大アルカナでの異質なカードたち
これはもう、割と今では知られている話ですが、タロットの大アルカナの数は、ある種の順番を示しており、そのまま数を進むごとに成長や拡大が示唆されるように設計されています。
ただし、タロットの種類によってはかなり絵柄も違いますし、中には作者の都合によって、枚数が変えられたり、数とのリンクを重視しないようにされていたりしますので、一概には言えません。
またそもそもの、そのタロットが作られた主たる目的というものがありますので、それが数の順番の意味と、どう関係しているかによっては、数のたどる、まさに最終目的が、普通に思う成長とか発展のゴールとは異なる場合もあります。
私はマルセイユタロット一本の(笑)人なので、図像と言っても、マルセイユタロットの絵柄しか思い浮かべませんが。
マルセイユタロットの場合は、極めてシンプルな絵柄ですので、これは素直に数の順番通りの成長を見るとよいかと思います。
さて、そんな数の順という観点で大アルカナを観察してみますと、ところどころに、わかりづらいカードがポイントとしてあるのに気付きます。
逆に言うと、さきほども述べたように、マルセイユタロットはシンプルな図像が多いので、複雑に見えるものは少ないのです。
数で言いますと、もちろん「1」の「手品師」から進むわけですが(実は逆から進む考え方とか、いろいろあるのですが、それはまた講座とか別の機会でお伝えします)、次の2から5までは、カードの名前にもなっている一人の人物が“ドーン”と目立つ形で描かれています。
しかし、6の「恋人」に来て、突然、雰囲気が変わり、そしてまた7の「戦車」では中心人物がメインのカードに戻る感じになります。
あと、8の「正義」からも人物が目立ちますが、10の「運命の輪」は、これまた雰囲気が変わり、そしてまた11の「力」から戻り・・・と続き、16の「神の家」、18の「月」の二枚がやはり、ほかのカードとニュアンスが異なる様子を感じさせます。
それらの数を見ると、6、10、16、18となって(異質性のカードは、見方によってはほかにもあるでしょうが、とりあえず、今回はこの4枚を取り上げます)、すべて偶数なのがわかります。(数字をばらして足すと奇数も出てきますが)
また、6と16という数では、10という数を入れて、「6」が共通しています。ちなみに、10も、上記のように「運命の輪」として、特別な雰囲気のカードに入っています。
18はこのグループから独立しているように見えますが、6の三倍数であり、約数の数としても6と無縁ではありません。
こうして見てきますと、大アルカナの間間に、ちっょと変わったカード、わかりづらいカードを入れているのは、順序的にも、数的にも何かの意図があると見たほうがよいと考えられるわけです。
その意図は何なのかということは皆さん自身で考えていただくとして、ここでは、これらのカードの特徴を改めて見てみましょう。
すると、一人の人物中心、目立つ人間が、これらのカードからはうかがえないという特質が見えてきます。
つまりは、そのままですが、人物が中心ではないことの象徴がメインとなっていることが考えられるわけです。
「恋人」には、天使のようなキューピッドのような存在が上空に描かれ、今まで中心だった人間たちは小さく、しかも三人、選択に迷うかのような形で描写されています。
「運命の輪」では、人間ではなく、動物が輪という機械・マシーンを思わせるものに乗ったり、ぶら下がったりしています。それも三匹います。回転盤のようなものは、それ自体が大海に浮かんでいるようでもあります。
「神の家」は、人物もいるにはいますが、逆さまに、つんのめっていたり(見る人によっては、落ちてきたようにも見える)、慌てふためいて通常ではない感じが伺えたり、さらに、絵柄の中心は、神の家であり、レンガ積みの塔にあります。
そして、「月」は、犬のような動物が二匹いて、吠え合っている様子に見え、後ろの背景には塔がふたつ見え、さらに手前側には、水たまりとも、池とも湾にも見えるものが、ザリガニ(甲殻類の水生動物)とともに描かれています。
これら4枚を並べてみるとわかりますが、次第に人間から動物、機械や建物、自然のもの・・・というふうに、人間・人物がそぎ落とされているようにも感じられます。
これがいかなる意味を持つのか、いろいろと想像を膨らませてみるのも面白いでしょう。
ひとつ考えられるのは、人間から別のモノという表現、これは人間というものが通常や常識的なこと、普通の(人の)世界観みたいなものを象徴していると見て、そことは違う何かが重要であることの示唆のように思えます。
私たちの人生においても、普通なることがまさに常であり、恒なのですが、時々、異常事態が起こります。それはイレギュラーなことであり、アクシデントのこともあれば、ピンチもありますし、反対に、すごくハッピーな出来事という場合もあるでしょう。
その経験にある時、私たちは、これまでの常識的世界から、いい意味でも、悪い意味でも超越することがあります。
まるで自分がそれまでとは違う、別の自分になるかのような感覚、あるいは、別の世界に招かれたり、飛翔したり(堕落したり)するような感覚、はたまた生まれ変わったり、新しい自分に変容したりする感覚・・・こうしたものが、異常事態だからこそ訪れるとも言えます。
西洋風に言うならば、そこに神や天使、悪魔やその眷属たちが現れ、私たちの意識に干渉するかのような状態を見せます。(古代ギリシアで言われていた「ダイモーン」という存在との邂逅や交流に近いかもしれません)
人生は、順風満帆とはいかないものです。
多くの人は、普通に悩み、苦しみ、葛藤を持って生きています。それがこの世のルール、試練のようなものかもしれません。
けれども、一方で、それによって私たちは、大きな気づきを得て、覚醒し、強靭になり、人間的成長や意識の拡大を経験します。
時には、人生の不可思議な現象に疑問を抱き、運命や宇宙法則の探求に向かう人もいるでしょう。
「人が中心」という場合、悪い意味では、人間、私たちがすべてをコントロールできるという驕りのようなものが出ます。
ところがイレギュラーな事態が起こった時、それらはまさにコントロールできない事態であり、すべては完璧だ、自分(人間)の力であらゆるものは支配することができるという誤った考えから発生したものと言えます。
世界には、人だけではなく、ほかの生き物たちもいますし、目に見えない存在やつながりもあります。それらをすべて入れて「完全」なのです。
さらには、自分たち、人間が作った機械・創造物もあります。それらをどう扱うかによるでしょう。
自分が完璧ではなく、自分の中(それは反転すると、取り巻く世界そのもの)あっての完全なのです。
大アルカナに、ところどころ、不思議なカードたちが混じっているのも、そうしたことを考えさせられます。
言ってみれば、あなたに訪れる不幸は、ある意味、不幸ではなく、完全という概念を思えば、不幸によって幸福があり、幸福によっても不幸があるわけです。
すべては一人でどうにかできるものでもないですし、一部には一人でもどうにかできるものもあります。
今の日本、いや世界は、このイレギュラーや異質も含める完全性の見方が欠けていて(いわやるジェンダーとかマイノリティの権利を訴えるというのとはニュアンスが違います)、自己責任・自業自得の偏った思いが過剰であり、また同時に、健全な自立的精神も不足しているように思います。
すでに述べたように、私たち一人だけではどうにもできない事態もあると同時に、一人でできることもある(力がある)わけです。
頼るべきところと頼られるべきところのバランス、調整が食い違っているというのが大きな問題です。
このようなことを、異質なるカードと全体を見ることで、思い浮かべた次第です。
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