新元号から 人生の体験・経験
新しい元号が「令和」に決まりましたね。
新元号に対しては、いろいろな意見があるようですが、おおむね、好印象に受け止められているように感じます。
官房長官の発表の時間が、2019.4.1の11:41であったことに数秘的な意味合いを見た気がします。語呂合わせ的にも、41の「よい」が重なって、喜ばしいですよね。(笑)
個人的には、アニメ好きなところもあって、レイという響きに反応する自分がいます。(苦笑)
例えばキャラクターではエヴァゲリオンの「綾波レイ」とか、題名では「喰霊零」とか、とにかく、アニメではレイという名前や、漢字で零、つまりはゼロ式とか、ゼロ話(第一話の事前談に当たるような話)ということがよくあります。
一方、「和」につきましては、皆さん、「昭和」という元号があったので、これが入るというのは予想外だった人も多く、私も意外でしたが、昭和という前の時代も受け継ぎつつ、この字が表す「和する」ということが、新時代にさらに重要なことになってくる気がします。
また、「令和」を霊和、霊輪といういうように同音の違う字で置き換えますと、物質より霊性へ回帰してくる方向性、霊的な和合に向かっていく時代になるのではないかという暗示のようにも見えます。
しかしながら、世界的には西暦として、ある意味、キリスト教暦(歴でもあります)で統一されていますので、そこからすると、元号など関係ないようにもなり、さらっと流していくのもいいかもしれませんし、ハッピーな気持ちで新時代を迎えるのはよいとしても、商売的に変に煽られ、下手に乗せられないようにも気をつけたいところです。
いずれにしても、元号が時代を作るということもあるかもしれませんが、私たち自身が時代を生き、その結果として「令和」の時代であったということにもなると思いますから、一人ひとりの人生の総論として、私たち皆が、新しいよい時代を創っていくようにしたいものです。
さて、元号に関係しないようでする話(笑)をします。
私は昭和生まれなので、一度「平成」に元号が変わる時を経験しています。
昭和生まれの人でも、終わりかけの頃だと、幼少時で、あまり記憶になく、親にその際の様子を聞いたという人もいるかもしれませんが、私などは就職したての頃ですから、はっきりと覚えています。
ということは、すでに元号が変わることは経験済だということです。
従って、今回の「令和」が発表されても、名自体には意外性もありましたが、元号変化の受容性への抵抗は、昭和から平成の時よりも少なく感じました。
それには、今回は天皇崩御によるものではなかったので、全体的に準備ができつつある状況ということもあるかもしれません。それでも、やはり一度経験したことは、人間、慣れが出るものです。
ここから思ったのは、実経験の大切さです。
前回の記事では、想像の創造について、つまりはイメージすることの重要さを述べました。
今回は逆に、実体験することの強調です。いくら想像し、計画しても、それを実行に移して、現実の経験(生の体感)として味わうことをしなければ、それこそ絵に描いた餅、砂上の楼閣であり、経験(した)とは言えません。
タロットリーディングもそうですが、タロットを学習し、知識と技術はあっても、他人を実際にリーディングし、それが評価される(評価にはよいこともあれば悪いこともあります)という実の経験がないと、真の意味では上達はおぼつきません。
しかし、生の経験をしていると、次第に落ち着いて他人へもリーディングできるようになりますし、座学やデスクで学んだことだけでは対処できないこともわかってきます。
霊的な話をすれば、私たちの人生(地上生活、現実を生きること)は、やはり、実際の経験、生の体験を味わうことに大きな理由があると考えられます。
思考やイメージだけで予想したものと、実際に体験するのとでは、まったく違う次元の話であるということです。
おそらく、死んだあとの世界、あるいは宇宙的なたとえで言えば、違う星とか、違う次元の世界というところは、私たちが空想するイメージの中の世界のような感じではないかと思います。
そこでは、地球の地上生活のような、感情の起伏を激しく経験するような刺激は少なく、平穏無事で希薄、体感も少ない世界なのでしょう。
言わば、体のない、空気のような霊や魂だけの世界を想像すると、それに近いのではないかと思います。
こうなると、(身体的に)体感したい、もっと地上で刺激的に(感情を)味わいたいという気持ちになるのもわかります。
そのため、ここに来ているのではないでしょうか。
また、一度経験したことは、先述したように慣れて落ち着いてきます。冷静になれると言ってもいいでしょう。
すると、これを魂の輪廻的なサイクルでもって見ていくと、自分が初めてなのに、最初からうまくできる、なじんでいる、あまり緊張しない、霊性である、親近感がある、既視感がある・・・という感覚になるものは、すでに似たようなことを経験したり、出会っていたりする過去(データ)があるとも考えられます。
それでもまた経験するのは、以前経験したことより(そのデータよりも)バージョンがアップするなどしてチェンジしているところがあり、それはそれでやはり新しい体験になるからだと思えます。
あるいは、ひとつの分野における専門性を極めていくため、もしくはバランスを取るために、似たようなことも実際に経験しているのかもしれません。
さらには、いろいろな経験をすることで、それこそ叡智を実体験で深め、どんなことにも落ち着き、対処できる自己(還元して全体)の成長を図っているのかもしれません。
いずれにしても、この地上の人生にある(生きる)人というのは、経験をもっとしたい、積みたい、味わいたいというところがあるのでしょう。
ということは、やはり、私たちは、ここにせっかく来ているのですから、頭だけの考えで終わったり、イメージだけして、もう体験した、わかったという風にしてしまったりするよりも、できるだけ、実際に体験・経験してみることが魂の喜びになるのではないかと推測できます。(人には頭だけではなく、手足と体がついています(笑))
ここからすると、やるか・やらないかで迷ったら、やったほうがいいという選択基準になります。
やったせいで、失敗したり、そのことで後悔したりすることもあるかもしれませんが、それは地上の基準で見た場合がほとんどでしょう。天上から見れば、すべての経験は喜びなのかもしれず、たいていのことは、やったほうがいいということになります。
まあしかし、地上的基準も、もちろん無視できないものなので(それは、今生のキャラクターとしての自分は、今(の人生)しかないからです)、限られた今の自分という地上生活の中では、効率・非効率、成功・失敗の概念がどうしても入りますし、それはそれで(時間・空間的)限定人生として見れば、大切な基準だからです。
この地上的価値観と天上的価値観(基準)に、あくまで自分として折り合いをつけながら、人生を過ごしていくとよいでしょう。
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