春分の日を過ぎて
春分の日が過ぎました。
最近は宇宙元旦などと呼ばれて、この日を特別に意識するスピリチュアルな方々が増えたようです。(個人的にはその言い方に違和感がありますが(笑))
少し考えればわかるのですが、最初に考えた人というより、その後にその言葉を使うようにしている方たちの中には、ちょっと商業主義や選民思想的なにおいもあるので、こういうものに流されて、ことさら春分の日を意識し過ぎるのは、かえってよくないという気もします。
まずは、日本における、お彼岸的なことを大切にするのも、初心に戻って重要です。お彼岸自体、民俗学的にも霊的にも、なかなか深い意味があると考えられるものだからです。
私たちは個別で具体的なレベルと、宇宙のような壮大でマクロ的、抽象的レベルの両方を、行ったり来たりしています。
自分に不足感を覚えたり、何か普段の生活に物足りなさを感じたりしている時、自分を大きく見せようと、巨大なマクロの方向へ逃避する傾向があります。
よい意味で言いますと、日常の細かなことに囚われ、日々追われるような状態になっているのを、大きな視点や意識になることで、そういったもの(自分)から解放され、ゆったりとした気持ちになることもあります。
しかし、現実逃避、嫌なことから逃げたい、人と比べて自分は劣っていると感じているような人は、自分を大きなものに仮託することで、あたかも、万能になったかのような感じになり、あるいは、何か外的な神のようなもののご加護を受けたかのような気持ちになり、気分がよくなる場合があるのです。
一種の麻薬投与、中毒みたいな形です。
スピリチュアルな情報は、注意しないと、こうした現実逃避や、幻惑(見せかけ)による痛みの緩和(麻痺)を自分にもたらすことがあります。(情報を出している人が悪いというより、それを扱う者の態度や姿勢のほうに問題があります)
春分の日が特別という情報にしても、それを鵜呑みにしていると、まるでこの日に祈れば、自分を自動的に幸運にしてくれる、現世利益的な願いが叶う、悩みをなくしてくれる夢の日みたいに(そんな人はいないと思うかもしれませんが、似たようなことになっていることに、気が付いていない人も少なくないのです)考える人も出てきます。
そこで、理性と感性の統合が必要になってきます。
なぜ、春分の日を特別に見るのかの根拠を考えないといけません。
すると、当然、地球と太陽の動きの関係性の理解が必要です。そのうえで、単なる天文学的に言っているのではなく、太陽の周期を象徴的に見て、私たちの内的・外的な部分とリンクさせていることも見えてきます。
ただし、理屈でわかっただけではまだ足りません。
重要なのは、感性とも合一してくることです。
言わば、暦自身に自分がなるような感覚とでも言いましょうか。平たく言えば、もし春分の日が宇宙元旦と呼ぶのであれば、文字通り、宇宙的な意味での年の始まりとして実感することができるかという意味でもあります。
これには、春分に対比される秋分、そして夏至・冬至のポイントとの感性的比較が実感できるレベルもいることでしょう。
宇宙元旦があるのなら、宇宙大みそかもあるわけ(笑)で、始まりばかりが強調されても仕方ないと言えます。
結局、太陽の見かけの通り道から規定される黄道十二宮など、占星術の概念・知識が必要になってきますので、占星術を学ぶのが、こうしたことを理解するのに手っ取り早くなります。
とすると、どのような人たちが、この宇宙元旦を述べているのか、広めているのかが、言わずともわかるかと思います。
しかしながら、よいことで言いますと、私たちは以前太陽暦から太陰太陽暦も含めて、「月」を意識していた暦も使用していました。
「月」と「太陽」は、「陰陽」としてはもっとも有名な象徴と言えます。ところが、今は太陽暦が中心となり、地球から見た太陽の周期を意識する時代が、21世紀なのに強くなってきました。(天動説的な見方と言えます)
「月」というのは、受容性の象徴でもあります。「太陽」の光を受けて輝く「月」であり、自らで輝くというわけではありません。
もしかすると、私たちはこの「月」のように、何か「太陽」のようなものによって、やっとその存在性を示すことができていたのかもしれません。
けれども、これからの時代は、他者から光を与えられるのではなく、自分自らが太陽となって輝く時代へと変容しているとたとえられそうです。
マルセイユタロットカードの大アルカナも、「月」のカードの次は「太陽」のカードになっています。
「太陽」のカードは、燦燦と輝く太陽の下、二人の人物が手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。
このカードの解釈は、様々にできますが、単純に見ても、二人が協力する、ふたつのものがひとつになる、統合するという見方ができます。
その二人とは、「月」の自分と「太陽」の自分かもしれません。
自分だけでは輝けなかった時代の人間が、自らで輝ける自分へと変化している様です。
エネルギー的にも、外から供給してもらわない(奪わない)と活動できなかった時代から、エネルギー自体が太陽そのもの(今のやり方で言う太陽エネルギーとは別のもの)、それは自分そのものでもあると気づく時代へと変革する象徴かもしれません。(単純に言えばコペルニクス的とも言えるエネルギー革命の可能性)
また「太陽」は自己意識も象徴します。
スピリチュアル情報に踊らされて、自己を確立できず、他者や情報への依存・洗脳・奴隷になってしまわないよう、情報は情報としてうまく活用しつつ、あくまで自分が中心であるという立地を確保することです。
そこには地上性としての現実もないがしろにできません。(自分が立つ大地でもあります)
宇宙意識に飛ぶのもいいのですが、実感もなく、さらに理性も使わず、ただ低次の占いのように、安易に信じている(妄信の)ような状態では、自分が「月」の状態にあるのと同じです。
せっかく、「太陽」を意識し始めているのですから、自分というものを大切にし、しっかりと確立していきながら、自他を解放していく方向に飛躍することです。
自己犠牲にもならず、自分勝手にもならず、自他を同じ観点で見られるレベルに、人類全体が向上することが、「太陽」の時代に求められる気がします。
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