こちらの記事は、アメブロで書いた記事をそのままアップしています。
それで、アメブロのほうでは、同時期(年は違えど、同じ月日に近い時期)に書いた過去記事が、自らのホーム画面に表示されるようになりました。
ところで、私のブログ記事は、計画性をもったり、計算したりして書いているのではまったくなく(苦笑)、その日、その時、マルセイユタロットを素材として思いついたことを書き綴っています。
ですから、記事をアップすると忘れていることがほとんどです。
時々、講座の受講生から、「いついつのあの記事は、面白かったです」「その話は、ブログ記事に書いていたものですよね」とか言われますが、自分では先述したように、覚えていないので、「そうでしたっけ?」みたいに答えて、不思議がられます。
思えば、すでにかなりの記事を書いておりますので、整理しようにも大変で、そのまま放置しております。(笑) 中には奇特な方もおり、「全部、記事読みました」と言ってくれるありがたい人もおられますが、もう、ほんと、ありがたいですし、その労力にびっくりです。
ともかく、アメブロの機能により、過去記事を自分が再度読む機会があって、でも内容は忘れているので、逆に新鮮な気持ちになり、また当時とは考えやレベルが変わっていることもあって、それに付け加えたり、補足したりしたくなることも出てきました。
それで、今日はそうした過去記事を再アップしたいと思います。
で、今の私からこれを見ますとですね、この記事からさらに別の焦点が言えるのですね。
この記事では、何らかの貢献感を持つことによって、自分の存在を濃く(実感)することで、生きづらさを軽くする、少しでも自分が生きていく価値を見出すことを述べています。
つまりは、空虚感は、存在感のなさにあると言っているわけです。(こう書けば当たり前みたいな話ですが)
モノやカタチの希薄な世界、例えば霊的な世界のようなところでは、おそらく空虚な存在であってもいいと思います。いや、むしろそうなるのが普通なのかもしれません。
ですが、現実とは、モノやカタチがはっきりしている時空間です。ここで自分がその他大勢、誰でもない何かみたいな、空虚な存在であると思ってしまうことは、まさに命取りになりかねない危険性があります。
まあ、関西弁で言えば、現実とは、存在感あってナンボの世界ですわ。(笑)
存在感とは何かと定義すると、いろいろな考え方があり、難しい部分もありますが、要するに個性とか、心理的には自我(エゴ)と言ってもよいのではないかと思います。
マルセイユタロットでも現実の階層を示すとされるカードは、人としての個性が絵で見られます。ただし、「悪魔」とか「13」とか、「神の家」などは、時に現実を超えたレベルにありつつも、強烈な個性がありますよね。ここは結構、重要な示唆だと思います。
話を戻しますが、ひとつの考え方として、現実での存在感とは、スピリチュアル的に言えば、波動の強さみたいなもの(粗くあっても、強いもの)ではないかと推測されます。
従って、前にも書いたことがあるのですが、自分の存在感が薄く感じて、現実に適用しにくくなっている場合、潜在意識のようなものが危機感を覚え、自分が自分だと意識できる状況を創り出してしまうわけです。
それが「問題」であり、簡単に言えば、「自分に強くフォーカスし、自分の強い波動を出さざるを得ない状況にする」のです。病気だとか、経済問題とか、人間関係とか、およそこの世の悩みは、そうした自己の存在感を自分自身に訴えるために、出てくるところがあると考えられます。
いわば、マイナスの自己アピールです。だったら、プラスの自己アピールになればよいわけで、ここの発想の切り替えができれば、だいぶん、自分と現実の関係も、よい意味で変わってくるのではないかと思います。
スピ系や心理系に傾倒し、まじめな人は、エゴをなくそうと努力しがちですが、それが逆効果のこともあるのです。自分が希薄で自己存在感を低くくしてしまっている人(自尊心にもつながります)は、まずは、エゴを高めたほうがよい(よい意味のわがままを出す、自分の本当の気持ちを大切にする)こともあります。
単純に「私はこれが好き、私はこれが嫌い」という二極の波動を出せば、その波の振幅は大きくなりますから、強い波動になるでしょう。えっ、分離が怖い? 争いが怖い? いやいや、調和するのと、支配されるのとでは違いますからね。
支配されていては、支配するもの・されるものの、それこそ二極構造を増長させていることにもなるのですよ。ますは自分を強く回復させることから始めましょう。
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