制限ある自由 自由のための制限

コロナ禍で、今年はいろいろと我慢を強いられている人が多いと思います。

一方で、人間、そうそう我慢が続けられるものでもなく、自由でありたい、束縛されたくないという思いも強いものがあるでしょう。

人とはおかしなもので、おそらく本質的には自由でありたいと願いつつも、どこかで制限してもらいたい、囲われたいという願望もあるような気がします。

後半の部分(制限願望)は、誰かに守られたい、安心安全に暮らしたいという保守的な思いによって生じているとは思いますが、もしかすると、人の成長欲求と言いますか、人間にはもともと変化・成長していくことの使命のような特質があり、それが自由というものに抵抗する力になっているのかもしれません。

一般的に、神は自由であり、悪魔は制限をかけるものと解釈されがちですが、見方を変えれば、むしろ、悪魔が自由、神が制限を加えるものという印象もあります。

それは特に宗教においての神と悪魔の概念で顕著な気がします。

宗教におけるは、たいてい試練を与えるものであり、戒律などで、その神を信じる人々に制限を与えます(神が与えなくても、神の意思に沿うために人がそれをする)。

一方、悪魔は、そういう神の守護範囲とも言える制限から、甘言や教唆をもって誘惑し、人々に神の戒律からはずれるように仕向けます。

これは宗教の神からすれば、とんだ悪ですが、もしその神が自分に権威をつけ、人々から敬われるようにわざと制限をかけていたとすれば、悪魔のほうこそ束縛からの解放による「自由」を主張していることになります。

マルセイユタロットに流れる思想のひとつと考えられる「グノーシス」では、神が悪魔である(一般の神は偽物という)反転構造を示唆し、私たちが一般的に信じていることに疑いを持つよう諭します。

しかしながら、マルセイユタロットでも、「悪魔」のカードには、ひもでつながれた二人の人物が描かれ、やはり悪魔は何らかの制限を(見えない形も含めて)かけていることがわかります。

一方、「神」の名前を持つカードでは、「悪魔」の次の大アカナナンバーである「神の家」があり、このカードでは、雷の衝撃で、はじかれたようになった人がおり、強制的な解放も意味されているようにも見えます。

とにかく、ここで言いたいのは、自由の名のもとに、裏では束縛や制限が潜行している場合があり、逆に、制限・束縛が、人を自由に導く、成長の糧として機能していることもある点です。

今、コロナ禍で不安になっている人々の前に、SNSなどを含め、様々な情報が提示されてきますが、よくよく吟味しないと、表向きとはまったく反対の意図によって、それこそ本当に「悪魔」につながれてしまうおそれもあるので、気をつけたほうがいいでしょう。

そして、このご時世、制限だらけで、息苦しい世の中にはなってはいますが、その中でも、私たちは成長や進化を遂げていくこともできるはずだと考えます。

マルセイユタロットには「吊るし」というカードがあります。二本の木の間で逆さまに人がつながれ、まるで吊るされていように見える図です。

しかし、何度もこのブログでも書いたように、マルセイユタロットの「吊るし」の場合は、拷問のように吊らされているのではなく、この人物、自らが好んでこのスタイルを取っているかのように、苦しさを感じさせないものです。

いわば、制限にある中でも、この環境、この人物なりに自由を楽しんでいるとも言えます。

そう、制限の中に自由があることを、「吊るし」のカードは、ひとつには語っているように思います。

最初にも述べたように、私たちの本質は「自由」であり、自由である自分、その故郷ともいえる場所(心境)に戻りたいと思ってはいるものの、現実社会の中では、様々な制限や束縛によって、自由を奪われているように感じています。

そもそも魂と肉体という対比で言いますと、肉体によって魂の自由性が制限されていると言えます。

しかしながら、同時に、私たちは制限を求めるところがあり、それは成長の枷のようなものとして、必要とされるかもしれないものです。

肉体があるからこそ、肉体的(物質的)経験ができ、それによって魂は実感を伴って成長することができます。

もし、まったくのフリー・自由であるならば、何も苦労もなく、願ったものはすべてかなうことになります。いや、そもそも「願う」というそのことさえ生じないでしょう。言ってみれば完全ではあるものの、「無」でもある状態です。

これでは成長を図る(計るでもあります)こともできません。

計測すること自体、制限があるからできることですから、もし、私たちの本質が完全であるならば、成長するという概念そのものもないことになります。

ですから、成長のためというより、制限から実感するゲームを楽しむためなのかもしれませんが、それは「有」、つまり肉体や障害物のある次元、現実界においてでないと、なかなか味わえないことなのでしょう。

制限があれば解放もあるという二元世界が、色濃く出てくるのがこの現実の世界です。

ということは、解放、自由の喜びも、制限があるほど生まれることになります。この両方の振り子が動くことで、ある種のエネルギーが生まれ、私たちの何かの宇宙を動かし、拡大させているのかもしれません。

とにかく、束縛や制限は、悪いことではなく、それがあるからこそ、自由への目覚め、自由に向けた新たな方法・アイデアも生まれると考えられます。

それは、先述したように、この現実の世界でないと、なかなかできないことなのだ思います。

ですから、今年から始まった、とても制限のある世界の中でも、一人一人の工夫と、全体の知恵が集まって、おそらく、今まで考えもしなかったものが誕生し、自由の新たな形を手にすることができるでしょうし、自由の大切さも、もっと考えられることになるでしょう。

誤解されがちなのが、自分勝手にわがままに振る舞うことが自由ではないことです。

自由のためには、安全にルールが守られた、他人と一緒に住む世界においては、いわば社会性も必要となってきます。

「もう我慢ならない」と、自分勝手に動くのは、結局、ほかの人や自分自身を制限させてしまう方向になっていきます。

例えば、釣りをする人が、どこでも釣りをしてゴミをそこに置いて帰るようなことになってきますと、その場所は汚れ、近隣住民にも迷惑がかかります。

やがて、それがひどくなると、釣り場への立ち入り禁止などの措置が取られるでしょう。そうなると、その釣り人、地元の人も釣る場所を失いますし、禁止を破って侵入する釣り人もいるかもしれませんので、その見回りや対策などで、いろいろと地域の人も苦労することになります。

つまりは、それまでの自由を失うわけです。

理不尽で妄信・迷信、権力のようなもので意図的に制限をかけられるものには、時には自分勝手に見えるくらいに、自らの自由を求めて動くことは大事でしょう。

制限や束縛は、基本的にはよくないもので、人の本質からは、はずれます。

ですが、社会と人の安心安全、個人的にも制限の中から成長を生み出すためにも、「吊るし」のようなものは必要なことがあります。

また「吊るし」のカードは、細かくは言えませんが、「創造」に関する細かな図像の象徴が施されています。

「吊るし」は束縛・停滞のように見えて、創造のカードでもあるのです。

このご時世だからこそ、あなた自身が、日本が、世界が、新たに創造できるよいものがあるはずです。

我慢を強いられているようでも、見方を変えれば、自分の中の自由を見出すチャンスでもあります。

あなたが求めていた自由の形は、まさに「形」にこだわっていれば、失ったと思うかもしれませんが、「」としてみれば、別のところに存在していたり、自分から表現できたりすることはあるものです。

たとえ自分ができなくても、ほかの人がやってくれるかもしれません。すでに、意外な自由の表現が、他人がモデルとして見せ始めているかもしれません。(「悪魔」のカードにも関係します)

今後に希望をもって、自らは「吊るし」になっているのも、今はよいかと思います。

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