師匠と弟子
皆さんは師と呼べる人がいますか?
学びや芸事となると、やはり先生や師匠に指導してもらわないと、なかなか独学では難しいところがあります。タロットも、一種の芸事とも言えますから、独学でもできないことはありませんが、師匠に習ったほうが、習得は早いのではないかと思います。
しかし、どの分野にしろ、まったく新しいことを始める人、創始者的な人物ともなれば、師はおらず、独自で開発した、到達したという方もおられます。
とはいえ、たとえそういう人であっても、生み出すことには、何らかの参考となるもの、最初に例としたものなどはあるはずです。つまりは先人の築いたものを下地に、新しいものが創造されているわけです。
ですから、師というのは、大きな括りで言えば、ひとりの人物とか、実際に指導してもらえる人だけを指すのではなく、自らが参考とした人、モデルになった人、自分の(技術・教えの)型や完成を得るために参照してきた書籍、人の言葉なども、言ってみれば自分の「師」であるわけです。
ところで、人間的な直接のつながりを持つ弟子と師匠の関係において、そこにはお互い人間であるだけに、情というものがはさまれたり、生まれたりします。
指導には情を入れてはいけないという説もありますが、考えてもみてください。
機械的にただ教え、学ぶだけの形式では、味気ないことに気が付くでしょう。そこに感情のやり取りも入るからこそ、教えにも幅や面白さがあ出るのです。
けれども、やはり情が入り過ぎるのもいけません。師匠と弟子、どちらか一方において、情が過剰であることは案外多く、両方入り過ぎる場合もあります。
弟子側が過剰であると、師匠に依存的になり、自分の親との関係を投影してしまうことがよくあります。
反対に、師匠側が入れ込み過ぎると、極端に弟子に干渉することになり、過大な期待や細かすぎる指導をしたり、逆に冷たく突き放して「技を盗め」みたいな態度になったりします。
これは師匠の子どものような対象を投影し、いわば、過干渉の親や、放置する親みたいになってしまうわけです。
そして、弟子・師匠がともに情が入り過ぎると、共依存の関係になりがちです。
ということで、私からお勧めするのは、すでに書きましたように、師匠の概念・範疇をもっと拡大し、一人の師匠とか、人間だけが師匠ということに限定せず、ほかの人や、すでに今は存在しない先人、人が書いた書物などを別の師として、自分の架空設定としておいておくとよいのではないかと思います。
このことは、実際に複数の師匠を持てと言っているのではありません。現実に二人からの指導を受けていますと、それは混乱することが多いので、逆効果のこともあります。
自分の人としての師匠の言葉・方法などを、自分なりに検証し、客観的に見つめるためにも、自分における別の「ご意見番」みたいな存在を作っておくとよいと言っているわけです。それが、お互いに情的なものが過剰にならないたの工夫でもあります。
あと、前にも書いたことがありますが、分野ごとの師匠を持つとよいです。
タロットで言えば、小アルカナ4組の象徴でもある、4つの分野で見ていくのもありです。
今回はあえて省きますが、例えばお金や経済的なことでの師となる人、自分の趣味の分野での師匠など、それぞれ別で持つわけです。
中にはメンター的な人物となりますと、すべての分野(いわば人生)のトータルな師という立場の人もいるかもしれませんが、それはそれで、5番目(4つの分野)の、全体を統括してくれる師匠という人で、なかなかそういう方は見つかりにくいですが、もしいらっしゃれば、とてもためになるでしょう。
この先生と知り合いたいとか、この人のセミナーなどを受けて「自分の師」としたいと思ってる人物がいても、なかなか経済的なことや、時間的なこと、距離的なことなどで、知り合う機会、参加する機会が得られないままという方もいるかもしれません。
そういう場合は、直接関わりがないとしても、その人が発信しているものにふれて、その人自身というより、その人が表現しいるもの、述べていること、その内容自体を心の師とすることで、先述した架空設定の師匠に、自分の中ではなってくれるようになります。
結局、究極的には、他人も自分のようなもので、師も弟子も、立場を超越して、学びたいと思う自分の中に存在していると言えます。
あなたにとっては、実際の師も、心の中の師も、実はあなた自身でもあると言えます。
現実の世界なので、実際の「人間」のほうが、やはり影響力は高いと考えられますが、架空の師であっても、自分に何らかの形で影響を及ぼし、自分にとって学べることができる存在だとも言えます。自分が自分を導き、教えているのです。
ただ、それは漫然としていては、架空の師から学ぶことはできません。
自らが真剣に学ぶ態度と行動を示し、知識と経験を積み重ねていくことで、自らの中の架空の師も成長し、あなたに適切な助言や気づきをインスピレーションのような形を通して与えてくれます。
今や、学びの環境は、かつてないほどに整っていると言えます。直接の人でもよいですし、架空の師の設定でもよいので、学びと成長を志すと、それに呼応した人物が現実にも、心の中にも現れることでしょう。
それは誰かの師という立場の人であっても同じで、自分の弟子ですら、別分野では(同じ分野の何かでも)自分の師となることがあるのです。
そして、あなた自身も何かの師であり、今はそう思えなくても、必ず、そうした瞬間がやってきます。もとはと言えば、神性(完全性)を有する私たちなのですから、弟子・師匠というのも、一種の舞台装置のようなものなのです。
その舞台には、また縁が働いており、あなたの劇場に登場する人物が究極のシナリオによって作られていて、それを楽しむ本質的な自分がいるものと思われます。
その意味でいえば、出会いはすべて師であり、弟子なのだということになるでしょう。
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