自分の運命を作っているもの
私は旅が好き・・・というより、旅の計画をするのが好きです。
この性質はもともとあったのですが、中学生の時に、放課後のクラブ活動とは別に、その学校では週に一回、正規の授業時間に教室でクラブ活動するような課程があり、私は「歴史と旅クラブ」というものに入っていました。
このクラブでは、実際に旅をするのは年一回の日帰りなものだけで、通常は教室で時刻表などとにらめっこし、机上の旅計画をするという活動であり、ここから、旅の前に完全な計画をするという私の傾向に、ますます拍手がかかったように思います。
さて、そうした旅の計画ですが、これは必ずしも実行するとは限らず、実際には行かないことも多いです。しかし、行く行かないにかかわらず、かなり詳細に計画を練ることは変わりません。
マルセイユタロットで言えば、「女帝」(創造・計画)の質が強く、「皇帝」(現実・実行)は薄いという感じでしょうか。
まあ、この「女帝」と「皇帝」はセットでペアでもあり、両者そろってこそなので、計画ばかりしていてもダメなのですが。。。
以前はあまりに完璧な計画を作り過ぎようとし、そのため、考えすぎて体調を崩すという、癒しや気晴らしのための旅行なのに、本末転倒になるありさまでした。(苦笑)
さすがに考えをを改めて、今はもっとゆるやかに計画するようにはなりましたが、それでも、普通の人よりかは旅先やルート、宿泊先などについて、詳しく調べるほうだと思います。
そこで、旅館やホテルなど、宿泊先の口コミなどをネットで見ることも多いわけですが、これを見ていると面白いことに気づきます。
まず、やはり、普遍的な評価、言ってみれば平均値の評価は確かにあると思います。
当たり前ですが、多くの人がここはダメだとか、不満が書かれたり、×評価が下されたりしているところは問題があると考えられ、反対に、たくさんの人が高評価を出しているところは、なかなかのところであるということです。
しかし、どこにでも、何にでも例外はあるように、悪い評価が多いのに、まれに高い評価を出している人もいますし、逆に、高評価の口コミが続く中で、最低点をつけて、ひどく不快であったことをまくして立てているものもあります。
前者(平均が悪い中での高評価)の場合は、ひとつの傾向として、宿泊した人がどこに重点を置いていたかで決まってくるようにも思います。
例えば、その人は温泉の質を何より重視していた人ならば、食事はいまいちであっても、お風呂の温泉の質が抜群だったのならば、評価も高くなるでしょう。
いわば、自分がもっとも高い価値を置いているもの、宿泊先でここだけははずせない、大切にしていると考えているものが良ければ、ほかのことは少々のまずさがあってもカバーできるという評価です。
問題は、多くの人が高評価であるのに、特定の人だけ、低評価になってしまう場合です。
これは、宿泊した日とか部屋、その時に受けたサービスに限って、不運のような、普段ありえないようなものが続いたというものが見受けられます。
もうひとつは、口コミなど読んでいると、評価する人(つまり宿泊した人)に問題があるように思えるケースです。
まるでクレーマーのような、普通は気にしないようなことでも、異常に気にしてしまっていて、要求があまりにも高く、そこまで言うことなのか、期待することなのか・・・と考えさせるケースがあることです。
宿泊施設の口コミ評価について書いてきていますが、これは私たちに起こる事柄、ひいては人生のとらえ方にも関係しているように思えましたので、これを例にして書いているわけです。
平均で高い評価を得ているのに、時折、口コミ評価で悪い評価があるのは、今述べたように、たまたまのアクシデントのような、いわば「運・不運」的なもので引き起こされたように思えるものと、当事者(宿泊者)本人たちの思い方や感じ方によって引き起こされているものがあるということです。
同様に、私たちも、自分の人生において、運・不運で考えられるものと、自分自身によって(悪いこととして)引き起こしているものがあるのではないでしょうか。
運・不運については、マルセイユタロットでも「運命の輪」というカードがあるように、運に左右される世界観はあると考えられます。
これはカルマなどとも関係するかもしれませんが、自分がもともと持っている運気と言いますか、流れ・性質のようなものがあり、なおかつ、時空的な影響による運気もあるでしょう。
東洋占的な言い方をすれば、天の運、地の運、人の運が複合しているものです。(これらは同じ構造にあって、それぞれ天・地・人ごとの世界で入れ子構造となり、関係し合うと考えられます)
よって、旅行でも、ほかの人は運がよくても、自分はその時は、運のめぐり合わせで悪いタイミングだったということもあるわけです。
しかしながら、これもやはり「運命の輪」に関係することですが、先述したように、自分自身がそのことを引き寄せてしまっているようなものあるのです。
例えば、いわゆる「ケチがつく」と表現されるように、ひとつ何か悪いこと、腹の立つのようなことがあっただけで、その印象を引きずってしまい、以降も、事あるごとに悪いことはないかと気にしてしまって、普段よりもナーバスになっていると、マイナス点ばかり目につくようになります。
また、あまりに求めるものが高すぎると、自分の理想と現実にはギャップがつきものですから、実際には理想通りではないことは生じます。それが許せないというような狭い許容(量)であると、たちまち、自分の思考・感情はネガティブなものへと変化します。
「許せない」という感情は意外に注視されるもので、起こった出来事そのもの、外の対象について許せないというのもあるのですが、例えば宿泊の問題でしたら、そんな宿泊施設を選んだ自分に対して許せないという感情もあるのです。
結局、自分への怒りみたいなところに行き着きます。こういうタイプの人では、他人だけではなく、自分自身を普段から許していないことがあり、こうすべきという縛りをかけていることが少なからずあります。
また、すべてをある単一価値だけで勘定・計算・判断してしまうと、その価値に問題があった時は、全体がダメと判定されてしまいます。
例えば、パートナー(恋人や伴侶)がいるべきという価値がすべてだと思っていると、それが実現できなかった場合、あるいはそれを失ってしまった時の自分は、許せない人物、失敗者となり、人生全体もよい評価にならないでしょう。
マルセイユタロットとして、「運命の輪」の流れには、「星」のカードが関係しているという見方があります。
「星」には、女神が壺の水を流している様が描かれ、まるで、おおらかな許しをしているような印象です。そうすると、自分の運命の輪の回転も変わるのではないでしょうか。
自分ではどうしようもない運・不運というのはあるかもしれません。しかしながら、自分の認識や見方・捉え方を変化させていくことによって変わる部分の運命もあるのだと、「運命の輪」のカードから教えられます。
かなり部分では、現実的な意味でも、自分自身が自分の運命を作っているところはあるのです。
また、変えられないと思っている天・地・人の複合的、もともと持っている運気のようなものでも、自己の浄化や運気の分析などによって、変えられる部分もあると言われています。
「これは運が悪かった」と割り切っていく態度も時に有効ではありますが、あまりに運が悪いことが続く場合や、晴れの日、ここぞという時なのに不運が起こるような場合は(自分の思いが引き寄せているわけではないのに)、それはカルマ的な要素が反映され、浄化が起こっている可能性があるかもしれません。
外の事件の発生による(運の悪い事件が起こることでの)浄化を待つよりも、先に自分から浄化をしたり、対処したりする方法はあると考えられます。(占いもそうしたものの一つです)
現実的な見方だけをしていると、まさに外で起こる運・不運の現象に踊らされ、一喜一憂するのみです。
ここに、心理的・霊的観点を入れることで、納得できるものがあったり、今後の対処ができたりするのです。
タロットを使うと、そうした別の観点が持てるようになります。
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