現代の自分探し

自分を知りたい、自分らしくありたい、こういう望みを持つ人は増えたのではないかと思います。

昔から、いわゆる「自分探し」という名前で、自分が何者なのか、自分は何のために、どんな目的で生きているのか(生きて行けばよいのか)と、世界を旅する人がいました。

そして、精神・心理の世界で、自己表現の大切さが謳われようになり、また別の形で、それを求める人が増えたように感じます。

しかしながら、かつての「自分探し」の旅で、よくある結論・結末としてあったのは、結局、自分はここにいた、というもので、世界など旅する必要はなかったのだという「幸せの青い鳥」のような話でした。

まあそれでも、考えようによっては、世界を旅したからこそ、身近なこと、本当に大切なものがわかったということもあるので、探求したり、放浪したりすることは無駄ではないと思います。

そして、現在は、自己表現ということで、自分の個性、自分らしさというものに注目する人が多くなったのは、先述したとおりです。

これは裏を返せば、自分を押し殺し、無意識的に人の言いなりになって、何か社会や組織、大きな存在や常識と言われるものに自分をあてはめて生きようとし過ぎ、自分が本当にどうしたいのか、どう生きたいのかを見失っていた人がたくさんいたからだと考えられます。

ところが、ネット社会になり、SNSや動画などで、簡単に自分を発信・表現できる時代になり、自分自身を見る者、自己表現の方法と世界は増えたものの、他人から認められたいという欲求が増加したり、自分のことがますますわからなくなった、個性がみんなのようにうまく出せない(埋没した自分を感じる)という人も少なからずいるのではないかと思います。

コミョ障を自覚する人も増えたのは、こうあるべきとか、人はどんな場合でもうまく円滑にコミュニケーションすべきという観念のようなものがある中で、そうなれない自分が余計気になるようになったからではないかと思います。

言い換えれば、情報が多く、一般化(情報が伝わりやすく、形だけは共有)するシステムが作られているため)しやすくなったことで、自分がそのイメージとはそぐわないことが際立つ(実際の自分と、理想で語られるイメージとの乖離が強くなる)ようになったということです。

情報が一般化されてくると、このように、昔は考えもしなかった(情報として入らないか、少ない例しか見ないので、気にする範囲が狭かった)ことが、いろいろと嫌でも目に付いてきて、気になるのです。

もちろん、かつてあった地域の年齢階梯的な集団制度も崩れ、少子化で部屋にこもりがちな人が増えたり、あまり他人とコミュニケーションせずとも、お一人様でも生きていける環境が整ってきたりしたことことの弊害もあるでしょう。

要するに、今の社会、昔の自分探しとはまた違った意味で、自分を探さなければならない状況に追い込まれている人がたくさんいるのです。

そして、皮肉なことに、その探している自分は、情報化社会にある無機質とも言える集合概念のような“他人”に対して受けのいい自分、かっこいい自分、何か注目を浴びる自分という、本当の自分かどうかは疑わしい存在なのです。

また、精神・心理系の人が探す自分というのは、言葉では本当の自分、ありのままの自分というものですが、これも、抑圧している(されている)自分でない部分の自分ということで、本当の自分の一部でしかないのが実情でしょう。普段演じている自分も、大きな自分の中の一部であり、結局、どれもが自分なのです。

ですが、抑圧されている自分がそのままだと気持ち悪いですし、いつか暴発しかねませんので、その抑圧されているほうの自分を発見したり、コントロールしたり、浄化したりする必要はあると思います。

自我の二重構造と表現できるかもしれませんが、人に見せやすい自分と、見せにくい自分に対立・葛藤をさせてしまうと、エネルギー消費も無駄に巨大なものになり、歪みも起こしているので、心身に悪影響が出るのは必然でしょう。

