偶像崇拝

宗教には、「偶像崇拝」の問題があります。

偶像崇拝とは、神や仏などその信仰対象を(特にモノの像として)かたどったもの、可視化したものを、「崇拝」する行為のことを言います。

イスラム教はこれが強く禁止されていることは有名ですが、ユダヤ教、キリスト教も、旧約聖書の記載から、やはり偶像崇拝は禁止されています。つまりは、世界三大宗教と言われる西洋系(アラブ系とも言えますが)の宗教は、偶像崇拝を禁止しているわけです。

もとはと言えば、偶像崇拝は、やはり宗教的に問題があったでしょう。

崇高な意味で言えば、その宗教における「神」「最高の存在」を、人間的・現実的形で表すことは、失礼でもありますし、そもそも至高の存在であるならば、それは現実的な意味での「形」で表現することは無理であると考えられるからです。

この、偶像崇拝をしてはならないという戒め、決まり事は、よく考えると、なかなかのものであり、今風に言うならば、スピリチュアルな世界をどう表現するかの問題に関わっていると言えます。

形ある像があるということは、物質として私たちが目に見える形で、それを見ている、理解することになります。そうするうちに、いつの間にか、その像を通した「形」を崇めてしまうことになります。いわば、信仰が像そのものになるわけです。

これは、言い換えれば、目に見えない世界を物質化していると言えます。

本来、抽象的な、誰のものでもない神、特定の何かでもない、超越的で唯一絶対的な神が、私たちの普通の世界、誰かで何かである(あらねばならない)低次で具体的世界に堕してしまうようなものです。

それは、「私(だけ)の神」「私の思う神」「人間のような神」「私の個人的な願いをかなえてくれる神」として、身近で、しかしより個別的な神として「見える」ようになるわけです。

簡単に言えば、神の具体化・現実化、個別化ですが、それは神のエゴ化、私物化、利便性や時には経済的利用の代物となってしまうこともあるのです。

例えば、ある宗教の神像が作られたとします。その神像が、便宜的には、この現実の世界で見える神であり、その宗教のシンボルともなります。

その宗教を信じている人には、像は崇高で、まさに神に見えるでしょうが、他の神を信仰している宗教徒からすれば、邪教のシンボル・像ということになり、その像を叩き壊しても、むしろ賞賛されるくらいのものかもしれません。

ということは、像そのものがリトマス試験紙のように、信仰の度合い、信徒の判定に使えることにもなります。まさに隠れキリシタンにおける踏み絵みたいなものです。

すると、偶像そのものが争いを起こす種ともなりかねません。

これは神が偶像として卑近な世界に見える形に変えられ、私物化されることにより、起こる現象と言えます。

だからこそ、神を偶像や可視化してはならず、誰の心にも存在はするものの、具体的な像・色形として固定化されるものではなく、普遍的で超越的存在として抽象概念のようなものにしておく必要があるわけです。

誰にも神がいるようにするためには、「この神は違う」とか「この神はイメージ通り」とか、意見がバラバラになって、神そのものへの信仰から離れてしまわないように、誰のものでもない、どんな形でもない空気みたいなものにしたほうがよいわけです。

翻って、現代のライトスピリチュアル事情を見ると、まるで偶像崇拝をしているような人たちが少なくないことがわかるでしょう。

神や天使、仏や菩薩などの名前を語り、私にはなになに様がついている、私はこの神様が見えている、私を守っている存在はこれこれです、なになに神がこうおっしゃっています・・・とか、その語る人には、超越的存在が具体的な姿・像として見えていたり、言葉などが聞こえてきたりしているようです。最近はスピリチュアル系ユーチューバーなどでも多いですよね。

あくまで、神の高い次元を人間的に理解するうえでのバージョンを落とした媒介的なものとして、イメージや偶像を象徴的に使うことはあるかもしれません。そうしないと、なかなか高次の世界に、一般の我々が近づくことができないからです。

大学生の講義をそのまましても、幼稚園児には理解不能なように、比喩やたとえ話のようなものがいります。おとぎ話や物語のようなものですね。それと同様に、神話や説話として、私たちの世界に神の世界が披露されているわけです。

