絶望にある希望、有望
どんな人にも悩みがあり、つらいことはあった(今後もある)と思います。
そしてこれもまた、多くの人が経験しているかと思うのですが、絶望という言葉で表現されるような、まさに望みが絶たれる感じの状況というものがあります。
ただ、中には、「私はそんな気持ちになったことないなあ・・・」という幸運と言いますか、メンタルの強い方もいらっしゃるでしょう。もしかすると、絶望なんていう状況は、そうそう現れるものでもないので、実際に絶望感を味わう人は、ごく限れた方なのかもしれません。
ここでまず考えたいのは、「絶望」と一口に言っても、客観的な絶望と、主観的な絶望があると言うことです。
まあ、言い方を変えれば、事実としての絶望と、思い込みの絶望とでも言いましょうか。
前者は、誰が見ても絶望にある状態で、考えたくもない悲惨な状況が浮かびますが、どうしたって誰が何をしたって、もうダメだという感じのものです。
そして、後者のほうは、個人それぞれの絶望感なので、他人からすれば、まだ何とかなるよ、と思える場合もあるわけです。
超楽観的な人とか、ものすごい能力とか才能、資源、アイデアなど持っていれば、普通は絶望するシーンでも、むしろ希望にあり、望みの確信に満ちて微笑んでいることすらあるかもしれません。
ですが反対に、ほとんどの人が、それはまあ大丈夫だよね、と思うことでも、ある人にとってはもうダメだ、絶望だあーと嘆いてしまうシーンもあり得ます。
ここで、本当の意味で客観的な絶望といいいますか、万人が望みを絶たれたと思う状況が、果たしてあるのかと考えますと、それは存在しないのかもしれないという思いにも至ります。
それは「万人」の定義によって変わって来ると言えるかもしれません。
今いる関係者全員とか、国民全員、地球の人全員とか、果ては宇宙にいる知的生命体から、神のような存在まで入れると、そのレベルでの可能・不可能のレベルが拡大されて行き、究極的に絶望などないとなってくるでしょう。
要するに、絶望も希望(有望)も、個人の思いと、関わる人(人だけでなく)の範囲によって変化するというわけです。
ここから、絶望を希望や有望に変えるヒントが見つかりそうです。
まず、ほとんどが主観的な絶望が多いと考えられますから(皆が共通して思う「絶望的状況」というのはそうそうないはずです)、個人の意識、思い、考え方、感じ方、アイデアを変える方法を身につければ、そんなには絶望状況は訪れないと言えます。
また、内面(思考・感情・意識等)だけではなく、知識や環境、物理的レベルのものでも拡大させておくことが絶望を遠ざけます。
つまりは、利用できるもの、救える方法、脱出できるもの、支援される方法や物事を準備し、「もしもの知識」として知っておくということです。
言い換えれば、情報不足により絶望と思わされることが結構あるので、助かる情報を色々な角度から入れておくと、有望や希望が出やすくなるわけです。
ただし、これは最近の状況に特に言えることですが、逆に、あまりに情報過多となって、余計な情報を入れることで、今度は内的に不安や葛藤、迷いが生じやすくなって、本来悩まなくてもいいことが増え、幻想に怯えるような感じで、しまいにはそれが絶望感を生み出すことにもなりかねず、注意が必要です。
他人と比較しなければならないこの現実の世の仕組みではありますが、近ごろはそれが簡単に(他人情報が)目に入ることにより、比較の度合いや回数も増えて、自分の無力さを必要以上に感じて落ち込み、絶望にかられる危険性もあります。
従って、情報の適度な遮断も自分の身を守る方法のひとつで、絶望に陥ることから救います。
内的には、ほかにも、絶望感に至りやすい自分にある心の傷、トラウマ、ネガティブ思考を稼働させてしまう心のプログラムのようなものと向き合い、浄化、調整、整理しておくと、有望性に意識が向きやすくなります。
人より絶望感がよく出る人は、何かそういう心の仕組みで回されている自分があり、それに気づいて、もっと有望感に至る普通の状態に再調整していくという意味です。これはカウンセラーとかセラピストなどの専門家の力を借りたほうがよいでしょう。
だいたい、主観性で絶望に至りやすい人は、逆の客観性の視点(他人の見方、データとかルールのような客観的事実を示すものなど)をカウンターにもってくるようにできれば、中和されて、何とか救われる場合があります。
それと、ここが実は書きたかったことのひとつなのですが、マルセイユタロット的には、変化・変容と統合というのが表現されています。絶望はずっと絶望ではなく、その逆もまたしかりで、ふたつはひとつの両面であり、さらに言えば、いろいろなレベルの絶望と有望があるのです。
例えば「運命の輪」一枚を見ても、輪の中にいる上向きの動物と、下向きの動物が描かれていますが、輪が回転すれば、それは反対になり、上が下、下が上へと変わります。
