人の問題とタロットリーディング
マルセイユタロットでは様々な見方が可能になります。
そのひとつが、タロットリーディングにおける人の問題の扱いです。
他人へのタロットリーディングは、その方を解放に導いたり、問題の解決のアイデアを出したりするために、タロットを使って行うものです。
これは占いとは一線を画します。(ただし、表現上、占いに近い形を選択する場合もあります)
人の問題というものは、単純なようでいて複雑、またその逆の(複雑なようでいてシンプルな)こともあります。
しかし、多くの人が、問題の種類は分けられても、そのレベルまで見ようとはしません。
人の問題が複雑に見えるのは、同じレベルで数種類の問題が複合していることもありますが、特にタロットリーダー側で、問題のレベルが区別できていないことにも原因があります。
また、個人と一般、さらにはタロットリーダー自身の価値観を混同してしまい、何がよくて何が悪いのかの検証ができにくくなっています。
レベルをかなり上げ(いわゆる抽象度を上げるというのに等しいですが)、神次元・神目線のようなところまで来ますと、本来問題というものはなく、ですから、良いも悪いも、正義も不正義もないということになります。よく、ノンデュアリティ論者がたとえるレベルの話です。
しかし、人間レベルまで降ろすと、色々な問題が出ます。それは現実という認識のもとに、一人一人、個性を持って人が生きているからです。
たとえまったく同じ条件であっても、人には個性があるがために、それぞれで感じ方が違ってきます。あの人が問題視することでも、別の人には、まったく気にしないものであるどころか、楽しみの場合でさえある、ちょっと奇妙な世界が地上であり現実です。
それは、つきつめると、する・されるなどの、二元的なエネルギーの方向性、行動、表現、立場の違いが人にはあるからとも言えますが、ともかく、個人レベルになりますと、問題は多種多様で、人の数(以上に)だけ生じてきます。
従って、一人一人、相談内容も問題も違うわけですから、その対応もそれぞれで異なるのが当然と言えます。しかしながら、私たちには「人」としての共有部分があり、ユングが元型と評した、ある種の共通パターンもあります。
それゆえ、象徴として、タロットカードを人に使うことができます。人と問題の数だけカードを用意するとすれば、とんでもない量となりますから、そこは象徴化させる必要があるのです。
けれども、この象徴というのもやっかいで、現代人はなかなか象徴というものが理解できず、はっきりとした答えのようなものがカードから出ると思い込んでいるところがあります。
極端に言えば、数学のような、絶対で万人が納得するひとつの回答があると信じるわけです。これを記号的解釈と述べてもよいでしょう。
しかし、象徴は、むしろあやふやで抽象的なものです。違うレベルや次元さえ超越し、それに含むことができます。
象徴(解釈)にもレベルがあり、そこをきちんと整理してわかっていないと、混沌とデタラメの世界に入り込んで、象徴を機能させることができません。
その象徴の扱いにも関係する話ですが、タロットに関心を持つ方で、注意したいのは、中間段階を飛ばそうとする傾向がある人がいることです。
だいたいにおいて、現実的レベルと、超越的レベル(神的・高いスピリチュアルレベル)の両極端が癒着(融合や統合とは異なります)してしまい、スピリチュアルでお金が引き寄せられるとか、神様はこういう(私の)幸せを望んでいるとか、個人的な、特に物質的・現実的願望実現を、超越レベルの次元の介入によって解決したり、手に入れたりしようという節がうかがえます。
これでは、宗教における、外の神に祈って何とかしてもらう(奇跡を待つ)というのと同じ構造となってしまいます。
何事にも段階やレベルがあり、特に現実空間、実際に生きる私たちには、物理法則はもとより、時間と空間の制約も受けます。
さきほど、問題の根幹は、二元のエネルギー表現にあると言いましたが、上記の態度では、人は受動がメインで、神から与えられるまま(幸不幸においても)の状態です。
もし、グノーシス的に自身に神性を認めるのならば、物事は反転し、受動ばかりの姿勢から、能動的で創造的な姿勢に変化するでしょう。もちろん、世の理は、二元での循環のようなものですので、受動的立場も時に必要です。
しかし、超越的(神)レベルと現実的(人間)レベルを癒着させるような姿勢で、外の神に頼ろうとする場合よりも、バランスは回復されてくると思います。
能動的・創造的になってきますと、先述の癒着から離れ、天と地との段階を認識していくことになります。
詩的な表現で言いますと、神が階段を下りて来るのを待つのではなく、自分が天への階段を上って行くのです。だから段階(梯子)を見ないといけないわけです。
すると、自分の体が重いことにも気づくでしょう。簡単に手が届くと思われた梯子に手足がかからない・・・なぜなのか?
それは、例えれば、自分の体を下に引っ張る何かがあり、重力の重い世界に自分がいる(その世界観にいる)ためです。それがインド的にはカルマと呼ばれるものと言ってもいいでしょう。
いくら引き寄せなどで、よい気分・フィーリング、波長に合わすと言っても、それができない自分の状態があるのです。(引き寄せ的なことは、ある意味、真実も含まれると個人的に考えますが、個人個人の波動調整、浄化のようものがあってのものだとも思います)
心理的な見地からも、たとえばトラウマとか、ネガティブに思う癖・データが自分を支配していたら、それを何とかしないと、幸せな状態になろうと頑張っても足かせとなって、結局、努力すればするほどうまく行かず、成長・変化を放棄したり、やってきた方法が悪かったと誤解(間違いと言えば間違いではあるのですが、実際は取り組みの順番が違うだけで、取った方法が悪かったかどうかは言えないことです)したりすることになります。
自分(人)の問題のレベルや種類を認識しつつ、受動だけにならず。能動的に段階を踏まえ、どこに今フォーカスすれば、問題の解消や解決(言っておきますが、問題は必ずしも解決することだけが対応ではありません)につながるのかを見ておくことが、特にタロットリーダーには求められるでしょう。
それには、マルセイユタロットと、それに流れている教義を知ったほうが、やりやすいと思います。逆に言えば、受動的に、カードや占い師から告げてもらうようなものは、ほかのタロット・技法のほうがよいと思います。
コメントを残す