一人一人の見え方は違う

人間、一人一人の見え方は違うと言われます。

いわば、人を基準にした厳密な意味での客観性はないとも換言できます。

そして、自分が関心があることには注意が向きますし、もしかすると、見たものへの大きさとか形すら、その時その時で変わっているかもしれません。

私たちは子供の頃に見ていた光景と、大人になってから見たものとでは、ずいぶん違って見えるものです。

もちろん時代が進んでいますので、風景自体が変化していることもあるでしょうし、身長も大人になれば伸びていますから、視点が異なるのも当然です。

ですが、そのような物理的な面からだけではなく、精神的なものの影響もあるのではないでしょうか。

よく言えば、成長して理解したことが多くなった大人の視線のほうが冷静で、まだ未熟な頃の子供時代のものでは、物事はあまり見えていないのかもしれません。

一方で、大人だからこその思考や常識に邪魔されて、子供時代にはあった、素直な、ありのままで感じた見方というものを失っているおそれもあります。

いずれにしても、視線(視点)とか見方というものも、実は自分の精神的なものの影響は少なくないと言えましょう。一言でいえば、思い方で見え方も変わるということです。

ところで、タロットは図像(絵柄)を目で見るツールです。

ですから、見る・見えるということそのものに、タロットを扱う上での主たる行為と、それゆえに大きな意味も出てきます。

マルセイユタロットの場合は、綿密な幾何学的計算によって図像が描かれていることがわかっていますが、そうした幾何学的構図による、言ってみれば、極めて高度な客観性・全体性(大げさにいえば神的な客観性)と同時に、一人一人がカードの絵柄を見て感じること、ある図像に注目してしまうことなどの主観性(個別性)があります。

同じカードが出ても、それぞれ気になるところが違っていたり、時には図像の中の一部のものの大きさが異なって見えたりする場合もあるでしょう。

それは、個人としての何か特別な意味があると考えられます。先述したように、モノの見え方は、関心があるものに強く反応するようになるからてす。

また無意識的にも、それに注目させようとしているということは、やはり、意味があるものと思われます。

よって、タロットにおいて、それぞれの見え方を確認することは、特に心理的には重要です。

ですが、構図の全体的特徴と、人類の共通的な元型と呼ぶべきものがマルセイユタロットの意味・象徴にあるということを考えますと、個別(個人)的なことだけに終わるものでもないのです。

個別的なものは、解釈上、いいこともあれば悪いこともあり、どちらにしても「歪み」のようなものとして考えることもできます。

その個人の歪みを、できるだけ大元の型、表現を変えれば天上的イデアのもとに是正するようなものとして、タロットの活用があると見ることも可能です。

自分のアンバランスな見方、偏りに気づくことができれば、物事(自分)をコントロールしやすくなります。

ですが、ここで、言っておきたいのは、確かに是正(修正)の意味で、今述べましたが、必ずしも、自分の見方を是正しなくてはならないというものでもありません。

また、偏った見方自体、悪いと言っているのでもないのです。

地上(現実の)生活においては、一人一人個性を持って生きていますので、偏りと言いますか、違いがあって当然なのです。全員が(微妙に)違って当たり前が、この世の世界と言えます。

それを無理矢理、個性をなくすような方向で是正しようとすると、実は反対に苦しくなるばかりということもありえます。

言いたいのは、天上(理想・イデア・真実の美やバランス)の客観性を一度見つつ、逆に地上(現実)に生きる自分としての個性を認識し、それを活かしたり、受け入れたりして、人生を送っていくとよいですよ、ということです。

そうすると、やたら人に振り回されたり(無個性なために操られる)、反対に、人より優れたものを持とうと必死になったりする(自分という存在を強く意識できるよう、競争して勝ち負けに一喜一憂する状態のような)ことから逃れやすくなるわけです。

それはつまりは、楽(自由)になることでもあります。

セリフで言うのなら、「私、このままでいいんだな」ということが基本姿勢と前提でありつつ、時々によって「今は変わっていいよね、変わったほうがいいよね」というようなことが認められる人となります。

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