分の状態に一時的に回帰したからともいえます。

心理的には、自分の不足を周囲に投影して補おうとしますので、周りの人間や物事から気づき(不足していた、わかっていなかったと思えること)を示唆されたり、与えられたりすることもあるわけです。

要するに、それは自己の完全性が、分離しているよう感じているだけの話です。(完全性の中には、光も影も含まれます)

となれば、気づきの方向性は(に向かうこと)でもいいですし、(を観察したり、もたらされたりすること)でもいいことになります。

「気づき」も「自分で気づかねばならない」とか、「この自分に起こっていることは何? 何を私に知らせようとしているの? そのことに何とか自分で気づかねば・・・」と、あせる人が見受けられます。

これまで書いてきたように、「気づき」は、普通モードの自分では、小さな積み重ねの結果とか、環境や他人が知らせてくれたり、教えてくれたりすることもあるわけです。

今その時に絶対に気づかないといけないというわけでもありませんし、わからないならわからないで、放置していても、自分のタイミングによって、やがて気づくことがあると思います。

ロールプレイングゲームの世界では、ピースがそろってはじめて、本当のイベントが発生する仕組みになっています。

「気づき」にも、そうしたことがあるのかもしれません。ある条件が整って、大きな気づきが訪れることもあります。

それから、タイミングだけではなく、気づきのレベル(深さ)もあります。

気づいたと思っていたことが、あとで、実はまだ浅かった、それはそれでよかったのだけれども、別の意味もあったのだと、新しくさらなる奥底の(あるいは、上の)気づきに至ることがあります。

てすから、注意点としては、浅い気づきを連発している場合もあって、それは、堂々巡りに近い状態のことがあるのです。

言ってみれば、城の外周ロードだけグルグル回り続け、いつも城があることは見えていて、それが気づきだと思っている状態(最初に城が見えた感激、気づきは大きかったかもしれませんが、同じ気づきレベルで足踏みしている状態)に留まっているわけです。

もうそろそろ、入り口を見つけて、城、本丸に突入していくことが求められているのです。

それは、「気づき」という言葉を、免罪符や逃避に使わないことでもあります。そういう人は、おそらく、自分でも、その気づきはもう卒業して、次の段階の気づきに進まねばならないことは自覚しているはずです。

二階に昇る(あるいは地下に降りる)梯子は見えているのに、そこに手や足をかけようとしない状態です。勇気をもって、気づきの梯子を昇降することも大切になります。

あせらず、深刻にもなり過ぎず、しかし、真摯な態度で、気づきを求めていくとよいでしょう。マルセイユタロットは、その力になってくれると思います。

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