アニメ映画「天気の子」から再び
「君の名は。」で一世を風靡した新海誠氏の新作アニメ映画、「天気の子」が、昨年公開されました。
この映画については、「君の名は。」の次回作でもあったことで期待度が大きかった分、結果的には評価や意見が前作より分かれ、賛否の否も多くあったように思います。
かくいう私も、このブログで、「天気の子」について書いたとき、内容や完成度において、不満があることは書いています。
しかし、今年のコロナウィルス禍の中で、ふと、この「天気の子」を思い出したところ、この映画は、ある意味、予言めいたところがあったのではないかと感じるところがありました。
また解釈や評価においても、(個人的には)かなり変わってきた部分があります。
昨年は、まさに「天気」が荒れ狂い、台風による被害が日本では多く出たことで、もともとこの映画の予言的な説は出ていました。
「天気の子」では何日も降り続く雨による異常気象の世界を描いていましたが、実際にこの映画の公開後、台風による雨(風もですが)の災害があったわけです。
そして、今年のコロナウィルスの世界です。
雨ではありませんが、ウィルスという「目に見えない雨」により、日本はもとより、世界中が異常な状態に巻き込まれています。天気で例えると、とても普通の天気ではなく、悪天候が続いています。
映画「天気の子」の世界では、最終的に、雨は二年半も降り続き、東京の下流域が水没しながらも、人々はそれを受け入れ、新しい形での生活をそれなりに過ごして行くようになった・・・ということが描かれていました。
「天気の子」においては、異常な長雨による“変わらざるを得ない世界”になりましたが、現実の私たちの世界も、コロナウィルスによって“変わらざるを得ない世界”に移行しようとしています。
ところで、「天気の子」の賛否両論でよくクローブアップされたのが、主人公の少年の最後の決断ではなかったでしょうか。
世界の人(天候の安定)を見捨て、どこか自分勝手に見える、自分と好きな人がいる世界を選ぶような形の主人公の決断。
だからと言って、世界(日本)の人も、彼らを責めるわけでもなく(まあ、主人公たちのことを本当に知る人は少なかったわけですが)、淡々と洪水のような世界を受け入れている風な描写もありました。
そのどちらもが、当時は個人的に、かなり違和感があったのですが、コロナウィルスによる今の世界を見ていますと、「天気の子」のこれらの描写が、かえって別の(隠された)意味に思えたきたのです。
「天気」をもし象徴的にとらえれば、それは一般の「空気」なのかもしれません。
コロナ禍で、本当に怖いところは、人々の同調圧力やマスコミの捏造にも似た恐怖の報道の部分もあります。言ってみれば、「世の中の空気」です。
もちろん、「天気の子」の災害的な天候ということでは、今年の実際のことでは、「(異常な)天気」は「コロナウィルス」の象徴とも言えます。
「コロナウィルス」は「天気の子」の雨と同じように、それまでの人々の暮らしを環境的に変える要因になっています。と、同時に、「世の中の空気」もまた、これまでとは違うものが作られています。
このような「天気」、すなわち、「空気」「問題の要因」によって、私たち一人一人は、自分の生き方・姿勢が問われています。
アニメや物語の世界では、これまでは、予定調和的か、あるいは破綻した世界にあっても、何かしらの正しい論理、正しいか間違いかのふたつの基準は見ている者にとっても比較的はっきりしていました。
あるいは、たとえはっきりしていなくても、思いもつかない第三の道があったり、意外な方法論が示されたりしていました。
つまりは、よい世界になっても、ダメな世界になっても、それなりの納得性が見ている側にはあったのです。
ところが「天気の子」では、前述したように、ラストは、すっきりしない、どうにも不満や中途半端さの残る感じがありました。
しかし、よくよく考えてみますと、「正しさ」「すっきりさ」とは何かということなのです。
コロナ禍によって、元の世界に戻ることが正しい(期待する)という人もいれば、もう元の世界には戻れないから、新しい生活を模索しながら見つけていくのが正しいという人もいます。未知なるウィルスのせいで、正しさや落としどころ、あり様がわからなくなっているのです。
ですから、結局、「天気」「空気」として、多くの同調の意見、圧力を取り入れて、不安や不透明さをごまかそうとします。
「天気の子」では、「世の中なんてどうせ始めから狂っている」という登場人物のセリフがあります。
異常気象前の「元」のあり様からして狂っていたのだから、世界の環境がどう変わろうと、狂ったままで生活すればいい(何も間違いや正しさはわからないし、言えない)という感じがうかがえました。
これはまさに、今の状況、今後の状態の予言と言いますか、どう私たちは考えれば楽になるのかを、示唆しているようにも思えます。
また、主人公は、「僕たちは、大丈夫」というセリフを述べます。
そのセリフは、最初は、能天気というか、バカなのではないかと(笑)思えるものでしたが、これも、今の現実の状況を見て「天気の子」の主人公のセリフを考え直すと、味わい深いものになってきます。
つまり、こういうことだと思うのです。
「大丈夫だと思えば大丈夫」ということだと。
もっと言えば、大丈夫だと決めるのは、ほかならぬ自分自身であり、他人や世間の空気(天気・環境)などではないと主張しているように思います。
たとえそれが、ほかの人から、あるいは全体の空気から困難なものに見えても、大丈夫かどうかは自分が感じ、決め、導けることである、というわけです。
結局、「天気の子」は、柔軟性をもとにしながら、ある意味、霊的な自立につながる話だと受け取りました。
それは、外側を受け入れながらも内なる強さで世界に対処し、創造的に生きることであり、「天気の子」の、一見、投げやりで身勝手に思える描写でも、おそらく計算されていて、次世代(の子、次世代の生き方)ということを、すでにテーマにしていたのだと考えられます。まさに予言の映画です。
マルセイユタロットで言えば、「力」のカードが浮かんできました。
奇しくも、「天気の子」が公開された年月日は、2019年7月19日であり、これをばらして足していくと「29」となり、この「2」と「9」をさらに足すと、「11」となります。(数秘術のやり方)
マルセイユタロットでは、「11」を持つのは「力」のカードで、偶然ながら、何か意図を感じます。
また「11」をさらに足すと「2」になり、この数はマルセイユタロットでは「斎王」で、巫女的な女性を表します。(ちなみに巫女的な女性の力については、昨年、「天気の子」をもとにしたブログ記事に書いています)
「11」の「力」は、ライオンを従えた若々しい女性のカードです。「1」という数があるので、新しいという意味もあり、まさにこれからの、新時代・新次元の段階を象徴しているのかもしれません。
「力」のカードから考えると、私たちはライオンという恐怖をコントロールし、動物や自然とも共生し、すべてを受け入れる柔軟性を持ち、人としての本当の「力」を取り戻す時代に来ているような気がします。
「天気の子」の異常気象は二年半も続いたことを考えると、この映画と現実の奇妙なシンクロが見て取れる今、もしかすると、コロナウィルスも、二年半くらいは落ち着くのにかかるのもかしれません。
しかしその間に、人々の意識は変わり、たとえ狂った世界のままであったとしても、自分自身に本質的な調和と力を取り戻すことができれば、従来の価値観での間違い・正解、異常(狂い)・正常の観点を超えた、新たな次元に上昇、飛翔することができるように思います。
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