輪が文字通り、運命の回転であったとしても、状況は回転して変わり、ずっと運がよい、ずっと悪いが続くわけではなく、一番下の絶望の地点だと思っていても、輪ですから、回転し、いずれ反対になることもあれば、輪を上下逆さに見れば、それは上でも下でもないのです。(ちなみに、私たちの地球は丸いと言われていますが、北半球の人が安定していて、南半球の人は逆さまで落ちるわけではないですよね(笑))
このことから、絶望の中にも有望性はあり、有望の何には絶望もあるという循環性や、対立性・相補性が見えてきます。
確かに、客観的に近い絶望状況では、希望(まれなる望み)さえ持つことも難しいかもしれません。
ただ、絶望と有望をまったく同じレベルのふたつの対比で考えるのではなく、絶望状況にあっても必ず違うレベルの希望があり、しかしその希望はまさにわずかの望みとかで、一気にハッピーになれる望みではないものの、本当に絶望だと思っていたところに、一筋の光明を見つけることで、いわば、真っ黒だった世界に、少しだけ光が生じ、わずかと言えども、それがあるだけで、真っ黒の世界ではなくなっているわけですから、世界は変わった(変わりつつある、変わるエネルギー方向にある)のだと見ることができるのです。
ほかの例で言いますと、マルセイユタロットには「13」と「節制」が数順で並べると、その人物たちが向き合うようになっています。
前にも書いたことがありますが、私もうつ病と神経症で非常につらい時期があり、死を思うことが何度もありました。いわば「13」のような状態だった時、「節制」(救済・天使)のようなことに出会った記憶があるのです。
それはまた、救済者として誰か一人の偉大な存在が現れたとか、回復の治療法が突然見つかったいうわけではありません。
「節制」的な人物や事柄が、少しずつ、わずかずつでも、絶望にある時に存在した、現れたということなのです。(発見し、気づいたという意味でもあります)
苦しい時はそれがなかなかわからないかもしれません。でも、少しだけ視点をずらし、救いをあきらめず求めて行けば、そこに小さいながらも天使(その魂が宿っている現実の人物)がいたり、救いや新たな境地に導くきっかけを与えてくれるものが存在します。
それが絶望にある希望であり、有望です。
これは完全に元に戻るとか、すべての苦境がなくなるというような望みではないかもしれませんが、少なくとも、今の絶望感を変える何か新しい境地とか目標、アイデア、考え方、心境、ビジョンのようなものを、「望み」として天(自身の内と言ってもよいです)が与えてくれる可能性があるのです。
さて、客観的な絶望のほうに移ります。
これは範囲を拡大させることで、絶望から逃れられる可能性が、まず高まります。
家族だけとか、地域だけとかの範囲を超えて救済を見ると、ほかからの資源やアイデアを回せますので、絶望がブレークする可能性が増えるでしょう。
ですが、客観的事実に基づく絶望の場合、例えば不治の病とか、医学的に見た致命傷の怪我など、これは客観事実でもありますので、思い込みでは難しいですから、変えられない・救えない厳しい現実もあるにはあります。
それでも、マルセイユタロットの「世界」の象徴のように、範囲を拡大した情報・資源からならば、普通の場合は、望みに変えられる可能性は高まります。
重要なのは、助け合うシステムと、その前に、そういう精神を全体として共有し、築いていくことだと思います。(気持ちだけではなく、実際において価値あるものとする)
個として切り離された社会の実態になってしまうと、先述したように、範囲が狭いと利用できるものも少なくなりますので、絶望感に陥りやすく、現実(客観的絶望)の意味でも、詰んでしまうことは増えます。
個人責任論が横行する昨今ですが、これほど無慈悲なことはありません。もちろん甘えや依存になっては問題ですが、この世界は、一人一人個性が違うからこそ、一人ではどうしてようもできないことも当然出てくるわけです。
ですから、協力して問題を少なくしたり、生きやすくしていったりする社会のシステムが整わないと、弱肉強食の世界、持てる者が勝ち、持たないものが負けという構造で回ってしまいます。
ひどい言い方をすれば、多くの絶望によって少数の望みが満たされる仕組みです。こういう構造から脱することです。
マルセイユタロットで言うと「節制」的意識に私たちは進む必要があり、「節制」の天使が壺の水を入れ替え、注いでいるように、与え・与えられる循環性と公平性(すべてまったく同じで等しくという意味ではなく、個性に応じた平等性)が進めば、絶望に至る人は減ると考えられます。
ということで、絶望から有望、希望に至るには、私たち一人一人個人の中でできることと、範囲を拡大して考え、全体やシステムとして見直し、改善していく方向とのふたつが重要だと考えます。
問題というのは、どんなにレベルが上がっても発生すると思いますが、こと絶望については、そう感じる人が激減し、絶望は言葉や物語でしか存在しないくらいの社会にしていきたいものです。
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