令和スタートに向けて。人生について。

令和の時代になりました。

平成から令和の交替時は、メディアも人も、まるで年末年始、新年を迎えるかのような感じで、見ていてとても面白かったです。

私自身は、それほど意識はしていなかったのですが、それでも思うところはありました。

特に今後のことで、令和で自分の生きる時代が終わるのか、あるいは、次の元号を経験することもあるのかと、ふと考えたところがあります。まあ年齢的に見て、令和で終わりかと思いますが。(苦笑)

今現在は老け込む年でもありませんし、かといって若いという年齢でもありません。

別に長生きしたいわけではなく、むしろ、もともと地上や現実に生きるということに、かなり昔から違和感を覚えていたり、ここに居場所がない、本当の場所は別にあるなどという逃避的な思いを抱いてきたりしたので、人生や命を大切に思う人には申し訳ないのですが、早く去りたいという感覚もありました。

この思いは、スピリチュアルな学びをしていく中で、変化がありつつも、完全に消えたわけではありません。

しかしながら、こうしたタロットなどの学びや気づきによって、生きる意味も見出すことになり、そうすると、地上の経験というものが、逆にとても貴重なものに思えてくるようにもなりました。

魂は永遠とよく言われますが、確かに、大きな次元の観点から見れば、そして、形というモノに囚われなければ、私たちは皆、永遠なる存在なのでしょう。言い換えれば、固定的な形ではないエネルギー存在では永遠だということです。

たとえ「」になったとしても、おそらく“無という状態の存在”であるとも言え、無の中にはすべてがある「空」のような概念だと思うと、やはり私たちは消えることはないのだと考えることができます。

しかし、先ほど、形に囚われなければ・・・と述べたように、逆に言えば、ある一定の形というものでの存在にこだわれば、それは限りあるものになります。

具体的には、肉体と個(私)と言う意識と形を持って生きる現実のそれぞれの人生ということになります。

ということは、私たちは一面(現実意識)では有限であり、反対に魂や個を超えたもの(超越意識・神性意識)では無限の存在なのだということになります。

前にも書いたのですが、この有限と無限の意識の違いが時間感覚を変え(生み出し)ているとも考えられますので、いわば、ふたつの視点によって自分の人生というものを見ていくことができるのです。

それは、有限なる今の自分としての個の人生と、超長期的な永遠なる魂の人生というもの(視点)です。

どちらも大切なものだと思いますが、どうしても私たちは、前者の、個の人生、限定的な視点で見てしまいます。

それも当たり前で、超長期的な人生なんて、自分・個としてはほぼ関係ないと思えるものですし、そういうものは抽象的になりますので、具体的に自分(の有限の人生)に関係することを想定することができないからです。

ただ、こうした時代の切り替えの時には、たまには(超)長期的、個を超えた流れ、言ってみれば「宇宙」とか「全体」的視野で自分の個の人生も見ていくようなことがあってもいいものと考えます。

意外に思うかもしれませんが、個の悩みは、全体としてのレベルや、今述べた長期的視野から見れば、まさに取るに足らないものとなるので消失しやすいのです。

限定というものは、限定であるからこそ、一時的なものになります。こだわりを捨てれば、あるいはもっと大きく長い目で考えれば、今の自分の狭い視野から生まれた悩みなど、いつかは変化するものてあったり、雲散霧消したりするものと考えられます。

しかし、誰もが、「個」「わたくし」という自分を感じているのも事実(現実)です。

何かを残したい、“わたくし”として味わいたい、経験したい、蓄積したい、成長したいという、具体的な個の思い・欲求が誰にでもあります。

そして、それ(思いと実現、あるいは経験)があってこその個の人生と実感とも言えます。

個の人生は有限です。ですから、こちらの視点になれば、限りある時間となり、無駄なことやダラダラとした効率の悪いことを続けていったり、無為に過ごしたりするわけにはいかなくなります。

だから、何もやっていない、何も残していない、何も経験していないということは、個の人生では大変損失のように思えます。

ただし、ここが重要ですが、個の人生は有限で、だからこそ限りある中で個が充実する働きをする必要が、上に述べたようにあるわけなのですが、あくまで個(わたくし)の人生と感覚ですから、すべては自分次第なのです。

ところが、自分次第なのに、現実(地上世界)のおかしなからくりとして、個の世界はまさに個性の世界(一人ひとり違う世界)のため、人と比べる競争的意識が出てしまいます。

悲しいことに、私たちは、人と比較される人生を歩まされ、それによって、人との差、モノや能力などのあるなしの差によって自分を評価してしまうことが起きます。

つまり、自分の個の人生の充実度が、他人との比較によって生み出されているという仕組み(実は幻想)があるのです。

でも、よく考えてみてください。

先ほど指摘したように、個の充実は、自分がどう思うかの世界でもあるので、繰り返しますが、自分次第なのです。

人との比較をするのではなく、自分が良かった、満足した、何か結果を残した、経験できた、味わった、楽しかったなどが感じられれば(決められれば)、個としてはOKなのです。

ですから、有限なる自分の人生をよくするのも悪くするのも、自分の思いだということです。

さらに、超長期的、魂的視点になれば、有限ではなく無限になりますから、有限(時間限定や個としての現実意識)においての悲喜こもごもなこと、特に有限時間内で見える形で得るものなどは、意味をなさないことになります。

もし意味をなすとすれば、形のないものが中心であり、それは精神や心ということもできますが、心は変わるものなので、もっといえば霊的な成長という意識と(見えないエネルギー的)蓄積と言えるでしょう。

皆さんの個としての有限人生は自分次第なのですから、やはり「よく生きた」と思えるものにして行きたいものです。また、時折、魂の永遠性の視点も思い出してみてください。

永遠性の視点は、個を超えていますので、全体として、生きとし生けるものすべてのものからの見方です。神(性)の愛の視点と言ってもよいでしょう。

そうすると、無限の愛が、有限の愛として流れ、結局、自分自身で愛し愛されの壮大な演出のもとで生きていることに気がついてきます。

令和の時代、有限の人生においては、他人と比べることでの自己評価も続いていくとは思いますが、それは魂的には演出のひとつであり、本当(最終的に)は、自分が自分の人生の価値を決めるのだと思って、柔らかく生きて行きましょう。

あなたがよいと思えば、あなたにとってよい人生であり、しかも、他の人からもよい人生となるのです。

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