精神、霊的な登山
スピリチュアルや精神世界を探求したり、追求したりしていくと、行き着くところは同じような考えになるのではないかと思います。
私も、自分のタロット講座でよく例えとして出しますが、皆さん、同じ山の頂上を目指しているとしても、山の裾野、つまりは登り口・登山道入り口付近では、いろいろな登山ルートがあるわけです。
ある人はルートの王道とも言える道から、またある人は、少し厳しめの道から、ほかの別の人は、時間はかかるけれども、とても緩やかな道から、そして時には、いきなりヘリコプターなどの、歩きではない、反則的(笑)方法で上がってしまう人もいます。
このヘリで頂上に行く人は、非常に特別な人か、普通の人でありながら、一瞬でも頂上の気分を味わいたい(味わう)人です。
前者の特別な人というのは、前世があるかどうか別として、何らかのそのような「現世の自分」だけではない経験や能力も継承していて、ほかの言い方をすれば、パラレルワードの自分になることができたり、その経験をこちらの今の世界に持ち込める人であったり、宇宙人(笑)みたいな人、またはそのような違う特殊の存在からサポートを受けたりしている人であったり・・・と、まあ、そのような特別な方々と言えます。
後者の、普通の人ながら特別経験を一瞬するというのは、例えばドラッグを使って、変性意識になって頂上を見るとか(ドラッグと言っても現代人工薬物的なものだけではなく、自然由来のものを安全に使用する方法も、かつてはありました)、お金と時間があるので、特別な装置とか能力をもった人に頂上世界を見せてもらうとか、特殊な聖域など、意識を変えやすい場所に、実際の行動として何度も自由に訪れることができる人とか、瞑想などによって、偶然、至福体験、一瞥体験を一時的にできた人とか、まあ、そのような感じのタイプです。
しかし、通常は王道を行くか、コツコツとした道を辿って頂上を目指します。(修行者はあえて厳しい道で、最短ルートを目指すこともあります)
山登りには、ガイドがいれば安全なように、やはり、このような道にもガイドは必要かもしれません。
しかし、考えてみてください。
本当の現実の山ならば、そのガイドは、頂上に何度も登っており、山を知り尽くした人になるのが普通です。
ところが、精神や霊的な山登り、ルートにおいては、頂上に行けたというのは、いわゆる完全に悟った人というようなことになるでしょうから、いわば、ブッダやキリストのような人が、ガイドにならなくてはなりません。
今現実にいる人で、さもガイド然としてふるまっている人は、本当に頂上に行ったことがあるのでしょうか?
さきほど述べたように、その感覚は一瞬とか短時間は持続したことがあるかもしれませんが、今の現実の人で、頂上に住みながら、衆生の救済のために、あえて下界に降りてきたという感じの人はいないようにも思います。
頂上への教えをしている人も、もしかすると、五合目とか七合目とかは、経験した人なのかもしれませんが、完全なる頂上世界となると、話は別でしょう。
それでは、誰も現実の人では、ガイドになることができないのかと言えば、そうでもあると言えますし、そうでもないとも言えます。
マルセイユタロットの(絵図の)教えでは、ある程度の山登りが進むと、そこからは、目に見えない現実世界の人とは異なるガイドに引き継がれると語られています。
途中までは、いわゆる先達と呼ばれる先生や師匠が、現実の人で確かに存在し、導いてくれるでしょう。自分の選択した登山口(それが技術や方法、思想などになります)の先輩、現実の指導者はいるわけです。
まあ、先輩にもいろいろあって、途中で脱落、下山した人もいるでしょうし、遭難したままの人、違う道のほうがよかったと途中で気づいて、やり直している人、いつのまにか違うルートに入っていても、結局は登っていることになっている人など、様々です。
中には、道半ばで、今生の命もつき、それまでのことを記録としてまとめて、後から来た人に託したり、秘密の場所に置いたりしている先輩もいるかもしれません。
昔はルートごとに厳密に分かれていて、そこの登山方法やコツ、注意書きなども、厳重にそのルートを登ると決めた人にしか明かせなかったのですが(登山の入り口のチェックも厳しいものでした)、現在は、ルートの統合と言いますか、地図の編纂も進み、ネットで公開されているような感じで、結構、入り口や途中までは自由度が増した気がしますし、ルートが異なっていても、登山の方法・情報そのものは、共有されてきたところもあるように思います。
