違いと同一感のケース その意味

この世の中は、たくさんの人がおり、それぞれ個性を持っています。

まさに色々、いわば、バラエティある世界になっています。

ところがスピリチュアル的には、「ひとつ」だとか、「全て」、「宇宙全体」というような、分けれられないものというイメージで語られます。

ということは、その観点からでは、当然、私たちそれぞれも、この世界も、すべてはひとつだとまとめられてしまうわけです。

実際には、これだけ多くの違いがあるというか、違いばかりの世界だというのに、ひとつとか、同じとは、これいかに? という不思議なことになるのですが、この「違い」ある世界と、「同じである世界」とがイコールであるという気づきが持てれば、真理のようなものが見えてくるのではないかと思います。

これは、マルセイユタロットでいえば、タロットとして同じひとつのデッキながら、大アルカナと小アルカナの構成に区分されたり、その大や小の中にも、それぞれのカードの個性(違い)があるというのに似ていると思います。

ゆえに、マルセイユタロットは、世界や宇宙を象徴しているとも考えられるわけです。

さて、この世界では、違いがありながら、同じでもあるという矛盾した話の解説は、今日はさておき(笑)、考えや思いとして、違いを意識したほうがいい場合と、同一性と言いますか、共通性、同じを意識したほうがいいケースとで、人生におけるシチューエーションや場面によって、切り替えていくと生きやすいのではないかということにふれたいと思います。

まず、違いを意識したほうがいい時、あるいは人のタイプです。

それは、同調意識が強すぎる時や人の場合です。

人のタイプとしては、簡単に言えば、皆と同じでなくてはならないとか、目立つのは嫌とか、人の頼みは断りにくいとかという感じになる人です。

こういう人は、自己主張が弱くて、他人と自分との境界線があいまいなのですが、逆に言えば、自分のことを意識しすぎて、自分を守ろうとするあまり、人とのトラブルを避けたいと思い、自分が責められたり、悪く言われたり、気分を害されたりするのが嫌なわけですね。

一見、人に気遣いをすごくするようでいて、そのベクトルは、人より自分に向いているという方です。ナーバスな人には、こういうタイプの人が少なくありません。

もっとも、本当に心が優しすぎて、人に気遣ってしまう、自己犠牲で幸福感を得るタイプの人もいるので、必ずしも、自分の方向にベクトルが向いているというわけではなく、反対に、自分のことより、人の幸せを第一に思うという方もいます。

いずれにしても、こういう方々は、他人と自分との違いをもっと意識したほうがよく、一言でいえば、人は人、自分は自分という区分け、峻別をしたほうが、気が楽になります。(自己犠牲で快楽にある人は、最初は苦しくても、やがて、その中毒を解くことにもなります)

実際、自分が思っているほど、人はこちらのことを意識しているわけではありませんし、外国ではありませんが、きちんと自己主張していないと、承諾した、あるいはどうなってもよいということを意味してしまうことにもなりかねないので、嫌なことは嫌、できないことはできない(逆にこれならできる、これは好き)ということを言っておいたほうがいいです。

自分の見ている世界と、他人の見ている世界は違うのだということを、改めて、自分に問う(そういう視点を持つ)と、過ごしやすくなります。

また、ケースとしては、いわゆる「ウリ」を出したい時にも、違いは意識したほうがよいですよね。特に商売やコンペティションなど、多くの中から選ばれなくてはならないような状況では、ほかとの違いや個性が重要になってきます。

これは何も、勝ち負けだけのことではありません。

生き方として、私は私、俺は俺、自分は自分という道、ライトには趣味や嗜好、重くは使命などのようものに至るまで、人とは違うものを意識したほうが、より人生に目的や張りができたり、やはり、生き方としても楽になったりする場合があります。

いわば、自分としての絶対値、いや、絶体位置を持つということで、他人と比較したり、周囲の影響をあまり受けたりせず、マイペースな、まさに自分の人生を自分のものとして生きていくことができるのです。

では、次に、違いではなく、同じを意識するとよい場合とは、どんな時や人でしょうか?

これは、まず、共感を得たほう(共感が持てたほう)がよいケースの時と言えます。

例えば、自分、またはほかの人が傷ついたり、ショックのような状態であったりした時、共感を持つ(得る)ことで、慰められ(慰め)、ほっとした安心感に抱かれます。

マイナスな感情を抱いたり、落ち込んだりした時、ピンチや困難な状況に遭ったりした時もそうです。

「ああ、自分だけではなく、ほかの人もそうなんだ、同じなんだ」と感じることで、人は癒され、勇気も出てくることがあります。

それから、まったく知らないグループに入る時とか、初対面の人と会う場合なども、お互いの共通点や同じところがわかると、安心することができます。

例えば、好みの作品や食べ物が同じとか、同じ出身地であるとか、外国でなら、日本人に会うなどで、ほっとすることもあるでしょう。

また、人のせいにばかりしている人、ベクトルが外に向きすぎている人にも、他人と自分の同じ点を顧みる、発見してみるのはよいことです。

自分自身が気が付かねばならないことがあるから、他人のことで不快になったり、怒りが出たりすることもあるからです。まさに他人の振り見て、我が振り直せというわけです。

あと、やはり、スピリチュアル的な進化とか霊的・統合的視野を広げたいという時も、究極には「すべてはひとつの宇宙」みたいな感覚が必要と言われますから、少しずつでも、自他の境界線をなくして、自己が拡大し、自我そのものか解体していく過程で、より(霊的に)発展していくと考えられ、そうした目的を持つ人は、違いよりも同じところを意識していく方向性になるでしょう。

こう書くと、競争には違いを意識し、和合には同一感を意識するとよいように、一概に言えてしまうようにも思えますが、それだけでは、むしろ問題があると言えます。

上記のような定義にしてしまうと、どうしても、違いを意識した時、比較しての競争や分離意識を持ってしまい、自我・エゴの肥大、他人への無関心などを生み出してしまいかねないからです。

また、同一を意識し過ぎると、全員、金太郎アメのように一緒でなければならないという、強制的な同一感に支配され、差別と区別を混同してしまい、個性が認められない、あるいは、向上心が失われる怠惰で窮屈な世の中になってしまいます。

そういうことで、意外に、局面・場面における、違いの意識と、同一意識とで、どちらが重要であるかということが自分ではわからないことがあります。

マルセイユタロットでは、カードの個別的な違いと、全体的な統一性があるので、ある問題やケースでは、それぞれのカードの象徴性を見れば、違いを意識したほうがいいのか、そうでないのかがわかりますし、同時に違いの中での共通(同一)性や、反対に、同一性の中の違い(異質性)についても判断することができます。

このような作業は、つまりは、心理(学)的に言えば、ユングの個性化を知るようなことでもあり、自己の統合を図りながら、やがて全体(社会)の中で、自己の個性を活かす最善の道が見えてくるようなことと等しいと言えるでしょう。

結局、全体と個ということで、宇宙から生かされている自分、全体からの分離意識を“分け与えられて”、自分自身の人生を生きるプロセスが、この世界での人生であるように思えてきます。

ですから、何の個性もないとか、特徴もない、つまらない自分だとか思う人があっても、おかしな表現になりますが、「生きているだけで自分を生きている」ことになり、とにかく生き切ることが全体に対しての使命になっているのではないか想像できます。

そのうえで、できれば、「自分が幸せであること」を人生で表現できれば、なおよいかと思います。違いから同一へと観点を変えれば、そのことが、結局、全体・宇宙としての幸せとイコールになるからです。

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