時代に見る「節制」と「悪魔」以降

全部がそうとは言えませんが、マルセイユタロットの、特に大アルカナは、いろいろな進化・発展を示唆していると考えられるところがあります。

それも、このブログでも何度か述べているように、大アルカナの数順に成長していく仕組みが図示されていると考えられるものです。

タロットにおける(カードに付与されている数)は、ただの“番号”ではありません。

数そのものに象徴性があり、言わば、カードの中の絵柄と同じような性質なのです。

しかし、番号と呼び習わすこともでき、それは順序の意味を持つことでもあります。それが大アルカナの数の特徴のひとつとも言えましょう。

ところで、前にも書きましたが、私は時代の進化と大アルカナの数の進みとはリンクしているという説を取っています。

そこからすると、「節制」へ向けた時代へと変化(シフト)していることになるのですが、「節制」の次の数を持つカードは「悪魔」で、もっと進むと、「神の家」「星」「月」「太陽」「審判」「世界」まで続いていきます。

私の考えているタロット大アルカナ時代進化説は、単純なものではなく、「節制」への時代シフトというのは、大きな意味(括り)でのことで、さらに細かく言えば、「戦車」までの進みや、「節制」自体に注目することで、その前の「13」とか、次の「悪魔」以降の関連性も出てくるものとして見ます。

そうすると、「節制」前後の「13」と「悪魔」は、時代進化のために、かなり重要なカードになると考えられます。

「13」については、また別に言及することもあるかもしれませんが、今日は「悪魔」とその次の「神の家」との関連について、少し述べたいと思います。

時代の進化や交替については、タロットのみならず、例えば、西洋占星術でもそれらについて示唆しています。

今ではよく知られている「風の時代」とか「水瓶座の時代」(それぞれの区分けは違いますが)というのも、それになりますね。

タロットよりも、むしろ占星術のほうが、特に長期的な時代の変化を見るにはよい部分もあり、一般的にはタロットと時代関係はあまり言及されないようです。

ともあれ、ここで言いたかったのは、占星術で指摘されている「風の時代」、または別の分け方ではありますが「水瓶座の時代」というものの特徴を見ていくと、マルセイユタロットの「節制」的な意味合い(その名の節制的なというより、共有・助け合い、情報の交換などの面)が見てとれるということです。

ほかにも風の時代的区分からすると、「節制」以降のカードたちにリンクするような意味を見出すことができます。

ですから、やはりマルセイユタロットで言うと、「節制」以降のカードに、これからの時代の進化を見ることができるわけです。

すでに今現在も、インターネットの普及と日常使いによって、情報ネットワーク、交換、シェア、発信は爆発的・飛躍的な拡大を遂げています。

しかし、そうした、言わば、情報の雨の中にいながら、まるで特定の傘の中で待機しているかのように、同じ考えや気持ち、思想をもっている者同士が集まり、そのグループのようなものの中で肯定的な情報のみ回し合うというような事態になってきています。

グループにおいて肯定的というのは、グループの者たちが違和感を持ったり、否定されたりするような情報は入れない、拒否するということになり、もっと言うと、信じたいことしか信じないような状態が強固になっていくわけです。

今の人たちは、情報や交流の機会は昔よりはるかに巨大でたくさんのものを持つことができるわけですが、情報の取捨選択もより自由になり、結局のところ、多くの人が、自分の好みによって、偏った情報だけを入れる、実質的にはとても狭い世界(閉鎖的な中)にいる状況となっています。

直接会うということも、コロナ禍でますます減少し、ネットを通して、仮想的に知っている、文章や声だけ知っている、動画では見たことがある・・・という、およそ交流とは言い難いレベルのものが増加しています。

つまるところ、各々が、ほとんど本質的にも、自分一人の世界状態になっていると言っても過言ではないかもしれません。

ただ、それでは寂しいので、同調できる人たちとはつながろうとし、その結果として、グループ化・サロン化することがたくさん起きています。

もちろん、ネット前の時代でも、グループとかサロンはあるにはありましたが、今のようのものではなく、もっとメンバーのつながりがリアルであったと思います。まあ、その分、泥臭さ、人間臭さも多かったかもしれません。

しかし、今のグループ・サロンは、ネットを通してできあがるもので、入退会も比較的緩やかであり、またリアルでの交流は少ないですから、本当のところで、メンバー間のことは知らなかったり、人間性が希薄な関係になっていたりすることもあるでしょう。

そして、リアルの集団とは違って、嫌な人とか、異なる意見を面と向かって言い合うみたいなこともあまりなく、あっても、ネットなので機械(間に何かを挟む)を通してのものとなりますので、本音と言いますか、トータルに情報が伝わりにくい(リアルで向かい合う総合情報が欠如されている)ことになってます。

