モノと心の整理、浄化の関係

今、多くの皆さんの中では、これまで日常だったものが非日常化し、逆に非日常のことが日常化したため、前の記事でも書きましたが、物事の相対化、いわば、ひとつのことがふたつの関係性で成り立ち、ふたつは異質でありながら同質であると見ることのできる視点の獲得が起こってきています。

もし前の生活に戻りたいと強く思ったり、やたらとあせって、今後は、自分が勝者、優位に立ちたいと激しく思ったりすると、優劣みたいな感覚が残っていますので、つまりは均衡ではなく、どちらかに偏っていることになり、それでは第三の位置(新たな創造とも言えます)がわからないままになるでしょう。

ともかく、バランス的に多角的、あるいは両方の視点を持つことか、今の時期大切かと思います。

さて、それと関係する話になるのですが、今回は持つことと持たないことをテーマにしつつ、内と外をシンプルにしていく方向性を述べたいと思います。

ステイホームということで、外出や直接の人付き合いを自粛し、家での時間が多くなってきますと、やたらと無駄なものがあったことに気づいてきた人もいらっしゃるはずです。

現に、これはある面では困ったことではあるのですが、時間ができて部屋の中を見渡すと、余計なものが目立つようになり、整理して処分する人が増えたため、ゴミが増大したという話も聞きます。まあ、することがないから、この際、部屋・モノの整理整頓でもしようかと思い立つ人も多いということでしょうか。

こういう部屋のモノだけではなく、テレワークを実施する会社も増えたことで、今まで理想やアイデアの中にはあっても、実際にはしていなかったテレワークを本当に経験することで、毎日勤務していたことは何だったんだとか、家にいてもほとんど仕事が回るじゃないかと、仕事のやり方の無駄に気づいた人もたくさんいたと思います。

雇用者・社員だけではなく、そもそもの経営者陣自体がそれに気づいたということもあるかもしれません。

これも通勤するという方法とテレワークの形式の相対化とも言えなくはありません。(どちらがいい悪いではなく、ともに単なる労働形式の違いと真に認識すること)

こうして、モノや労働という目に見える分野において、無駄なものに気づいて、それがそぎ落とされ、新たな価値観が生まれる(正しくは気づく)ことになります。

これはこれまで、いかに余計なモノといいいますか、しなくてもいいことをしていた(やらされていた)、持たなくてもいいものを持たされていたということでもあります。

おそらくそれは、半田広宣さんの提唱されているヌーソロジー的には、マクロとミクロの三次元的空間感覚に支配されていることからも起きているものだと想像されます。(ヌーソロジーとマルセイユタロットのシステム・教義は非常に近いものがあると私は考えています)

私たちは、普通、自分を中心にして周囲に膨大な空間がマクロ的に広がっていると認識(感覚)していますが、それはあくまで、そういう認識に落ち込むレベルや次元に自分が閉じ込められいるからであり、本当は次元認識を上げて行けば、例えばミクロとマクロの感覚も相対化され、もうひとつの空間ともいうべきものが立ち現われ、空間認識が変わることで、私たちの感覚、思考自体も変化することが起きると言われます。

余談ですが、これは思考だけでなく体感としても言えます。師匠に習い、特別な教えの中で、個人が体感から入って本質的な法則を知るのが従来の神秘的実践修行であり、アイデア・論理から入って、誰もが普遍的に体感していくのがヌーソロジーみたいなところがあるように思っています。

私たちが大きな空間の中のちっぽけな存在であると思っているので、自分自身を大きくするには、物質的には空間を埋めるほどのモノや、気持ち(感情)的には、心の隙間を埋めつくす、他人からの賞賛や承認、許可、単純ににぎわいがほしいと思ってしまうのだと考えられます。

もうひとつの空間とでもいうべきものが現れ、認識できるようになると、自分の中にすべてがあるという感覚となり、モノや心がエネルギーとして表現されているようなことがわかってきて、物理的・目に見える普通の世界の認識が反転し、モノや他人の声で満たして優位に立つ、あるいは自分の欠損を補うという発想(感覚)は、ミクロ・マクロの相対化に応じて減っていくと思われます。

あと、別の見方として(まったく上記と関係ない話ではなく、むしろ関連性は濃いのですが)、モノと心を同じように見ていくというものがあります。

部屋の中がきれいになったのに、何か心が落ち着かないという経験はないでしょうか?