偶像がそうした媒介的、次元の違いを象徴・比喩的な装置として結びつける役割であるのなら、それはありです。

マルセイユタロットの、特に大アルカナの図像は、これが意識されていると見ます。

崇高な世界、神の世界を理解するために、あえて具体的な象徴図として可視化されていて、しかし、単に目に見える絵というものだけではなく(それでは偶像崇拝の問題が現れるため)、やはりそこには(内在的な)神が意識できるように、神の世界の言葉・形が、私たちの世界のものに置き換えられていると考えることができます。

秘儀的には、数とか精緻な幾何学的な図は、それら神と人間をつなげる言語になっています。マルセイユタロットには、それが使われているわけです。

偶像崇拝の問題は、具体的であるがために、外側にモノや形として、固定した神を見てしまうことにあります。像を拝む行為をしているうちに、像に意識が投影され、像が人間化(感情や特定ルールを持つ)してしまうのです。

最初は自分が中心となって像を見ていたのに、いつしか自分の外側で自分を裁いたり、救ったりする存在がいるのと同じ(つまりは、形ある法律のようなもの)になり、その法律・検察官・裁判官に従わないと、自分には悪いことが起こる(罰せられる)、救われないという、見るものから見られるもの(存在)に、像(神)への意識が反転してしまうのです。

見られるものとは、普段、他人や社会を意識して、自他を比べて生活している私たちの意識そのものです。

神が抽象的で私たち中に存在するものであるのならば、見られるというより、高い見地での倫理的・哲学的・霊的意識で、自分をよい意味で律することができます。

この場合、自分が神=完全性持つ存在として認識され、低次の自分とは異なる高次の意識が、客観性をもって自己をコントロールしたり、示唆を与えたりするかのような意識が働き、自分で自分を導く状態が生み出されます。(それを補助する人やツール、シンボル、象徴などは必要かもしれませんが)

見られているのが人間や具体性ではなく、比べるのは自分自身(の中)ということになるからです。

偶像崇拝を悪い状態にしてしまうと、他人によって見られる意識のほうが強くなり、自分の自由を奪うどころか、個人化・現実化した神の像(支配するルール)によって、人の自由さえ、奪いかねません。

世界三大宗教は偶像崇拝を禁止したのですが、結局、布教における妥協で、可視化するものを多く作ってしまったこと、またイスラム教においては、おそらく神の概念を抽象化し過ぎたために、媒介するものがコーラン(クルアーン)などの「聖典の教え」そのものになって、それを遵守するかどうか、誰が正しく抽象的な神を理解しているか、受け持っているかという、正統性の「争い」が激しくなったものと想像します。

ですから、偶像・可視化のやり過ぎ、またやりなさ過ぎも問題で、神と人を媒介し、結び付けるシンボル・象徴はあったほうがよいのではないかと思います。

そして大切なのは、それがあくまで中間的・段階的な便宜性のものであり、神が人間の世界に堕ちてしまわないよう(反対に、人がおごり高ぶらないよう)にする必要があります。

その点でもっとも大切なのは、外に神がいるという発想ではなく、内に神がいるという認識だと思います。

あくまで偶像は、自分の内なる神性(それは宇宙であり全であるもの)を引き出す媒介装置であるとみなすわけです。

そして逆に言えば、それらの像や可視化できるシンボルがないと、なかなか現実の、普段の私たちの意識においては、神性を自分に実感することができず、そのための舞台装置として、聖域、神殿、偶像などの仕組みがあったほうが、最初や段階としては、よいわけです。

この考えに立っていれば、偶像崇拝で変な方向に行ったり、何者かわからない、しかしエゴや欲望などを強く引き出してしまう、まさに「偶像」を崇拝することはなくなるでしょう。

ちなみに、偶像は人の場合もあり、今は違う意味に使われていますが、偶像はアイドルであり、自分のアイドルとして崇拝し過ぎてしまうと、その人が自分を支配することになります。何も芸能人のアイドルだけではなく、スピ系の人や、それぞれの世界で強い影響力を持つカリスマ的な人なども、偶像になりえます。

ここまで書いてくると、すでに気づいていると思いますが、悪い意味での崇拝される偶像対象は、マルセイユタロットでいえば「悪魔」(のエネルギーを可視化した存在)なのです。ただし、その悪魔も、扱い方によっては、よいものにもなります。

問題なのは対象を具体的に崇拝することで、自分が強く支配され、自分の自由が奪われ、自分を見るものとして(自分がそのモノに見られているという意識が働いて)、自分に君臨させている場合です。

その偶像なしでは生きてはいけない、絶対だと思う人、その偶像の作る世界観・ルールを人に強制している人は、注意してください。

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