自分の幸福は自分でしか知らない
2年前の記事ですが、この世界の理不尽な不平等感に時々さいなまされ、グノーシスを探求している自分としては、つい、この世界の欺瞞性ばかりに目が行ってしまって、暗澹たる気持ちになることがあります。
そんな時は、この記事にあるようなことを思い出すようにしています。
私たち一人一人の人生は、一代限りで見ると、まったく不公平感、不平等さ、理不尽さ、矛盾に満ち溢れているように思います。そんな中で、いくら神(完全性)を見ようとしても、現実的にはなかなか厳しいところもあるでしょう。
過去の宗教の果たしてきた役割は、神を信じることで、そういった現実の不平等感を凌駕した公平性、神のオーダー(世界・ルール・ことわり)を入れることで、個々の自らの苦しみをやわらげていたところがあるように思います。
その反面、あくまでそれは見えない観念のようなもので、万人に本当に当てはまるルールなのか、証明のしようもないのが現実でもあります。
つまり、いくら神の存在とそのオーダー世界を信じようとしても、冷静に現実世界を観察すればするほど、その矛盾性・理不尽さなどが目につき、最終的には神や自分の信じている宗教からも離れ、人・世界というものがわからなくなり、闇に飲まれてしまうこともあると思います。
反対に、現実から目をそらし、あくまで信じる宗教の説くところの神の世界・オーダーを信奉し、それに生きている限りは救われる(救いの物語の登場人物に自分がなっている)のだと思うことで、精神的には均衡を保っている人もいるかもしれません。
ここでは「宗教」という例で話していますが、それが自分の信じるところ、救いだと思っているもの、逃げられるもの、一時的には幸せと感じられるものとして置き換えてみると、いろいろな示唆が見えてくるでしょう。
以下の2年前の記事は、自分自身を例として、こうした悩みにひとつの気づきを述べたものです。
ただ、自分の幸せを実現していくことが、神や宇宙、世界全体を幸せにしていくことになる意味について語ってはいますが、これは一歩間違うと、自我(エゴ)次元の幸福(トランスバーソナル心理学者の諸富祥彦氏の提唱している、人の幸福に種類分けのひとつですが)の追求に入れ替わってしまうおそれがあります。
自我次元の幸福を追い求めることは悪いわけではないのてすが、この記事で言っていることは、それを超えた次元の幸福のことです。
言い換えれば、自分一人の物質や現実的価値からの幸福ではないもので、自分の幸福を追い続けていくと、それは反転して、結局人類全体の幸福につながっていくという、結果というより過程的なものと言ってもよいでしょう。
マルセイユタロットで言えば、「手品師」「力」「世界」の流れとも言えますし、二枚で表現すれば、「吊るし」と「世界」の関係性とも言えます。
いかに、この現実の世界の中に天国を見るか? それはその人の霊的な認識性の向上によって変わってくるでしょう。
今は自分自身も含めて、ほとんどの人が、悪魔的な重しと色メガネでこの世を見ているようなものであり、それに応じた世界が現実として認識されてきます。
この世を不平等な世界と見る人も、その逆に、とてもすばらしき世界だと見過ぎてしまう人も、実はどちらもまだまだの認識性の未熟な途上かもしれません。
人それぞれ方法論は違うでしょうが、自分が幸福と感じるものを現実の世界で探しながら(たとえ自我・エゴにおいても、自分の幸せは自分でしかわからないものといういう気づきも重要で、それは他人から植え付けられるものではないという区別も必要です)、自分の単なる欲求を満たそうとするもののさらにその先にある、言わば根源的なものの世界から来ているものにふれようとする時、マルセイユタロットで言えば「月」のカードの次に「太陽」に出会うみたいなことが現れてくるのではないかと思います。
高次や全体を意識しながら、自分自身のオリジナルな幸福を求めていく姿勢とでも言いましょうか。
あなたはあなた自身でしか、本当の幸福を知らないのです。
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