厳しい世界と優しい世界
皆さんの中で、自分は心が弱いと自覚している方がおられると思います。
かくいう私も、断然(苦笑)弱いほうだと思います。そんな私だからこそよくわかるのですが、「弱き」ほうへ向かう時、しゃれではありませんが、それは「弱気」になっているからだと言えます。
そこには心理的には自己防衛のようなものが働いていることも見えてきます。逆を言えば、そのため、強く成長するための課題が与えられているのだと考え直すこともできます。
ただ...この現実の世界は、あまりにも厳しいところがあるという思いも出ます。
スピリチュアル的なことで言いますと、もっと皆が幸せや楽を感じられる、生きやすい世界(星や次元)があるのではないかと、まるでそこが心のふるさとであるかのように、想起されることがあります。
そんなものは逃避だと言えばそれまでですが、もっと優しき世界、幸せな世界が、現実を超えたところで存在しているのではないかという憧憬のような感覚です。
確かにそんなことを思い過ぎると、現実逃避になり、それこそ、引きこもりや無気力な生活をしてしまいがちになります。
マルセイユタロットの教義にもあると考えられる「グノーシス」にも、実は、そんな理想のどこか、天国や桃源郷のような神の世界と、現実のシビアで、生きるのに必死な世界との対比を見て、後者は悪魔によって作り出された偽物の世界であり、本当の世界は前者で、私たちの魂が本来あるべき故郷、住むべき場所だと、神話的に象徴されているところがあります。
従って、グノーシス思想を原理主義的にとらえてしまうと、現実逃避の考え方にもなりやすいところがあるので、ある面、危険なのです。
心の弱い人の中には、現実というものが、普通の人以上に厳しくとらえてしまうところがあり、たとえ自分はよくても、他人や外の世界まで気遣い、悲嘆にくれてしまう面があります。その気持ちは私にはよくわかります。
しかし、ここであえて、スピリチュアルやグノーシス思想を逆手に取るような感じで、別の見方を導入してみましょう。
それは、「霊的な問いかけ」という意味では普通にあるような言える形式ですが、「何のためにこれを経験しているのか?」とか「何のためにそれがあるのか?」みたいな深い意味を見るやり方です。
これらの答えは、言ってみれば、すべて「学び」のためとしてしまえばそれまでなのですが、学びというと、何か修行めいた苦しみを生み出しかねませんので、単に学びのためという答えだけではなく、さらに「では、何のために学びをするのか?」と、何度か質問を繰り返していくことに、救いが見えてくる気がします。
今、個人的に思うのは、心弱き人がシビアなこの現実次元に生きているのは、個別の意味もそれぞれあるとは思いますが、スピリチュアル的に考えれば、宇宙全体の(進化・深化)のためと言えるかもしれません。
個我と全体というのは対比されるものですが、さらにそれさえも循環するものであるのが宇宙の仕組みのようにも思います。
私たちには、個我としての自立を、あるレベルにおいて完全に確立しなければ、全体へと復帰(還元)できない宿命やシステムのようなものがあると見られます。(そして全体はまた個別へと分かれていく道の繰り返し)
それはいわば、宇宙全体の呼吸のようなふたつのサイクル・動きと言えるかもしれません。
個別(一人一人)においても、その大きな動きは凝縮された形で表現され、つまりは、一人一人の自立が促される問題・課題が常に起きてくることになります。
心弱き人には、特に自立心より依存心が先行します。それは保護と挑戦、いわば陰陽、能動と受動、保守と革新みたいな二元表現の偏りでもあります。
一見、責任を強く感じるくらいのまじめさを持っていても、その実、完璧でないと、あるいは、安心と思えるサポートがされていないとできない、責任が持てないという心の構造になっている人がいます。
極端に言えば、チャレンジや改革に対する逃げであり、責任からの逃避、言い訳みたいなものです。
もちろん、チャレンジばかりがいいわけではありませんが、何事も、挑戦し、改革しないことには、現状を変えていくことはできません。
チャレンジして、自信を深めていくことができれば、すなわち、自立した自分がどんどん確立していくことになります。なぜなら、自立すること(真の意味で)と責任を持つことは同意義のところがあるからです。
ですから、自立ためにはチャレンジしていくことは不可欠と言えます。
おそらく、スピリチュアル的に言えば、人は誰しも完全性を持ち、心弱き人も強き人も、本当はいないのだと思います。
ある環境や条件、次元下のもとで、そうした性格や特徴を持つよう、付与されてきたものであり、表現方法のひとつだと考えられます。言い換えれば役割です。
もし自分が心弱き人だと思う場合は、それはそういう役割を自分が受け持っていると考え、弱さからくる逃げではなく、少しずつでもチャレンジし、責任と自信が持てるようにし、自立を促していくことにあり、結局それは全体としての寄与になるのです。一人一人の使命と言ってもいいかもしれません。
この現実世界では、例えば経済的自立などとして、自立の形(目に見える形・結果)が明確ですが、本当はエネルギーのようなものが大事で、自分はもう大丈夫!みたいなゆるぎない心的エネルギーが、宇宙にとっては重要なのではないかと推測します。ただ、現実次元においては、形も大切だということでしょう。
グノーシス的に言うならば、心弱き人が持つ理想の心優しき世界・天国に帰るためには、自分の役割を思い出し、それを果たしていくことがその道になるのではないかということです。
あなたは心弱き人ではなく、そうした役割を持ってここに来た、いわば挑戦者、チャレンジャーなのです。あえてシビアな(と感じるセンサーを持って)この世界に降りてきたのでしょう。
理想世界と現実世界が反転した関係にあるとすれば、弱い人ほど強い人になります。(笑)
この現実世界では、今より上のレベルでの平和や安楽の実現のためには、難しいことにチャレンジする仕組みになっています。これはマルセイユタロットでは「悪魔」と「神の家」の選択対比でも例えられます。
苦労しなければ、努力しなければ手に入らないと言っているのではありません。それぞれにおいて、自立を意識し、それに伴う責任を持つ道の選択をしていくチャレンジが重要だと言っているのです。特に心弱き人については、です。(でも、無理をするのではなく、少しずつでいいのです)
この世界は厳しいだけではありません。表裏一体、必ずバランスが働いています。ですから、サポートや支援、救い、癒しもセットで存在します。
厳しいと思っても、見渡せば同時に、あなたにとって優しい世界・人、物事は確かに存在しています。それは天上と地上という垂直な関係(神と人、祈りの関係)だけではなく、平行世界、同じ世界(人と人、実際の関係)の中にも厳しさとや優しさがあります。
つまるところ、それはすべて宇宙の愛の表現であると言えるのではないでしょうか。
厳しき世界の中の優しき戦士さん、あなたは宮廷(コート)カードの小姓(ペイジ)かもしれませんが、実は騎士(ナイト)でもあるのです。あの16人はあなた全員であり、それぞれの世界においての選択する(表現する)人間像でもあるのです。
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