自分の信念(体系)を治癒するもの

今年の夏は異常に暑く、体調を崩す人も多かったのではないでしょうか。

そして、いまだ体調が思わしくない人もいらしゃるかもしれません。

私も昔は暑さには強いほうと思っていたのですが、そこそこの年齢になってきて、普段、あまり体力的なケアをしていないこともあってか、今年の暑さはかなり堪えています。いろいろと体に不調が出て難儀していたところです。

まあ、私の信念体系の中のひとつに、「自分は体が弱い」というものが入っているので、何かとその通りになるわけで(苦笑)、これもいわば、自らのせい、自分が起こしているといえばそうなのかもしれません。

ただ、自分が大変さを経験していることもあり、信念うんぬんはともかく、何か起こっていることで、つらい、苦しいという問題状況にある皆さんの実際の気持ちは、よくわかるものです。

たとえ心のデータがそれを起こしていたとしても、痛さやつらさへのケアも必要になります。

こういった信念体系(平たく言えば思い込み)は、実際に何か「あること」が生じて、その印象が、心のデータに刻み込まれるという仕組みがありますから、まったくの妄想や事実とは異なる想像によって、というものは少ないかと思います。

要するに、その人の思い込みは、それを信じ込むに至る何かの事象があったわけです。

ただ、それが、それ以降の人生にも「事実」として必ず法則のように起きるのかというのは、また別で、最初に起こった時はまさにそうであっても、その後も、すべてはそうなるとは限らないという、打ち消しデータが入らず、消されなかったということですね。

強い信念・思い込みになるためには、繰り返しも重要で、人間、三回、同じようなことが起こると、「これは偶然てはない」と思い、四回目になると、「これはもう間違いない」と確信します。(必然、運命であると思い込む)

私の場合も、実際に一般の人より、自分の体が弱いと思える事柄や事件を積み重ねてきたところがあるから、信念となってしまっているわけです。(笑)

そんな中で、その強化された信念体系を崩していくのは容易なことではありません。

なぜなら、それは、その人自身の個性やアイデンティティにもなっているからです。ある信念を抱くことは、今までの自分の歴史の証明みたいなもので、自我として、「わたし」であることを強く意識させているもののひとつです。

信念を失うことは、自らの歴史を手放すようなもので、つまりは、守ってきた自分を捨てることでもあります。

それが不幸や失敗、生きづらさを現状では引き起こすことが多くなっているのに・・・です。

もういらない信念、バージョンアップや浄化・消去しなければならない潜在的なデータは誰にでもあるものてすが、なかなかこれの処理がうまく行かないのも、まず信念だと気づかせないようにする働きもあるからと考えられます。

こういったデータの気づきや変換、浄化は、心理的な専門家やスピリチュアルな方のサポートでうまくいったり、自分自身がそうした(内的)構造を学んだりすることで、活路が開かれることはよくあります。

やっかいなのは、自分自身のデータ・信念だけに終わらず、それがいわば、人類の集合的な(無)意識の構造ともつながってしまっていて、自分の気づきだけでは処理しきれないことがある場合です。(一度変換・消去したと思っていたのが、再発するようなもの)

まあ、これも先に集合意識のデータがあり、それと似たような環境や事件、問題に遭遇したがゆえに、自分の個人的部分と共鳴して、集合的意識のデータが自身に強く刻み込まれたということも考えられ、後先(原因と結果)が逆だとも見込まれるのですが、どちらにしても、結果(現れている問題状況)としては同じだと思います。

このように根深いものとつながっているものは、通常意識の部分ではどうすることもできない(行動したり、判断したりはできるものの、根本の浄化にふれられない)ことが多く、それは結局、神性的な何か、いわゆるスピリチュアルでいう高次の存在、エネルギーによらねばならないことがあると考えられます。

いや、そもそも通常の意識は、起こっていることを感情的、あるいは思考的にただ味わうか、せめて信念を言葉(つまり人間的思考)としてつきとめるくらいだけで、その根の部分の浄化や消去、変換自体はできないのではないかと思われます。

たとえカウンセラーやセラピストなどの方に手助けしてもらうにしても、最終的に治癒を施すのは、自分自身の神性的な部分、力でないかと想像しています。

これをもし、マルセイユタロットで表現するとすれば、「力」「吊るし」「13」「節制」の数の順に並ぶカードたちになるでしょう。

中でも、「吊るし」の状態が重要で、ある程度の探求(原因追及)のあとには、すべてを内なる神性に任せる、ゆだねることにより、神性的な「力」(フォース)が発動し、自身だけではなく、集合的意識の部分まで介入し、そぎ落とし、浄化し(13)、救済が働く(節制)と見ることができます。

しかし、人は、いきなり、ゆだねる気持ちになりにくいのもありますから(疑いや不安がつきまとうもの)、先述しように、通常意識・表面意識での、無駄とも思える探査とか追及をしていくことで、最後には、ついに、自分をゆだねなければならない心境になることがある気がします。

もちろん、最初から瞑想的な境地になり、すべてを大いなるもの、神性的なものにゆだねられる状態になる人もいるでしょう。

結局、その人に応じた気づきや浄化のプロセスというものが、すでに組み込まれているのかもしれません。

またサポートしてくれる人との出会いも、縁や見えない自分自身の内なる働きがあり、一回ですべてよくなるとか、その人がすべて苦しみを取ってくれるなどというのは「悪魔」的であり、自分の「神の家」(神性)に気づくためには、むしろ、自身の力を(段階的に)目覚めさせるサポートがよく、一回ですべて解決することが必ずしもよいとはいえないと思います。

それはタロットリーディングにも言えることではないかと、私は思っています。

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