守・破・離
芸事などで、師弟関係や、ある流派で学びをしていく過程において、「守・破・離」ということが言われます。
最初は、師、流派の教えに忠実にやっていき、やがてその教えられた型だけではなく、多流派なども比較研究して採り入れ、やがて、自分流のオリジナルなものとして自在にしていく様が、守・破・離の段階です。
言ってみれば基本から応用、さらに新しい自分なりの創造へと移り変わる過程ですね。
これは、人生そのものにも言えるのではないかと思います。まあ、人生の守・破・離ともなりますと、離の段階では「死」、あの世への旅立ちとなるのかもしれませんが。(苦笑)
タロット学習においても、この三つの段階が当てはまると思います。
私、個人的にも、この過程を通っている感じがします。今はどの段階かは言いませんが、少なくとも、破には来ていると実感します、今年立ち上げていく予定の新講座では、その分野においては離になるものと考えています。
ところで、この「守・破・離」が、意図して起こるとは限らないのです。
「守・破・離」の過程は、習い事のことが多いので、どうしても師弟の関係性の面があります。(最初から師を持たない人は別ですが)
自分の師・先生と、円満に「破」「離」へと移行していけばよいのですが、時には、いわゆる師からの破門とか、逆に、不満や理由があって、自分のほうから、思いがけず離脱してしまうということもあります。
また双方、納得ずくではあっても、あとからトラブルになるようなこともあります。
どの分野においても、ひとつの流派を形成していると、その流派の正統か異端かの争いが起こるように思います。この言葉からしても、そう、結局、宗教と同じなのですね。
だいたいにおいて、流派の正統か異端かの問題は、創始者の引退・死後などによって、後継者が誰になるかで争いが勃発します。
創始者は、宗教で言えば教祖とか、最初に神から啓示を受けた人物になり、ともかく偉大なアイデア人であったり、爆発的な情熱、行動力を持っていたりする人の傾向があります。カリスマ的な人とも言えますね。
また創始する人だけに、特別な技術や才能、芸事では磨き上げた技も卓越したものがあり、多くの人を魅了したり、納得させたりするだけの技量、あるいは人格がある人のことがほとんどです。
しかし、後継者は、その息子とか娘、血縁者であると、創始者よりもカリスマ性や能力が劣ることがよくあり、さらに、後継者と名指しされた人でも、まじめではあるけれど、「破」まで至っていない、ひたすら「守」だけの特徴のある人がいます。
そうすると、流派で特別に能力や技術がある人とか、人心を掌握したり、組織運営に長けていたりする人が、流派から独立して、新たな一門を作ることもあります。いわく「本当の教え、技術はこちら側にある」などと言って。
これ(正統争い)には、いろいろな問題があり、純粋に師の教えを守ろうとする人もいれば、このままでは発展性がないとして、技・芸をさらに磨き、新展開、拡大を目指す人もいるでしょう。
「教え」だけのことではなく、現実的問題として、経済や運営、人間関係・・・様々な要素がからみ、流派が分かれていくことにもなるのも世の常と言いますか、仕方ないところもあるのかもしれません。
そんなわけで、守・破・離が、自分が意図したものとは別に、強制的に発生したり、そのような方向に向かわざるを得ない状況になったりすることもあります。
しかしながら、自分の気持ちや意図で起こったものでなくても、また、少々トラブル的に師や一門から離脱することがあったとしても、それは、真の自立の意味で、破から離への流れのために、必要・必然のケースもあると考えられます。
まじめな人ほど、師の教えや流派・一門に忠実であろうと心がけます。ただ、それがあまりにも行き過ぎていては、ただの奴隷であったり、まさに「なになにの犬」と言われるような状態になったりします。
犬といえば、マルセイユタロットの「愚者」のカードが思い浮かびますが、あなたがもし愚者(愚か者という意味ではなく、自立・完成への旅立ちの者)であろうとするのならば、犬は後にいて、あなた自身は犬ではないことに注目すべきです。
自己犠牲は、本当の意味の自立にもなりませんし、師が本当に望むことではないと思います。
師が正しいとは限りませんし、仮に正しかったとして、その時代・解釈においてということもあり得ます。伝統を守ることだけが、受け継ぐことと同意ではないでしょう。
もちろん流派の「守」も大切で、おろそかにしていい、無視して去れと言っているのではありません。そこで学べたことは感謝すべきで、師はいつまでも、とのような状況になろうと、やはり師だと思います。ただ、自分は何のために学んできたのか、ということです。
もし、あなたが、その流派や一門を愛し、その組織自体を守り、存続させるという役割を思っているのなら、守こそが本道でしょう。
しかし、もともとその流派・一門に入った目的、何がしたかったのか、どうなろうとしたかったのか、その初心の目的・気持ち・意思を思い出せば、流派・組織にこだわる必要もないのかもしれません。
すると、「破」は当然として、やがて「離」に至ること、「離」を目標にしていくことも、納得できるでしょう。
離になっても、あなたはあなたなりの方法で、師や流派に貢献していけばよいのです。
自分が学び、属してきたところとうまく行かず、どうすればよいかと迷っている時、そもそも論のように、あなたたは何がしたかったのか、どうしたいのかを再び思い起こすことです。
そこでしか自分のやりたいことができないと思い込むのも早計です。人は、たいてい、選択肢や方法が、これまでの自分のレベルの範囲でしか想起できず、だからこそ迷うのです。
今の自分の世界認識を変容させ、小さな自分の世界を破壊し、大きな世界へと飛翔した時、選択肢は意外性をもって増加しますし、新たな自分の道や方法も見えてきます。
マルセイユタロットでも、「守」的なカード2の「斎王」、12の「吊るし」において、それぞれの次の数のカードは「女帝」「13」になっており、創造性と破壊性(創造性の別の形)を象徴しています。
順調に、守・破・離ができれば理想ですが、実際には、いろいろな要因がからみ、もたもたしているあなたに、別のあなたが、破と離を目指すよう、環境を用意してくれる場合もあるのです。
結局、「世界」のカードではないですが、多くの人に関わりつつも、この世では、あなた自身の世界を作ることが求められていると思います。
それは、言い方を換えれば、あなたが創造主になることでもあり、それが神性の発露・回帰にもつながることになるでしょう。
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