モノから心、そして霊の時代へ。

先日、マルセイユタロットの体験会を行いました。

体験会でお話する内容は、その時の時代性、集まっていただいた人の傾向などによっても、話すことが変わってきます。

今回、個別リーディングの前に、一人ひとりのために、タロット(大アルカナ)を引いてみたのですが、全員、数が上のほうのカードであったのは、少し驚きました。それらのカードは特定次元を象徴し、いわば霊的なもの(階層)を示唆するカードたちでもあったからです。

そうすると、やはり時代的には「令和」の響きの通り、霊性の目覚めに、より向かっていく時代になっていることが、このような場でも示されているのかもしれないと感じました。

タロットのような象徴カードは、個人的に出したカードでも、全体システムと関連して考察することができ、全と個、同じ構造の中にレベルや階層、見え方、表現を変えて、それぞれの世界があるとし、「タロット」という構造・象徴を通して、個人と全体を見ることになるのです。

従って、たとえ個人的なことでも全体として、あるいは、その逆の全体的・社会的なことであっても、個人と関係して読むことができるのです。

そして、今日のテーマもそのことになってきます。

先日の体験会でも実はお話したことであり、私のタロット学習のグループの方にも、メルマガやグループコミュニケーションツールを通じて伝えていますが、時代の流れが、モノから心(精神)へ、そして霊(魂と表現できる場合もあります)へと中心がシフトして行っているように思います。(ただし、単純な横の流れではなく、繰り返しや循環のある流れ)

これは、日本の時代で言いますと、昭和・平成・令和以降の区切りとして考えられますが、もつと長期的・世界的な時間の流れで区分することもできます。

モノの時代とは、物質至上主義みたいなもので、目に見るモノや能力の多寡(多い・少ない)での評価が中心となります。そして個人の価値観が、社会の全体的な価値観とも一致することが普通でした。

その後の心・精神の時代とは、モノや多い・少ないではなく、内面、質に関心が向かい、社会全体よりも、個人がどうなのか、どう思っているか、どう感じているかということが重視されるようになりました。

平成は、まさにこれが進んだ時代と言えます。

ゆえに、問題・解決の視点でも、個人の内面(心・精神)で見ることが進み、その結果、心の問題(うつ病など心の不調問題)がクローズアップされ、世間に普通に認知されるようになってきたと思います。

そしてよい状態、望ましい方向性(問題の解決方向)としても、物質的な成功の方法論の多様化と同時に、心が中心になり、自分の心を見る、心を整える、ということが多くなってきました。

心のアプローチも、心理学的なものもあれば、狭義の意味でのスピリチュアル的なものもあります。(区分けすると、今生での心理的データを扱うか、個人成育歴を超えた多次元や過去生などのデータを入れるかによって違ってくると思います)

いずれにしても、心・精神に観点がシフトしたことて、「自分」「個性」というものも、実はさらに強調されるようになったのです。

だから、「ありのままの自分」とか、「本当の自分」という言葉で、「自分とは何か? 誰か?」「自分は何がしたいのか? どう思っているのか?」ということが、たくさんの人からのテーマとして掲げられるようになったと考えられます。

しかしながら、その反面、今もそうですが、現実での自分と、心にある自分との乖離、葛藤というものも、大きくなる人が増えたかもしれません。

それまでは単純に、モノ的な多い・少ないの社会的価値観を自分にトレースしていれば、目的意識も保て、成功や幸せというのも、ある意味、人(社会)が与えてくれる単純なイメージで良かったところもあるのです。

それが「自分の心」というものに視点が移ってきたので、自分(の中の心)が納得しなければ、満足しないという状況も出てきたわけです。

そもそも自分の心とは何か、本当の自分とはいったいどの部分で、何を求めているのかということも、心は見えない部分だけに、不明瞭で混沌としたところがあります。

そして、自分の心の満足を追求するあまり、快楽と区別がつかず、楽しいということを誤解して、楽であること、すぐに回答が出ること、とにかく“自分”なので、自分さえよければいい、自分の快楽こそが一番先に求められることという風潮に堕ちてきたところもうかがえます。

また、自分の中をあまりに探求し過ぎて、自分(の内面)が巨大な存在になってしまって、掘っても掘っても問題が出現し、心の平静どころか、心の問題の無限地獄のような状況に陥ってしまうまじめな人も出ています。

