「斎王」と「法皇」の学び

今日は学びをテーマにして、マルセイユタロットの「斎王」(一般名「女教皇」)と「法皇」(同「教皇」)について述べたいと思います。

マルセイユタロットにおいて、「学び」の象徴や意味は、究極的には自己の内面におけるものと言えますが、その内面も単に心理的なものを指すのではなく、自己にある、神性的なものを思い出すための学びといったほうがいいかもしれません。

つまりは、トータルな自己の統合や回復という意味です。

しかし、よく考えれば、内なるものと言っても、外のものとの違いは、実は、突き詰めてしまえば同じものと言え、例えば、物理学的に見ても、量子のような小さな世界で統一して見れば、内も外もないのがわかるでしょう。

心理的な意味においても、内なるものが外に投影されることもあり、スピリチュアル的には、ただひとつの世界を(二面から)見ているだけと表現できますし、また、内と私たちが普段思っているものこそ外的世界で、逆に言えば、外的世界が内なるものなのかもしれないのです。

おそらく、「斎王」と「法皇」の違いも、そうした、あるひとつの二面性内と外が違うようで同じことを二枚で表しているように思えます。

そして、ふたつのカードは、「女帝」や「皇帝」に比べ、精神的・宗教的なカードに見えます。

ここから、やはり、二枚は内面的なことに関わるカードであることはわかるでしょう。

しかし、「斎王」は確かに、内に秘めている感じが強いですが、「法皇」のほうは、弟子や聴衆と思しき人たちの前で、何かを言っているように見え、その姿は活動的であり、外に関心があるようにも感じます。

それでも「法皇」は、一般的には教皇などと呼ばれ、キリスト教の教皇様を彷彿させますから、たとえ教皇様そのものではなくても、カード人物の姿・形からして、何か宗教的な権威者であろうことは想像できます。

とすると、「皇帝」とは別の役割であることも推測できます。そうやって論理的にカードを見れば、「女帝」と「皇帝」に対して、「斎王」と「法皇」という別の役割の人たち(ペア)がいることも理解でき、当然、意味や象徴性も異なってくるわけです。

さて、ここで「学び」をテーマにして考えてみましょう。

「斎王」と「法皇」は、ともに精神や内面、あるいは外向きであっても、宗教的な人物の姿から、実際的なことや政治的なことよりも、やはり精神的・教育的・理想的なことに関わっていることがイメージできます。

学びは、実際的なことの学びも当然ありすが、学んでいる最中そのものは、実際的ではありません。わかりやすく言えば、学びと実践は(次元や場面が)異なるということです。

もちろん、実際に物事をやりながら学ぶというスタイルはあります。しかし、それ(行動)を学びだと思う意識がなければ、学びにはなり得ません。

つまり、学びは精神や心、意識にあるのです。

内面や精神的なものをイメージさせる「斎王」と「法皇」は、このことをもっとも強調しているのだと思います。

ただ、「斎王」と「法皇」では、女性と男性の違いもありますし、「斎王」は一人だけであるのに対し、「法皇」のカードでは、複数のほかの人物たちが描かれています。

ここから、学びの方法が違うことがわかります。

単純に言えば、「斎王」は本も持っていますので、独学・自習であり、時間的には予習・復習も入りますが、「法皇」は、聴く側の人物に自分があてはまる場合は、法皇から教えられる者(生徒)たちとなり、時間的には現在の学習そのものになります。

さらには、自分が「法皇」であれば、自らが教える側、先生・講師になるわけです。一方の「斎王」は、その気になれば人に教えることはできるのかもしれませんが、絵柄だけからすれば、教える段階にはない、あるいは他人に教える役割ではないのかもしれません。

「斎王」は、女性の宗教的な権威者のように見えますから、ある意味、高い位(レベル)の巫女的な女性と言えます。

巫女自身がたとえ知らなくても、その文字自体が示すように、まさに、人の間に立ちながら、上(天上)と下(地上)をつなぐ女性なのですから、言わば、神を降ろすことができる者で、すると、その知識は、人間でありながら神そのものと言えます。

ということは、「斎王」は学ぶ必要があるのか?という疑問にもなってきます。これは、女性性における「理解」の本質の鍵を握る秘密であり、女性の皆さんは、「斎王」に注目することは、とても有意義だと思います。

古代では、なぜ巫女的な人が活躍したり、重視されたりしたのかの答えにもなってきます。

一方の「法皇」は、話す(教える)ことで実は自らの知識・学びも向上させているように見えます。

このことは、人に教えることをしている方にはよくわかることだと思います。人にものを教えることは、自分の今までの理解だけでは難しく、人に伝えるための工夫、技術、さらなる物事への理解度が必要となります。これは言い換えれば、一般化とか普遍化の技術です。

「斎王」が自分だけの理解で済むのに対し、「法皇」は他人への説明、他人に理解させることが必要になります。「法皇」の力は、男性性に関係します。

たとえ、高度で深いことを知っていても、それをほかの人にうまく教えたり、伝えたりすることができるかは別です。

神様も、普通の人間に、正確に神様の知っていることを伝えるのは苦労されるでしょう。(笑)

このように見てくると、学びの根本は精神や意識にあるのですが、自分だけの範囲で学びと理解を留めておくか、他人にまで範囲を広げ、シェアしたり、さらなる刺激を受けたりして学びの質を高めるかによっては、「斎王」か「法皇」かの違いも出てくると言えましょう。

どちらかの優劣の問題ではなく、まさに自分にとって「学び」をどうするかによります。また、現実問題としての、時期や方法、自分の段階・レベルにもよります。

ですから、あなたは今、「斎王」になる必要がある場合もあれば、「法皇」でなければならないこともあるわけです。

また、自分の希望や思いとは別に、実際では、強制的に「斎王」や「法皇」にならなければならない環境・状況が起きます。

「学びは意識である」と言いました。

従って、あなたが意識的に「斎王」になる、「法皇」になることをすれば、まさに、「学び」は、そのスタイル・性質によって、あなたのものとすることができるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top