タロットに描かれる「祈り」

マルセイユタロットに20「審判」というカードがあります。

(マルセイユタロットは、版ごとに微妙な違いあっても、絵のコンセプトはほぼ同じです)

このカードは、学習初級者の方には、意外に意味をつかむことが難しいと訴えられるカードです。

まあ、一般的に、復活とか再生、コミュニケーション、情報、家族…のような意味が出ます。それはもちろん、絵柄から出てきているわけです。

絵の特徴を見れば、上空に巨大な天使下には裸姿の三人の人々という構図で、これは、実はマルセイユタロットの場合、6の「恋人」と同じ構図となっています。ただし、その天使と人の割合、様子・服装などは違います。(その違いが重要ですが)

ということで、「審判」と「恋人」カードとの関連が明らかにあるのがわかりますが、今回はそのことにはふれません。

本日は、絵柄からの印象で、忘れがちな部分、特に三人の人物の様子から出る「祈り」の姿勢について考えたいと思います。

さらに、タロットに描かれる「祈り」から、「祈り」とは何かについても少し考えてみようという感じです。

「審判」の三人は、手を合わせて、祈っているように見えます。視線は上空であり、そこには先述したように天使がいます。

ということは、三人は天使に(向かって)祈っていることになります。

いや、でも、真ん中の人物はどうでしょうか? この人はそもそも祈っているのでしょうか? パッと見にはわからないですが、どうやら腕を曲げていますので、やはり他の二人同様、祈っているのだと取ってもよいでしょう。

さきほど、上空を見ているとは言いましたが、詳しく観察すると、向かって左側の女性らしき人物は、横に視線を向けていますから、もしかすると、水色の人物か、向かって右側の男性的な人物に対して祈りを行っているのかもしれません。

ちなみに水色の人物は、口伝では上を向いていることがわかっており、都合、真ん中の人物と向かって右側の人物は、天使を見ていると考えられます。ですが、女性的な人物は上(の天使)ではない(見ていない)わけです。

「祈り」というものは、普通は神仏や天使、霊などに捧げるものですが、人に向けて祈りを行う場合もあります。

この「審判」の三人の祈りを見ていると、超越的な神とか天使とか、何か通常を超えるもの(それは宇宙とか大自然と言ってもよい存在)と、逆に、人そのものとか、日常的なものなどでも、その対象に祈りを行う(捧げる)ことがあるとわかります。

「審判」は、大アルカナナンバーでは「20」という、最後の「21」の「世界」の手前に位置するカードであり、考え方によっては高次段階の(象徴を示唆する)カードとも言えます。

そういうカードの図像が、祈りのポーズをさせているということは、祈りの力に、私たちが考えている以上のものがあることが語られているのかもしれません。

人数的にも、一人より二人、二人より三人ということで、数の力が合わさる効果も予想できますし、天使という高次の象徴的な対象をイメージすることによって、そのエネルギーのようなものが降りて来る、あるいは、つながる道ができて、なにがしかの力が発動されることも想像できます。

それが、上空(の天使)を見ている人と、その人自体を見て祈っている女性的な人物との関係に見えてきます。

また、男性的な祈りと、女性的な祈りには違いがあり、男性は上下直線的な筋道立った祈り(儀式とか精神的・霊的論理性)が必要なこと、女性は自身からパワーが捧げられ、フィールドを覆うようなことで、祈りの広がりと局所的パワーがあることが見て取れます。

また中央の水色の人から、中性的な祈り、上述の女性性と男性性的な祈りを受けて、自分自身の存在が立脚し、祈りを超えて、祈りの対象自体になる(祈り・祈られが同一化する)ことがわかります。

そして、さらには、祈りを実行化(効果を増幅・発揮)するために、天使からのラッパが鳴らされており、つまりは、ある音とか音階、周波数的なものの影響を感じさせます。これは、呪文の詠唱みたいなことかもしれません。

様々の要素の調和・合体とか言いますが、祈りというのも、ただ漠然と祈るということではダメで、その効果を発揮させるためには、何らかの条件を合致させて祈ることが必要であると、カードからは想定できます。

その他、「星」のカードにも、祈りそのものではないにしても、女性が頭を垂れて、半ば祈りのような姿勢で壺の水を流しているのがうかがえます。

この「星の」カードには、天・地・人の調和が表現されており、諸条件の合致とか、自然や何か超越的なものとの一体化が、祈りの過程や目的で重要ではないかと想像することができます。

「審判」では特に、祈り・祈られの相互作用が、その前の数のカード「太陽」とともに強調されていることが、個人的には感じます。

祈りはある意味、一方的ではあるのですが、対象を置くこと、その対象と自分が対(つい)で一体化すること、また、誰かに祈ってもらうだけではなく、自分自身も祈りを捧げること、それは、高次(神など)への祈りということだけではなく、祈ってくれている人間に対する感謝の祈りという、異なる意味での相互的な祈りも含みます。

(願いを)叶えるための祈りと、叶えてくれる有難さへの祈り、こうした「祈り」そのものに、何重もの祈りの質が折り重なり、結局は、自身にある力を引き出すということに祈りが捧げられるわけです。

奇跡を願うという一方的な祈りではなく、自分の完全性に対する信頼や回復というのが、祈りを行う目的のひとつなのかもしれません。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top