天の自分と地の自分

マルセイユタロットでは、リーディングにおいて、特に高度になってきますと、視点や見方が複雑になってきます。

言い換えれば、いろいろな立場とか段階(レベル)での見え方、読み方があり、同じカード展開でも、様々な読み方が可能になるのです。

そういった数ある見方のうちに、天上的視点・地上的視点というものがあります。

平たく言えば、神の視点か、人間の視点かみたいな話です。

もちろん、私たちは神などなれるわけではないので(スピリチュアル的にはどうかわかりませんが、ここでは常識的な話においてでは、です)、当然、神の視点などわかるはずもありません。

しかし、あえてタロットの象徴性から、神と言ってしまえば大げさですが、通常の意識・次元を超えた視点、見方を援用しようというものです。マルセイユタロットならは、それができる体系・システムがあるのです。

とはいえ、読み解くのは人間ですから、どうしても人間である視点・視野からは逃れることはできません。それでも、天と地、神と人という対比、構造を設定しておけば、たとえ人間が読み解くにしても、いつもよりは違った見方を導入することができるのです。

このふたつの視点・見方を持つことは、生きづらさを感じている人や、どう生きてよいのか、何を選択すればよいのかに迷っている人には、よいメソッドとなります。

ふたつに分けると言うと、結局「分離」であるので、特にスピリチュアルな教えに傾倒している人には、「分離」という言葉だけで嫌悪感を示すかもしれませんが、分離の逆の「統合」においては、ふたつの違いを明確を理解しているからこそ、できることなのです。

ですが、分離の弊害も確かにあります。

分ける視点自体はよいにしても、天か地かに極端に分かれてしまうことに問題性が出ます。

あまりに天を求めすぎると、地から離れることになり、要するに現実逃避となり、生きている実感がより乏しくなったり、現実世界そのものに嫌気がさしたり、虚無感に襲われたりします。

あるいは、自分がほかの人よりはえらいとか、神から選ばれた存在だと特別視して尊大になり、周囲のものを見下し、軽く扱うようになってしまうこともあります。(これはマルセイユタロットでいうと「悪魔」のカードの問題性の部分ですね)

逆に、地、つまり現実や人間的なものにフォーカスし過ぎると、精神性や霊性を軽視し、人生・生活の質、クォリティを物質中心や実際の成果に置きがちになり、勝ち組・負け組の世界での競争に明け暮れることになります。

また、結局、他人と比べ、何もできない自分、特別な何かを持てない自分、人から認められない自分というものに悩まされ、天を求めすぎるのと同様、現実が空しくなってしまいます。

つまるところ、どちらかに極端にならず、ふたつの間のバランスを取っていくのが、まずは落ち着けやすい方法かと思います。

そしてここからが肝心なのですが、天と地、これを大目標・理想と、実際や現実での表現方法というふうに考えてみるとわかりやすくなります。

人は地、現実の中でなりたい自分とか、理想の自分というものを目標として持ち、それに向けて努力する人もいれば、「そうなれば理想だけど、無理よね」「そんな夢みたいなこと言うより、現実を見ようよ」という具合に、理想をあきらめてしまう人もいます。

しかし、これはいずれにしても、地(実際・人間性・現実時空)の中での話です。

ここにとしての、別次元とでもいうべきフィールドや世界を想定し、自分はそこの住人でもあり、だからこそ、そこでは本当の理想的な自分でいることができる、理想を実現している自分であると見ることができます。

ですが、地上世界、実際の現実とは違うので、まったく同じにする、同じになるということは難しいです。

そこで、天の自分である理想を、地の自分がいかに表現できるか、その方法や、やり方を楽しむような視点に変えます。

地の世界は天の世界とは異なるので、先述したように、そのまままったく同じにすることは困難でも、天の理想を地として別の形で表すことができないかと考えるわけです。

つまり、設計図(理念)と実際の家(現実にやれること)の違いみたいなものです。

理想と現実が違うことは、言われなくてもわかっている人はほとんどでしょう。

しかし、ここで言っているのは、天の自分と地の自分は違っていても、本質的には同じ自分の中の二人であり、この関係性を意識して結び付けることを常態化すると、自分の(現実)での環境、行動、思いに天の自分の意思が入ってくるようになるということなのです。

一言でいえば、「このために生きている」という信念のようなものが生まれてくるわけです。

天命を知ると言い方がありますが、それよりも、天命を生みだす、天命を地上にリンクさせるみたいな言い方のほうが適切でしょうか。

そうすると、自分のやっていることだけではなく、やらされていること(現実世界ではそのほうが、認識としては多いでしょう)に対しても、天とリンクさせることで、天に沿うか、沿わないかの視点でもって判断でき、ここは耐えるべきか、無駄なことをしているのでさっさと次に行くべきかなどが、自ずとわかってくるのです。

言ってみれば、理想の自分、理想の在り方としての自分(天の自分)と相談するような感じで、天の価値観を入れながら、地上、現実としての自分の行動、表現を決めていく(決められていく)わけです。

すると、よくあるように、これは試練(耐えることなのか)なのか、無駄な(犠牲になっている)ことなのか(やめていいものなのか)などの迷いで、今までよりかは判断がしやすくなるはずです。

天という自分の理想や在り方からすれば、地上・現実でやっていることは、大きくはずれているのではないかと思えば、やっていることにこだわらなくてもいいですし、やはり、天から見ても必要なもの、それに沿っていることだと思えば、一見嫌なことや、つらいことであっても、ここは耐えるべき、経験すべきことだと理解ができるかもしれません。

注意すべきは、天と地を、同一なものと錯覚しないことです。

引き寄せの法則のように、強く願えば現実に叶う、引き寄せるというものでもないのです。

むしろ、地上世界の価値による利益の実現を願うよりも、崇高で理想的なもの、そうでなくても、地上的条件をとっばらっても、やりたいこと、好きであること、いわば魂・ソウルの方向性みたいなものを思い、それはそのまま地上や現実で叶うわけではないものの、その精神が生かされた表現方法、やり方は取れるのではないかという姿勢なのです。

すると、「ここだけは譲れない」みたいなことも出てくるかもしれませんし、反対に、「(天に適っていれば)何でもやり方はありなんじゃないか」と自由に思えることもあるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、「審判」と「恋人」カードのような関係性かもしれません。

これは地上において、天(天国の光)を見つけることでもあり、最終的には地と天を統合する方向にも進化していくことでしょう。

多くの人は天の自分を忘れ、地の自分だけで生きています。また、天を知っていても、地と切り離し、それこそ分離して、リンクはできないと思い込んでいます。

それは天と地では、エネルギーや表現方法が違うので、むしろ当然ではあるのですが、違っていても同じであること、しかし、同一なものとして、同じことをそのまま表現することは難しいという両方を理解していると、この世も捨てたものではなくなってきて、「いかに地の自分によって、天の自分を楽しませてやろうか」という、マルセイユタロットで言えば、地の最初でもあり、好奇心の象徴でもある「手品師」となって、その手品を皆さんに披露していくことになるのです。

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