万策は尽きたのか?
「SHIROBAKO」というアニメがあります。
アニメーション制作の現場から見た物語で、とても面白いですし、感動もするので、おススメいたします。
そのアニメ「SHIROBAKO」の登場人物が、アニメ制作の過程で困難に遭い、「もう無理だ、納期までに納められない」と絶望する時に使う有名なセリフとして、「万策尽きたぁ~!」と叫ぶものがあります。
まあ、結局、そうは言いつつも、何とかなってしまうのですが・・・それが物語というところです。ただ、本当にアニメ制作の現場は大変らしく、そのようなことは、事実としてあるんですよね。
ここでアニメ話をしようというのではありません。
この「万策尽きた」が今日のテーマとなるので、引用したまでです。
人間、人生の中で、一度や二度は、ものすごいピンチの状況という時はあるものです。まさに「万策尽きたぁ~!」終わりだぁ」と叫んでしまいたくなるようなことがあります。
まだ叫ぶくらいの元気があるうちは、実はまだ余力が残っていることが結構ありますが、状況・環境も最悪で、自分の生命エネルギー自体もなくなっているような、いわゆる極度のうつ状態にまでなっていますと、叫ぶ元気さえもなく、本当に「死」というものを考えてしまうことがあります。
私自身も恥ずかしながら、うつ病などの時代、その他の時でも、死を思ってしまったことが何度もありました。
しかし、マルセイユタロットを学習し、その象徴性を知るにつれ、どん底、絶望のような時でも、救いがあるのではないかと、少しでも光を思う機会が出るようになってきました。
それは、意外に思われるかもしれませんが、タロットを展開してリーディングするような形ではない、光や救いの希望なのです。
タロットの活用といえば、タロットリーディングのことを想像される方が多いでしょうが、他人に対してはそうと言っても過言ではないところがあるのですが、自分にとっては、タロットを展開してリーディングするというより、タロットそのものの象徴性を思うことで、助かったり、楽になったりすることがある気がします。
それは通常の方式の自己リーディングでは、なかなか客観的にはなりにくいからです。
ところで、マルセイユタロットには、「吊るし」というカードがあります。
ほかのタロット種の解釈では、このカードは、「吊られた男」とか、「吊るされ人」と呼称され、まるで拷問や逆さづりの刑にでもされているかのような、苦しさや犠牲のようなイメージがされています。
しかし、私たちのマルセイユタロット解釈では、この人物は自ら逆さのスタイルを取って、むしろ悠然と楽しんでいると解釈するのが基本です。
いわば、能動的かつ、変則的待ちの状態です。
ただ、マルセイユタロットの「吊るし」においても、やはり、つながれている、困難で苦しい状態と読むこともあります。
「吊るし」の人物の手は後手であり、足も組まれていて、ひもにひっかかってはいますが、縛られていると見る人もいるでしょう。
言ってみれば、手足の自由を奪われ、狭い二本の柱の間に押し込められているようにも見えるのです。
となると、この人物にとっては、「万策尽きた」状態となっていることも考えられます。
確かに、漢字の囚人の囚の字(人が囲われた中にいる、閉じ込められている)に見えなくてもないですよね。
いや、果たしてそうでしょうか? 本当にこの「吊るし」の人物は、出口や解決策が見つからない状態なのでしょうか?
