成長を実感できる世界
スピリチュアルな世界では、人は実は完全性をもともと持っているという説があります。
しかし、現実においては、人により、能力や資質の違いもありますし、生まれ持った環境にも、平等ではないのが普通です。
言ってみれば、一代限りの人生で見ると、理不尽極まりないところもあるわけです。まさに生まれながらにしてラッキーやアンラッキーがあるようなものです。
そこで、考え出されたのが、輪廻転生など、生まれ変わりによる(超)長期的な人生への視点です。
人生がこの一代限りの自分ではなく、以前にも生まれているし、将来(未来)にもまた新しい、まったく違った人生を歩むことになるのだと設定したほうが、不公平感はなくなります。
さらにここに因果応報的な、カルマ法則を入れていきますと、いいことも悪いことも、さらに長大な周期からの観点で平等になってくると言えましょう。
ただ、このシステムが本当かどうか、ただの概念として人が生み出しているものなのか、そこは普通はわからないと思います。
また、単純な、同じ人間の魂が、記憶をなくして、また輪廻転生するという説では、いろいろとつじつまの合わない点も多く、もっと集合的な意識、あるいは生きた人(生き物)全体のデータが集まる場所のようなものを仮定しないと、システムにおいて破綻するようなことが、ただの人間レベルの知恵でもわかりますから、仮に輪廻転生システムが実際にあったとしても、(神や宇宙の設定しているものは)もっと複雑なものなのだと考えられます。
さて、今日は、輪廻転生のことが主題ではありません。ただ、輪廻転生的なことでよく話される、魂(霊性)の成長という意味では、ふれておいたほうがよい話題かもしれなかったので、最初に書いてみたまでです。
では、今日の主題は何かといえば、さきほど、少し出ましたが、「(魂)の成長」についてです。(今回は、魂意外の成長のことも含むのですが)
マルセイユタロットでは、現実社会で生きる人間が、物質的観点のみで自分や他人を見続けていると、それが縛りとなって、本当の意味での成長を妨げていることを示唆し、その解放を絵の物語として表しているのですが、やはり、その土台となる思想に、本来、人は完全性を持つというものがあります。
しかしながら、完全性がありながら、なぜ、このような現実での悩み、苦しみ、問題に直面し、しかも、すぐにその解決や消失をなすことができない状態で生きているのか?という素朴な疑問も出できます。
それには、スピリチュアリストの方々は、ほぼ皆一様に、成長や経験のためだと述べておられます。
先述した輪廻転生説を入れれば、さらにこれに、長期的平等(公平化)という効果もあるのでしょう。
とは言えです。わざわざ苦労して、制限のある不完全性の幻想社会(それがスピリチュアル的には、私たちのいう現実となりますが)に生きようとするのか、完全に納得できないところもある人もいらっしゃるでしょう。
そう、ここでまた「完全に」という言葉が出たように、その理由がわからないのは、まさに完全性を忘却した状態になっているからなのかもしれません。(元も子もない話ですが・・・苦笑)
これに対して、私もいろいろと考えてきたところがあります。そして、これまた、様々な説を思いついたこともあります。
それで最近、少し面白い気づきがありましたので、それを皆様にお話ししたいと思います。
それは、今回は「成長が主題」と言いましたように、成長に関わることであり、簡単にいえば、成長を実感するために完全性の忘却がある(現実にいる理由)ということになります。(これだけ聞くと、当たり前のような話ですが、まあこの後の話も読んでください)
成長を自分で実感する、自覚するというのは、意外に難しいものです。
自分より優れたり、技量が上であったりする人から見れば、その人が前より成長していることは客観的にわかるのですが、自分自身では、たとえば目に見えるメーター(目盛り)のようなものや、力量の違いが以前の自分と明らかに違うことがわかる(確認できる)実際性が必要です。
つまりは、差が確認できるものがいるわけです。
これは5感で感じられる世界ならば(言い換えれば物質的なものが中心な世界なら)、その差も味わいやすい、感じやすい、確認しやすいのです。
何もない、差がない世界では、違いの確認のしようがなく、不完全か完全なのかさえも、実はよくわからなくなってしまいます。
なるほど、スピリチュアルな世界、古代神秘的な伝承では、人は完全性を持つと語られますが、もしかすると、その完全性のレベルというのも、次元や階層の違いがあるのかもしれません。