よって、そのねじれや二重構造は解消するか、葛藤するふたつの自分を協議・調整させておくことは望ましいです。

とはいえ、あまり情報に踊らされて「自分を探す」ことは、やり過ぎないように注意したほうがよいです。

中には、それ(自分探しの手伝い、コーディネート)をわざと商売にしている人もいます。(そういう仕事があってもよいと思いますが、目的が別にある悪徳的なものも存在するからです)

さきほども言いましたように、自分が表現する(している)自分というのは、全部自分(トータルな自分の一部)ですから、あれが本当でこれは偽物と区別する必要もないでしょう。

マルセイユタロットで言えば、大アルカナ22枚に象徴される人格が自分の中にすべているみたいな話で、さらに小アルカナ的にいえば、それらが4つのシチュエーションや性質、10の段階などにも分かれるという感じです。これもすべて自分の中にあるものです。

タロットを知れば、少なくとも78枚(の象徴)の自分がいることがわかります。

ペルソナ、仮面というものがあり、ここからパーソナリティと言葉も出るように、私たちは全員、いつもペルソナでいるようなものです。本当の自分は仮面をはがした者ではなく、仮面全部を統合した者と言ったほうがいいかもしれません。

会社にいる自分、家庭にいる自分、友人といる自分、パートナーといる自分、趣味の時間にいる自分・・・たぶん、皆さん、それぞれの顔や態度は微妙に違うでしょう。解離性同一性障害(多重人格)ほどではないにしても、普通の人にも、いろいろな自分がいるのは確かなのです。

(演技や功利的な意味で)わざとやっている人もいるでしょうが、大半の人は自然に相手や状況に応じて、それにふさわしいと思う自分が出ています。

そもそも劇や映画などで演技が成り立つのも、演技者(人間)の中で、そういう人格を一時的にも形成できるからで、もちろんそれは演技者本人とは別人ですが、演じることができるのは、その性質を持つからと言えます。

だから、誰れしも、悪人にも善人にも、ヒーローにもヒロインにもなれる気質があるということです。

現実には、様々な条件やカルマ等もあり、すべての人格を思い通りに出せて、なれるわけでありませんが、人とはそういうもの(あらゆる人格の可能性を持つ者)だと思うと、自分探しというものが無意味であることがわかってくるでしょう。

あえて言うのならば、この(その)時代に生きることの意味や、生き甲斐を思える自分というものを作り上げることが「自分探し」と言えるかもしれません。

探すのではなく、作り上げるのですから、選択も創造も可能なのです。

性格や経験というベースがあるので、まったく新しい人物を創造することはなかなか難しいですが、結局、自分の生きる価値・生き甲斐ができれば、それは自分らしさとか、自分の個性とかになってきますので、自分探しは、自分なりの生き甲斐、この生(せい)のある人生に自分価値が持てるかにかかっているというわけです。

ですから、死ぬ前なら、いつでも間に合うわけで、この意味において、自分探しに遅いはないのです。

この人に出会えたことが良かったとか、この仕事ができて良かった、このチームに入れて良かった、この動物を飼って良かった、ここに来られて良かった・・・こういう瞬間や状況でも、自分の生き甲斐を感じることができれば、その時の自分は自分を探せていると言ってもよいです。

ということは、「自分探し」で見つけようとしている自分は、自分単独だけの存在(自分ひとりで見つけたり、見つかったりするもの)ではなく、相手や状況など、自分以外のものとの、相対的・関係的な形としての「自分」でもあるのです。

本当の自分とは、全体(世界)とのトータルな自分と、自分単独と思っている自分の両方の接点にあるものだと言っています。

自分らしさにこだわっても、それは本来の自分ではないのですから、あまり悩まなくてもよいです。

逆に、この現実世界では、自分らしさは、抑圧される自分が調整されている(規範性・社会性と、自我・エゴ性の自分がうまい具合に調和しているか、バランスが取れている)自分であり、他者との違いをペルソナ的に持ち、それが生き甲斐になっている自分なので、それはそれで、追求していく(その意味で自分探しをする)のは、現実を生きる意味ではよい(生きる意味を現実に見出す)ことだと思います。

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