違うものが同じに見える「∞」

2020年も、早くも10日近く過ぎようとしていますね。

わざと、あせるような見方で書きましたが、逆に言えば、まだたった10日程度しか経っていないわけです。

前にも書きましたが、マルセイユタロットの大アルカナを数の順で見て、21の「世界」から見るか、1の「手品師」から見るか(ちなみに「愚者」は移動していく存在そのものとして考えます)の視点によって、変わってくることを言いました。

つまり、ゴールから見るか、出発点から見るかの違いであり、時間的に言えば、終わりから見るか、始まりから見るかになります。

まあ、実は、マルセイユタロット的に言えば、終わりも始まりもなく、循環するもので、ゴールかと思えば出発でもあり・・・という不思議なことになってきます。それをひとつの図形で象徴したのが、「∞」の図です。

そして、マルセイユタロットの、特に始まりや終わりを示すと考えられるカードには、それが描かれています。(言われないと気づけないものもあり、これらは秘伝的にもなります)

通常、始まりと終わり、出発とゴールが同じなんて発想や見方はできません。それは私たちが、運動について、直線的なイメージを持ちすぎているからで、しかも三次元的な時空の思考とでもいうべき感覚に囚われてもいるからです。

普通、どこかに行こうと動いた場合、最初の動いていない地点が出発点であり、着いた場所がゴールということになります。

しかし、別の見方になってきますと、これが、着いたところが元の出発点だった・・・ということになります。(笑)

とすれば、その人は、まったく動いていなかったのでしょうか?

そうとも言えますし、違うとも言えます。

例えば、自分が動くのではなく、周囲が動いていたとしたらどうか?です。

言わば、バーチャルゲーム空間みたいな機械の中に入っていたり、3D投影メガネみたいなものをかけたりして、自分が動いているように錯覚していた(景色のほうが動いていた)と仮定すると、出発地点は当然ゴールとイコールになります。

もうひとつは、「∞」の図形からヒントを得た見方で、この図形の中心点が、自分のまさに中心点であり、常にここが基準だと考えます。

そして、ある地点に移動する場合、この中心点から、右か左かに、ループを描く線のままに進んで行くとしますと、いつの間にか、ぐるっと回ってまたもとの中心点に戻ります。

この輪を通っている過程が移動している実態だとすると、やはり、私たちは必ず中心点である出発点に戻ってくることになり、そして実はそこは、移動している者からするとゴール地点の感覚にもなっています。

さらに言えば、この中心点が立体構造のようになっていれば、ぐるっと回って中心点に戻ってきているように見えても、立体なので、ちょうど螺旋階段を上ったり下りたりしているように、空間的には別の位置へと来ていることになります。

もしかすると、元の中心点の位置であることを忘れてしまっているかもしれません。(例えば、階段の上下みたいに、上から覗くと同じ地点ではあるけれど、自分は二階に来ているので、別の場所にいると思うようなもの)

一度、自分の中心、元の場所には戻ってきてはいるのですが、いつの間にか、新しい出発が始まっており、次なる旅に進んでいるわけです。それはまた、今まで通った輪、ループからすると反対側、逆のものに入っていくことにもなります。

こうして、私たちは、いつも中心を通りながらも、移動している自分自身は、「ずっと前に進んでいる」「かつての場所はもう遠くに離れている」直線的に感じてしまうわけです。

「∞」の見方からすると、まったく同じ場所ではないにしても、進み方は同様であり、出発点とゴール、始りりと終わりは(次元は異なっていても)同じであるという考え方ができるのです。

ただし、螺旋階段の上り下りのように、それ(階段の階層)をレベルや次元と考えれば、私たちは、同じような道を辿りつつも、成長や後退を繰り返していると言えるのかもしれません。

さきぼどのバーチャルな見方を入れますと、この世界はまさにバーチャルゲーム空間のようなものであり、私たち自身が移動しているのではなく、周囲の景色が、私たちに移動させているように思い込ませるために動いているという発想が出てきます。

この移動を「(人生の)経験」と言い換えれば、私たちが経験することは、すべて周囲がさせていることであり、私たちの本分、本質は、何も動いていない、ことになります。これは経験させる自分と、経験させられている自分との、ふたつの自分がいると見ることが可能です。

これが分離であり、現実の仕組みと言ってよいのかもしれません。

となれば、その分離が統合すれば、移動する自分と移動させている自分の境がなくなり、結局のところ、自分はここにいる、すべてを仕組む本当の自分との出会いを果たす(戻る、回帰する)ことになるでしょう。

しかし、ゲームとして楽しんでいるとするのなら、わかっていても、ひとつに戻るのは野暮な話なのかもしれません。(笑)

ゲームとしての楽しみではなくても、きっと、霊的には、こうする理由が必ずあるはずなのです。

それでも、自分を錯覚させながら、自作自演で右往左往するレベルの楽しみ方は、もう卒業していくような新たなゲーム段階もあるのだと思います。そして、そういう時代に、人類全体が目覚めようとしている気がします。

言ってみればゲームのバージョンアップです。もう皆さん、戦闘や支配もの、戦いに明け暮れ、誰かが多くを支配し、勝利したものが利益や欲を叶えるみたいな、ネガティブな意味で、ドキドキするような世界は飽き飽きしていませんか?

そういうゲームの楽しみ方は、だいぶん螺旋階段の下のほうの世界ではないかと思います。螺旋階段は、同じ構造ではあっても、次第にレベルが上がれば、輪自体が拡大していくものと考えられ、それだけ世界観が大きくなるのです。多様性が増すと言ってもよいかもしれません。

ですから、今までのような支配型ゲームがお好きな人はどうぞそれで、ということもありはするでしょう(螺旋階段を直線に降りる道もあるのかもです)が、もっと別の楽しみ方のあるゲームも、拡大した輪の中に入ってくるはずです。人々の意識が変わってくるのも当然になるでしょう。

ところで、「∞」の象徴図は、これにひねりをさらに加えれば、メビウスの輪になります。

メビウスの輪になれば、裏側の世界も通って(経験して)、元の中心点に来ます。ただの∞構造では、始まりと終わり、出発とゴールが同じでしたが、メビウスの輪になれば、表の世界と裏の世界の統合も(同一性)も出てくるわけです。

左右の輪と、表裏で、四元構造とも言え、それらが何を表すのかを想像すると、意識が変わりそうです。次元的には三次元を超えて、四次元以上を考える世界ですね。

マルセイユタロットで描かれていると言われる教義のひとつ、グノーシスは、神と人の同一性を説くものです。普通なら、三次元感覚にいる私たちには全く考えも及ばないことですが、それでも見方を変えれば、確かに、人と神は同じとなる次元があるのかもしれません。

いやはや、本当に、マルセイユタロットの象徴(図)は、面白いものです。

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