もちろん、たいていは、部屋が整理され、きれいになれば、心もすっきりするということは多いです。

このことからも、モノと心、モノを見ている自分の気持ちと、モノ自体から発せられるものが自分かの気持ちを動かしている(反応している)という両方のことが見て取れますが、要するに、モノの状態によって自分の気持ちも変わり、逆に自分の気持ちによってモノの状態も変わるということです。

きれいにしようと思った時から、モノはすでに動き始めているようなものです。

しかし、モノはきれいになったのに心がそうではないということもあるのはどうしてでしょうか? これはやはり、厳密な(本当の)意味ではモノはきれいになっていない、そこにあると考えたほうが、なんだか論理的のようにも思います。

スピリチュアルな言い方をすれば、エネルギーがまだ残ってるとでも言いましょうか。

例えば、失恋して、すべて思い出の品は処分したはずなのに、まだ心は晴れない・・・というのも、感覚としては同じようなものでしょう。

そうすると、この「自分の心に残っているもの」こそが本当の重さ(モノ)であり、それを何とかしないと、見えているモノを処分しても、半分は居残ったままなのかもしれません。

とは言え、モノを処分すれば心がすっきりすることがあるのも確かですから、やはり、モノと心というふたつの次元が存在し、それらがリンクして、完全に均衡が取れている時は、モノと心の世界も同調しますが、不均衡な時は、見えないところで、認識のズレが生じていて、まさに「心残り」という感覚が現れるのではないかと思います。

おそらく、見えない世界、もうひとつの空間がわかるようになれば、そこに人やモノがまだいる・在ることが気づくようになるでしょう。霊的にはエーテル空間にいるような存在たちです。

それらは自分のエーテル(生命エネルギー)を通して投影されているようなところもありますから、自分の心がきれいになれば、それらも変化し、消えていくことになるでしょう。(消えるのではなく、おそらく別のものに変わる)

このあたりは、実は異世界系やエネルギー系を扱うアニメーションなどでは、よく表現されていることです。

何が言いたいのかと言いますと、結局、自分の人生もそうですが、世の中全体をよくするためには、見えるものだけてはない、私たちの心の中も重要であり、その掃除とでも申しますか、浄化が必要であるということです。

モノの無駄がわかってきた今、シンプルな生活でも十分であり、むしろそのほうが自然であったことに気づいてきても、心の中が重たいままでは、また活動再開となってくると、モノや他人の声で埋めようとすることに戻ってしまう恐れがあるわけです。

さらに、これからは人類全体としての集合カルマのようなものを浄化していくことが急速に起き、それが個人としては、自分の重たい心、悪い意味でこだわり過ぎている、無意識層のデータ・束縛心のクリアリング課題として生じてくると思われます。

以前よりも今のほうが、むしろセラピーを受けたほうがよい人もいるかもしれません。

言葉としては癒すということになるのでしょうが、癒すためには、囚われていた思いを手放していける処方・方法がいるということです。ただの対処療法では中毒を起こすことがあります。

わかりやすく言えば、ドラッグ(快楽)に頼るかのような一時的な癒しです。セラピーであっても、それは起こりうることがあります。セラピーによって脳内の快楽物質で出て、快楽を感じ、そのため、またセラピーを受けたくなるという悪循環です。

またいずれセラピーによる中毒症状については書くこともあるかもしれませんが、これは提供する側も、受ける側も注意する必要があります。

いずれにしても、モノの整理もいいですが、心の整理も、この際、積極的に取り組むと、これからの時代、自分自身が生きやすくなるのではないかと思います。

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