これは、宇宙の進化の意志とも言えますし、私たち全体の意識の変化ということもあるでしょう。
ガイドの話に戻りますが、このようにして見ると、霊的な道のガイドは、途中までは人間であってもよいように思いますし、そこから上の、未知なるところは、おそらく昔も今も、自分専用に近い霊的なガイドが現れ、導いてくれることになるのでしょう。
霊的なガイドですから、人の姿をしているとは限りません、古代の象徴ではむしろ動物型が多く、マルセイユタロットでは「犬」として表現されています。(人や天使姿の場合も、タロットには描かれています)
しかし、結局、よく言われているのは、霊的ガイドも、自分の高次の姿、存在だということです。
頂上に近づけば近づくほど、具体性や個別性が薄くなり、自他の区別とか、いろいろなものがあいまいになってくると想像されます。ゆえに、霊的ガイドも、別存在のようでいて、(レベルの違う)自分でもあるというような状態が普通になるのだと考えられます。多層の共有とでも言いましょうか。
すると、自分のガイドは、時空も超えて、同時にある(別の)人のガイドでもあり、過去や未来、別宇宙の自分存在の可能性もあることも考えられるわけです。
山登りで例えれば、頂上近くになると、登って来た人を、一斉に面倒見てくれるガイドさん、お世話役がいるようなものです。
なぜなら、頂上に近ければ近いほど、もはやルートは関係なくなるからです。
実際の世界の登山を想像してみてください。頂上がもうすぐそこという段階では、見渡せば、別ルートから登ってきた人も見えているはずで、そうなると、世界はひとつに近く(全員が見渡せる範囲)、これまでは(ルートも)違っていたとしても、あとは皆、同じルートで登るようなこともあるでしょう。
つまりは、上に行けば行くほど、世界観は共通したものなり、皆同じ、ひとつという概念が自然になってくるわけです。同時に、個性や、やり方は、違いが薄くなり、個々のこだわりの世界ではなくなるのです。
ということは、逆を言えば、個々のこだわりが強いと、そういう世界(頂上世界)には相容いれないことになります。
古来からの教え、マルセイユタロットの示唆からも、本当は、この現実世界(下界)にいても、どの人も頂上にすでにいるのですが、それが幻想のようにごまかされていて(意識が気づていない状態)、私たちは、ゲームのような下界・現実世界で、いろいろな体験をしているように思い込んでいると言われます。
ですから、頂上にいるという意識が回復できれば(これは分離していない、ゼロポイント、大元の状態ともいえます)、本来の自分になるのですが、その時点で、個という観念が消えるであろうと想像できるため、現実を普通に現実と認識する段階では、またすぐ、人としての意識に戻るのだとも考えられます。
このあたりは、統合や霊的成長、悟りを目指すことでは矛盾の話であり、難しいところではあります。
しかし、現実感覚を持ちながら、頂上意識そのものではなくとも、頂上の完全性と、かなりの程度シンクロ(同調)させることで、心身や肉体の調整と、意識の大きな調和的変換が可能になるものとも想像できます。
現実認識を保ったまま、「ありのままと言われる状態」のものは、頂上とのつながり(交信・アクセス)が常に途切れず、山を登るというより、登山・下山、トレッキング、その他もろもろの、いろいろな方法で下界と山の両方楽しめることができる状態とも考えられます。
そうすると、これも矛盾的な話になるのですが、現実(下界)を安寧にするためには、頂上に意識は向いていたほうがよいということになります。(頂上を意識し過ぎると、現実からの逃避的願望になって、問題となりそうなのが矛盾的なところです。変な言い方ですが、現実に集中せず、しかし現実をリアルに楽しむという感じでしょうか)
矛盾することが統合できるのが、禅的にいえば、「悟」や「解」ということになるでしょうから、矛盾や葛藤をどうとらえるか、それは苦しみよりも、楽しみとして与えられた質問だと、あせらず解いていくとよいと思います。
それが、すなわち、登山していることになるのだとも言えるからです。
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