「運命の輪」のループと繰り返し

マルセイユタロットの「運命の輪

大アルカナの中には不思議な絵柄であるカードは少なくないのですが、この「運命の輪」も、なかなか不思議です。

たいていは、人の姿(それは必ずしも「人間」を表すわけではないとしても)が描かれていることが多いものですが、「運命の輪」には、動物(らしきもの)と輪という機械がメインとなっています。

そこからしても、異質だと言えます。

このカードの象徴性や意味はいろいろと考えられるのですか、今日は「輪」に注目したものにしたいと思います。

「輪」と言えば円とか回転がイメージされます。

円の場合、中心と円周、さらにその外側という構造があり、簡単に言えば、内と外があるわけです。

そこで、内(あるいは円周)にずっといる状態と、円の外に出ている状態とが想定できます。実際「運命の輪」でも、円周に乗っている動物と、円(輪)からはずれ、円の外に出ている動物とに分かれた描かれ方をしています。

ここから、円や輪に閉じ込められている者と、そこから脱出している者という構図が思い浮かびます。

ところで、日本のアニメには、ループもの(同じことが繰り返される状況が続くもの)がシチュエーション・物語として結構あります。

今は夏休みですが、夏休みのループものと言えば、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」というライトノベル原作のアニメが思い浮かびます。

ネタバレになりますが、そのアニメの「エンドレスエイト」という話では、夏休みの8/17から31までの間を延々と繰り返す(8/31が終わる時にリセットされて、またスタートの8/17に戻される)というループ話がありました。

ちなみに、アニメ放映時には、このループを表現するために、同じ話を8回繰り返したという、今や伝説みたいなネタにもなっています。(すべて見るのはかなり苦痛ですが、全部見ないと、のちに作られた劇場版の本当の意味が体感できないことになっています)

以前も書いたことがありますが、私たちは、この話ではありませんが、何かのループに、はまり込んでいるのではないかという思いに駆られることがあります。

それは個人それぞれのループもあれば、全体としてのループもあり、言ってみれば、私たちは二重のループ(あるいはもっと何重にもなるループ)を経験している最中ではないかという疑いがあります。

「運命の輪」に描かれている「輪」も、よく見るとおかしな輪であり、ループがあるとすれば、単純なものではないことが伺えます。

「輪」は回転していると言いましたが、この回転性があるからこそ、繰り返しが起こっていると言え、また同時に、輪の中にいることや繰り返されていること(動きがあること)が、当たり前のようですが、輪の中にいることでわかりづらくなっていると推測されます。(電車に乗っていても、振動等を無視すれば、外の景色が見えないと電車が動ているのか止まっているのかに気づかないのに似ていますし、そもそも電車の中にいることが自覚できない状態とも言えます)

こうして書くと、ループで回っている状態というのは、悪いことのように思えます。

果たしてそうなのでしょうか?

ループをさせているのは、それこそ「運命」という何か大いなる力とか、私たちには計り知れない神のようなものなのかもしれませんが、本当は、私たち自身ではないかということも考えられます。

マルセイユタロットを見てきて思うのは、結局、私たちは、自分が望んでいるものをすべて体験しようとしているということです。

それが普通の意識ではわからないのですが(むしろ望みとは逆のこととか、経験したくない嫌なことだとかとして思ってしまう)、奥底の部分では、同意しているか、それを望んでやっているかもしれないのです。

比喩的な言い方をすれば、神(宇宙)と自分との創造作業であり、それは神の意思でもあり、自分の意思でもあるということです。

ではなぜ、わざわざ何度もループをしているのか、そういう演出を自らさせているのかと言えば、さきほども述べたように、自分がしたいからにほかなりません。

アニメ「涼宮ハルヒ」の話では、ループをさせていたのは自覚なきハルヒでしたが、私が思うに、実はキョンとか、ほかのメンバーも、ループを望んでいた部分があるのではないかと思っています。(アニメを知らない人には、わからない話ですみません(苦笑))

ただし、いくら自分が望んでいるとしても、次第にループと繰り返しが続くと、そのおかしさ・違和感に気づいてくるようになります。

それが、自分にとっての現象(望まない現実の)問題という形で現れ続けて来るようにも思います。

いわば、「もう、ループや繰り返しをする段階ではなくなってきている」という(自らの)知らせでもあるでしょう。

ただ、悪い現象だけではなく、惰性的な、ぬるま湯みたいに繰り返される、一見平穏な日常も問題の場合があります。

ゆでガエルの例えではありませんが、このままだと、やがて破滅を迎えてしまうのに繰り返しをしてしまうという選択です。

つまり、悪い問題(現象)が、本質的には同じこととして繰り返されていると気づいてくる状況と、一見安定していて、よい状態がこれからも続いていく(本当は続いてほしいという願望)と思われる現象において、実のところは、「いや、このままだとやばいんじゃね?」と気づき始めてくる状況との、ふたつのループへの気づきがある(起こって来る)ということです。

どちらにしても、自分の中では「このままではいけない」という思いが、以前より、だんだんと強くなってきており、それがループの終わり、ループからの脱出の時期が来たことを告げていると言えるのかもしれません。

「運命の輪」は数でいうと「10」であり、数秘的には終わりと始まりも意味します。

大アルカナは22枚ありますが、「愚者」と「世界」を別格のものとしてふたつのグループに分けると、ひとつのターン(1から10)が終わるのが「運命の輪」であり、新たに11「力」から20「審判」までのターンが始まる重要なポイントになります。

ここからしても、ループがある程度繰り返されてきて、自分にとって十分な経験が積まれると、次の芽が現れはじめ、これまでのループにおける次元やターンは卒業していき、次なるところへと移行すると見られます。

しかし、ループの卒業を自覚し始めていても、自分ではめた罠を出る方法を忘却している自分もおり(どっぷりと現実に囚われた意識)、さらには思い出すことを妨害する自分(と、ある種の世界勢力)がいて、出ようにも出られない葛藤や苦しみが増すこともあると考えられます。

それでも、出る意識を持てば、しゃれではないですが、円によって縁が運ばれ、出口に導かれることもあるでしょう。

私たちは今、個人だけではなく、全体的で巨大なループからも出なくてはならない時期に来ていると言えます。

それは個人の気づきの集合的な力で、さらに脱出への機会(チャンス)が増えると想像されます。

「運命の輪」の輪と一緒に回っている動物二匹の意識でいる限り、私たちはループから逃れられません。それは、自分にとって、よい・悪いと思うことを、そのまま起こる現象として受動的に経験する姿勢とも言えます。

ああ楽しい、ああ苦しい・・・という、人生への思いの繰り返し、連続です。

人は快楽を求め、苦痛からは逃れたいと思う生き物で、それは当然の心理でしょう。

しかし、動物的に、ただそのふたつを求めるだけでは、なかなか輪の中から出れられないということが、カードには示されているのです。

ループや繰り返しは、起きるべくして起き、自らが実演しているものと言えますが、同時に、出たり、止めたりする選択もでき、もはや必要ないのに、同じ演目が演じられ続けるのは、違和感でしかないのです。

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