真に完全なこと(状態)は、誰にも、また何にもわからない(わかるとすれば、究極の神のようなもの)かもしれないのです。(神という存在も、その完全性を自分で確認することができない、あるいは完全であることを知っている完全性があったとしても、何も変化のない、固定のままと同じ感じなのかもしれません)
あと、成長の入れ子構造(ホロン構造)というシステムを仮に宇宙的レベルで想定すると、私たちの一人ひとりの現実世界での成長が、もっと大きな次元やレベルにおいても成長していくようリンクされており、たとえこの地球の現実世界が、成長の実験場であっても、私たちが切り捨てられたり、ただのモルモットとしての扱いになったりしないということです。(そうしようとしている勢力があるかもしれませんが)
それは、先述した入れ子構造的なシステムを想定すれば、一人が全体と響き合い、関係するようにできているからです。
あなたや私の成長は、もしかすると、微々たるものかもしれません。ことによっては、「自分など成長どころか、下降している、生きている価値すらない」と悲嘆している人もおられるかもしれません。
しかし、あなたが悲しめば、全体としてもネガティブな方面に傾いたり、成長のストップがなされたりするかもしれず、反対に、あなたが喜び、幸せになり、成長していくことができれば、全体としてもそうなっていくリンクや関係性があるのだと思えれば、落ち込んでばかりもいられないかもしれません。
また、あなたが何もできない、価値がないと思っていても、誰かに、あるいは何かに、モノでも動物でも植物でも、援助したり、優しくしたりできることがあれば、それはされた側からすると、とても価値ある存在に見えるはずです。
ほんのわずかでも、たとえば感謝ができれば、感謝される側(受容側、あなたは感謝をした能動側)、能動と受動の循環の動きが発生し、その影響はバタフライ効果のように、他にいい影響を与えていることもあると考えられます。
皮肉なことに(おそらく意図的に)、この現実世界は、差がものすごくわかりやすい世界にもなっています。
だからこそ、成長が実感しやすい世界でもあるのです。
成長の実感こそが、完全性が私たちにもともとあっても、この(限定された)現実世界での不完全性から成長していく意識と力が芽生え、別の次元での完全性を完成させるためのエネルギーのようなものとして、寄与できるよう設定されているのではないかと考えられます。
もし多次元なる宇宙があれば、私たちは、完全性をもった状態から、わざわざ過酷な環境を選び、完全性を忘れながら生きるように決めたのかもしれません。
それは、さきほども述べたように、成長しているという感覚・実感を伴うことで、エネルギーの拡大を呼び、それが、まだ完全性に至る途上である存在の糧になったり、完全だと思っていたものの不完全性の自覚を生み出したりして、共鳴し、全体として、ますますの、それこそ成長をなすためのシステムであるかもしれないのです。
悩みや迷いにある人も、何とか人から助けを得たり、自分でひらめきを得たりして解決していき(あるいは問題が気にならないレベルへと変容し)、やがて成長した変化を実感することにより、それがきっと、自分以外の存在にも役立つことになるのだと思います。
完全と不完全はまさにゲームのようなもので、不完全性を思うのは、完全性を知っているからこそのもので、完全という円や球の中で、回りながら、楽しんでいる状態とも言えます。
欠乏を思うことは、悪いことのように言われますが、最初は欠乏や不足、それも他人との比較から始まるものです。
それが第一レベルの完全と不完全ゲームみたいなものです。そのレベルが次第に上がっていくことで、欠乏や不足感、不満の性質もまた変わっていくのでしょう。(言い換えれ時、満足という意味と性質も変化していく)
もちろん、不足を追いかければ、どこまで行ってもゴールはないと言われますが、段々(すでに完全であると)わかりつつ、あえて追いかけるような、それこそゲーム状態を楽しむようになるのではないかと思います。
マルセイユタロットの「運命の輪」で言いますと、三つの動物を同時に楽しむような感覚です。
一見、輪の中は、ラットレースにも見えますが(そして、そういう示唆として見ることもありますが)、ある種の完全性のための発電装置のように見ると、自分も皆さんも、別の意味で、宇宙のために頑張っているのだと見えてくることもあります。(笑)
とにかく、成長を実感できる次元にいることは、苦しいことも多いですが、ある意味、幸せでもあると言えましょう。
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