もう一度、よく「吊るし」の図像を見てみますと、彼(男性であるとは限りませんが)の逆さに向いた頭の方向は、木で囲われていません。なるほど、三方は囲われていますが、ひとつ、下の方は開いているのです。
実は、ここにはすごい秘密があり、詳しいことは口伝的な秘密なので明かせませんが、普通に考えても、頭の方向が開いているということは、「考えれば出口はある」という象徴として、見ることも可能でしょう。
しかも、彼は逆さの姿勢なのですから、まるで天地が逆転したかのような見方をしているわけです。この象徴性をよく考えることです。
なぜ、あなたは万策尽きたと思ってしまっているのか、なのです。
そう、「万策尽きた」「もうダメだ」と思っているのは、あなたの中の現実が、です。
見方によって、現実は変わります。本当は、策がないのではなく、策がないように思い込んでいる、思い込まされているだけかもしれないのです。
そうは言っても、現実は自分の現実認識として、とても強固なものになっているので、どうしようもないと思うわけですよね。
ここで、マルセイユタロットの大アルカナ、それぞれのカードが生きてくるのです。
特に、マルセイユタロットでは、数の順に偉大なる智慧が隠されています。
「吊るし」の場合、その数の前後などのほかのカードを見ていくことで、「吊るし」状態の良し悪し、打開策を発見することができます。
特に、次の「13」と「節制」については、その象徴性を学べば、本当に救いになってきます。この二枚のカードの組み合わせが偶然ではなく、意図して配置されているのが、よくわかるのです。
何度、この組み合わせに救われてきたことかと思うほどです。
また、「吊るし」単独だけでも、困難さと同時に、その解決や解除策も示唆しています。
それはほかのカードでも同様で、それぞれのカードは、それぞれのカードによって修正されることもあるのです。言い換えれば、一枚一枚の象徴性において、問題と解決が同時に示さているということなのです。
「吊るし」では、出口の話や姿勢の話をしました。ほかにも、「吊るし」における問題性の解決は、「吊るし」自身に示されています。
よく言われるように、「神は、私たちに越えられない試練は与えない」と言われます。
また、カルマ論などをあえて用いるとすれば、今の苦難は、霊的・魂的には、その解消や浄化の大チャンスともいえるわけです。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉もあるように、まだやれることや救いを求められる対象・方法がないか、頑張って探して見ましょう。
もちろん、本当に万策尽きたと思われる状態に陥ることもあるかもしれませんが、自ら死ぬことは最後の「策」ではなく、むしろ、さらなる縛りをかける、自分への長い呪い行為になると考えられるので、よい意味でのあきらめ、自分への完全承認みたいな、一見、放棄のような受容をしてみると、逆転や救いの可能性も出てくるのではないかと思います。
例えば、マルセイユタロットの「力」から「13」の流れには、「吊るし」を真ん中に挟んでという配置になっています。
一度、この三枚を並べてみるとよいです。
「力」は「吊るし」を見ており、さらにその先には、大きな鎌をもった「13」が見えます。「力」と「13」は数が進む方向性を見ています。
二本の木で囲まれている「吊るし」は、もしそれが困難な状況を表しているとすれば、「力」と「13」によって、どうなっていくことが望まれるでしょうか?
私たちの中には、計り知れない神性のエネルギーが流れている(存在する)とされています。この力を信じて、自分を貶めず、神(性)と通じるのなら、すべての問題は解決していくと言われています。
あなたの問題や苦しい状況は、あなた自身の歪みでとらえた現実にあると心理的・霊的には例えられますが、そうであるならば、歪めさせられているあなたの自我を赦し、解放し、新たな世界を創造していけばよいわけです。(それゆえ、「吊るし」と「世界」は共通した絵図であり、テーマがあります)
言うは易し、行うは難しかもしれませんが、マルセイユタロットの自己成長の象徴性を深くインプット、いや、そのプログラムを思い出すことで、それらが自動的に働くようになっているように感じます。
従ってマルセイユタロットの学びは、苦しい時もあるかもしれませんが、歪んた自分というものが少しずつ浄化、解体されていき、本当の意味で楽になっていく方向へ、自らの神性が導ていくのだと思います。
好き嫌いではなく、本当に自分がこれは苦しい、つらいと感じることと、心地よい、少しはましであるという境界線を、落ち着いて見極めていくことです。その線引きがあいまいになっていて、ただしなくてもいい苦労や、本当は楽になっていくはずの方向性を、自らで見えなくしていることがあります。
ほかの世界、次元に移れば、今まで思っていた「万策尽きた」状態ではなくなります。新しい世界では、昔の世界とは見方も考え方も、利用できる資源さえも変わってくるからです。
万策尽きたのなら、その(あなたを形成させている、これまでの認識)世界では限界だという意味でもあります。
ならば、次の変容(13)へ自分を進めさせる必要があるのです。
その勇気は、力とともに、あなたの中にあるはずなのです。
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