そのため、人間同士の線引きがあいまいになり、かなり踏み込んでくる不躾な人、非常識な人、逆に機械やロボットのように感情を見せずにあっさりと関わる人(得体のしれない状態の人)など、奇妙な人間関係も生まれやすくなります。

また、ネット社会では、結局、自分一人の世界(自分の気持ちが中心)に行きつくと言えますので、言わば、一人一人が分離されている状態と言え、そのため、誰か強烈な個性とかカリスマ性を持っている人物が作るグループには、簡単に洗脳されて属するようなことになってしまいます。

そうすると、リアルの時の集団において、それに一番近いものとしては、新興宗教の集団・グループのようなものになってくる場合があるのです。

ネット社会の台頭によって、いろいろな情報が流れ、共有され、発信もしやすくなって、かつてリアル社会にあった障壁がなくなってきたのも事実ですが、反面、(新興)宗教サロン化という事態も進んできているということなのです。

それがまさに、「節制」から「悪魔」という、マルセイユタロットでの象徴性に合致しているわけです。

やはり、自分の好み、感性の指向性だけで情報を入れてしまう、選んでしまうということが問題であると思います。

ネットでは、情報は多くても、事実というものが逆にぼかされ、デマ・フェイク・偽物(者)であっても、簡単に一気に情報として流布してしまう危険性があります。

いつかは、出所とか情報の確かさを判定させる仕組みも整ってくるとは思いますが、今はまだ過渡期で、まさに有象無象の情報世界の中に放り出されている状態で、結局、人は、自分の気持ち、感情、欲求で選ぼうとしているのだと言えます。

今後、「悪魔」から「神の家」という、タロットの進みを考えますと、ここに大きな仕組み、きちんとした選別ができるシステムや知性の構築が求められるとも言えます。(外だけではなく内からも)

神道的にいえば、魔を神と誤認するのではなく、審神者(さにわ)を通して、きちんと神を認識しなくてはならないということです

これから、ビジネスも趣味も、ますますサロン化・グループ化が進むと思われますが、健全な理性的精神、中立・バランス性、さらには霊性をもっておかないと、まがい物に囲われ、魅力ある言葉、モノ(お金)、見せかけの関係などによって、自分が悪魔の虜となってしまい(「悪魔」のカードのひもでつながれた人物)、成長していると幻想の中で思わされて、その実、停滞、傷のなめ合い、カルト的耽美、思想の先鋭化、搾取の犠牲、端的に言えば奴隷になってしまっていることもあり得ます。

さらに、自分がつながれる側になるだけではなく、世の中に簡単に発信できることで、承認してもらたい欲求の自我が肥大し、悪魔としてつなげていく側に変化(へんげ)してしまうことも考えられます。

まあしかし、これには、深い意味でいうと、本当の意味で独立して共有し合える状態に進化するための過程であるとも考えられます。

やがて「神の家」のあと、「星」「月」と進み、「太陽」という、真(高度)の統合社会へと発展していくことと想像します。(勝手に進むというのではなく、タロットで言えば、ほかのカードで象徴されることがクリアーになってくる必要性もあります)

いずれにしても、日本で言えば、昭和時代までのような、組織とか会社とかで守られ競争し、それ単位で評価・認識し合うような時代は過ぎ、一人一人の個性が強まり、同時に、情報と移動の自由性・選択制も増して、シェア・共有度も上がっていくのは間違いないことですが、一方で、「悪魔」の象徴性(欲望・感情によって集まるサロン・グループ化)も強まってくるということです。

それぞれのグループ・サロンがセクト化したり、カルト化してくると、小国のようなものがバラバラに存在し合うことによって、ネットでせっかくつながりやすくなったのに、実体は分離が激しい世界になっていることも考えられます。

したいようにする、やりたいことをやる、自分を出すという流れは、時代的にもそうなってきたわけですが、今度は、それを大いなる意味で律すると言いますか、整えていく過程が、やがてやってくると思います。

それはこれまでの現実のしがらみで制限していたルールとか束縛とは違う、高度な次元のルールと言えます。

一言で表せば、霊性に基づくものと言えましょう。そのレベルが低い形では、道徳とかと言われていたものです。(ただそれでは束縛と変わらないところもありました)

やはり、マルセイユタロット的には、「神の家」ということが鍵になるように思います。

まだ自分を苦しめている人、個性を押し殺している人、他人の期待する人生を無理やりに生きている人は、まずは自分の個(自我部分の自分らしさ)を発揮する(取り戻す)ようにするとよいです。ただ、その過程で、「悪魔」につなげられないように注意してください。

そして、自分自身が出るようになってくれば、見えてくるのが自他の霊性の向上という目標になってくるでしょう。言い換えれば、自我の自身ではなく、自己の自神、「神の家」に向かうことでもあります。

その時は、後戻りするようですが、「節制」もまた深い意味を持ってきます。

マルセイユタロットは、このように、いろいろな意味で指針・航海図となるものなのです。

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