「自分らしさ」が煽られる時代になり、その自分らしさが結局わからず、他人から評価されることで、自他の区別をはっきりさせ、自分(自我と言ってもいいです)を仮の形で作り上げるようなことも拍車がかかっています。(SNSなどで見られる承認欲求、自分を個性的に魅せようとする傾向など)

心の時代にシフトしたことで、一人ひとりの心を見るようになり、確かにそのことで(自分の)心を大切したり、周囲の価値観をただ受け入れるだけではなく、個人(自分)の思いに気づいたりするように進化したところもありますが、一方で、モノの価値観がまだ基本にあることで、モノと心の葛藤という、複雑な事情を、個人個人が抱え混むような時代にもなったと言えます。

例えば、本当にしたい仕事(心)と経済的(モノ)でやる仕事との間で悩むとか、そういうことです。(昔は経済的事情の仕事が、社会と個人の価値観とで一致し、個人的にも一生の保証と保障になっていたので、心をあまり悩ませることもなかったわけです)

このままでは、自分の心と外側のモノ的な世界とをうまく合わせられた人は(心の欲求が環境的にも叶っていた、叶うことができた人)はよくても、大多数の人は、おそらく自分の心を取り戻していけば行くほど、悩みも増える(外との乖離が激しく感じられる)のではないかと思います。

それを妥協して生けていける人もいるてしょうが、それが私たち全体として積もっていくと、どこかで社会としても悲鳴が上がってくるようなことになる(システム的に限界が来る)ようになるのではないかと予想されます。

ですから、これからは、再度、関心を自分中心から他者や社会、もっというと宇宙のような全体に向ける必要があると思います。

もちろん、個人の(心の)課題を放置してよいというのではありません。自分を見つめながらも、自分だけに固執せず、全体としての視点を持つようにするということです。

タロットリーディングで言いますと、個人的な幸せや解放を意図しながも、全体として、この人の役割は何かとか、一人ひとりが霊的に目覚める方向性を考慮に入れたリーディング視点を持つということになります。

結局、モノと心が統合できる考えや気づきを、私たち一人ひとりと、大げさにいえば人類全体でもたらす必要が、これからはあるのではないかと言っているわけです。

自分が幸せになるのはもちろん、他人も世界の人も、皆が幸せになるあり方はどうなのか、自分にはそんな大きな話は関係ないと言われるかもしれませんが、まず、視点を変える、そういう個人と全体との接合を思うだけで、だいぶんこれからが違うように感じます。

言葉で言えば、モノと心の根源である霊を覚醒させるという方向性ですが、言うは易し行うは難しかもしれませんし、「霊」というものだけに、心よりもさらに具体性に欠ける嫌いがあります。

それでも、心の時代に、スピリチュアルな志向も以前より顕著になったことで、今後、真の霊的な成長に関心を持つ人も増えてきたように思います。

ただ、ライトにスピリチュアルを思う人は、最初はそれでもよいと思いますが、どうしても受動的精神になりがちで、何か神とか天使とか、特別な高次存在から受け取るみたいなニュアンスが強くなっています。

受け取ることも、もちろん大事ですが、同時に、能動的になる、創造することも重要です。

これは男性性にもつながります。女性性の時代と、今まで男性性の歪な支配的なものからの解放の意味でよく言われていましたが、男性性のよい側面も評価していくこと(男性性の修正と真の回復)も大切です。

女性であっても、自身の男性性はありますし、男性にも女性性があります。霊的向上には、それらのバランスよい統合が求められます。

自分がどう感じ、どう思うのかということは、ある意味、能動的に見えて受動的でもありました。これからは、ただ感じたり、受け取ったりするだけではなく、自分自身が考え、選択していくこと、決断していくこと、創造していくことも重要な転換の鍵になると考えられます。

何といいますか、何か特別な存在から受け取るだけではなく、自分の中に特別な・高次な霊があることを思い、その中心から発動していくという感じでしょうか。

高次と響き合いながら自分の内なるものを目覚めさせ、自分がすでに高次であることに気づくと言い換えてもよいでしょう。

マルセイユタロットでいえば、自分の中に「神の家」を建てる、自分自身が「神の家」になることでもあります。

矛盾をどう解決するのかは、それは、従来の知識や感覚では対立するだけで、埒が明かないものです。つまりは、今いる次元や階層を超えたレベル、知性と感性がいるのです。それが、言わば、霊性の向上、目覚めと同意義になります。

マルセイユタロットの「」の象徴は、そうした智慧とも関係してくるのです。

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