苦悩する人は幸いである理由

マルセイユタロットは、悟りへの道を示している体系とも言えます。

「悟り」と言えば、何か一般的には、どんなことにも動じない、波風立たずの澄み切った境地のようにイメージされます。

しかし、マルセイユタロットの最終局面、つまりは「悟り」を体現する絵柄ともいわれている「世界」のカードでは、中央の人物はダンスしているかのように見え、周囲は四つの生き物が囲み、ある種、騒々しい(笑)感じさえ受ける、バラエティさに満ちています。

そして、ここに至る経緯を示すとも考えられるほかのカードたちも、すべて同じ絵柄はなく、みんなそれぞれ違っています。

ということは、単純に言えば、すべての違いを味わって受け入れた先に「悟り」が待っているとも想像できます。

であるならば、私たちは幸いだと言えましょう。

なぜなら、おそらくほとんどの人は、そんな澄み切った境地などになることは少なく、いつもなにがしか心を迷わせていたり、考えを巡らせていたりしており、それは、もし一言で例えるのであれば、様々な感情を体験しているという状態であり、言い換えれば、悟りのためのバラエティさを経験し、学んでいる最中だと述べられるからです。

そう、私たち皆、悟りのためのプロセスを歩んでいるのだと言えるのです。

だから、つらいことや悲しいことがあって心を一時的に閉ざすようなことがあったり、もうあんな経験は嫌だからと、自分から距離を置いて、客観的になり過ぎたりするのも、かえって霊的な成長(統合的発展)の遠回りをしていることになるかもしれないということなのです。

自分が壊れてしまわないよう、ある程度の防御、防衛反応は、この世知辛い(苦笑)世の中を生きていくうえでは必要な場合もあるでしょう。

しかし、先述したように、本当の成長や喜びを迎えるためには、感情的な起伏を十分に体験し、味わう必要もあると考えられます。

またそれは自分と他を分けて、自らの感情を切り離すようなことではなく、自他が一体となった没入・共有体験とも言えます。

マルセイユタロットの体系(システム)で言えば、「月」のカードと「恋人」カードで、この感情体験の必要性や仕組みを述べることができます。

このブログでもよく語っているように、現実世界は分離の世界であり、いわば二元原理を色濃く分けて住む世界です。

その二元区分には様々な象徴性で例えられますが、ひとつには、「天上性」と「地上性」という分け方もできます。

平たく言えば精神や心・霊の部分と、肉体や物質の部分の二元と言ってもよいでしょう。

すると、「月」のカードは天上的であり、「恋人」カードは地上的となります。(この分け方にもいろいろあって、とりあえず、ここではそうした区分を使います)

これは、地上の選択における迷いの感情的エネルギーが、天上的な「月」のプールに貯められると表してもよく、また逆に天上的葛藤(二元対立と相補原理の)エネルギーが、地上的選択(「恋人」カード)に反映されると言うこともできます。

違う言い方をすれば、、私たちが実際の生活で何かを選び、迷うような時、言ってみれば人生の局面局面で味わう心の揺れ動きが、一種のエネルギーとなって、私たちを天上なる悟りの世界へ導く原動力になっているのだということです。

そして、天上の魂のようなものが、地上の私たちに、もっと感情を味わうよう、もっと感情的にエネルギーが起伏するよう促しているのです。

「月」の犬は根本的な二元原理の交流による、いわば電気的エネルギーの増幅や推進と関係しています。(簡単に言えばプラスとマイナスによる電気発生)

おっと、つい、かなり奥義的な話をしてしまいました。(笑)

たぶん「令和」の時代になるので、霊的な開示を積極的に行うような流れになってきているせいもあるのでしょう。

ということで、今、悩み苦しみの渦中にある人も、それは天と地の間で、人として、感情体験をし、すべてある世界に回帰するために、まさに(できるだけ)すべてを味わい、経験する過程を実際に(現実というバーチャルな世界で)行っていることなので、大きな視点では幸いなのです。

しかし、苦しいことばかりが感情体験ではありません。喜怒哀楽と言われるように、喜びや楽しさも味わってこそです。

世界のカードに四つの生き物が描写されているのも、この四感情と無関係ではないでしょう。

現実世界は救済措置として、ずっと同じ状態が続くということがない世界です。常に変転し、まさに常ならずです。それは時間や空間というものがあるからです。

ですから、同じ感情が続くということはなく、いつも大なり小なり動いて、喜怒哀楽をその都度体験しますし、気の持ちよう、心の持ちようと言われるように、自分で気分を変えることもできます。

同じ状況が続いていると思う人は、悪いサイクル(堂々巡り)に入っていると言えますので、そこから脱出して違う感情を体験するために、こういう場合は、客観的姿勢、あるいは他人からのアドバイス、介入、手助けが求められます。

どちらにしても、心を閉ざすのではなく、開いて、実際(による感情)を体験することがこの世界では重要なのです。

タロットで言えば、いつも最初の数を持つ「手品師」に戻り、新鮮な気持ちになる状況をもたらせるとよいと言えます。

さらに、一人で経験するばかりではなく、誰かと、仲間と、組織で・・・という具合に、他人と一緒に経験することで、また違った感情を味わうことができます。それは一人の時よりも、深かったり、大きかったりします。

一人過酷な修行に臨む悟りの道もありますが、こうして普通に生きながらいろいろな人と交流し、視点を変えていくことで、それ自体が悟りの道となっていると考えることもできますので、いわば、神(仏)とともにある日常も体験できるわけです。(神や仏が悟りや完成を示す境地であるのなら、その過程にある実際の生活は、神・仏とともにある生活と言えるからです)

こうやって見ると、どの人の人生も、すばらしき道であるのに気づきます。

まさに、苦悩する人は幸いなのです。

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