カードの読み、能動・受動、立場の違い
タロットカードの読み方(解釈の仕方)には、だいたい、核となる意味があって、そこから派生したものを想像するというパターンが多いです。
それは基本的には正しいと考えられ、カードには、その象徴性の元となるものがあり、それは言葉では本当は言い表せないものではありますが、あえて抽出すれば、上記の「核」となる意味に近いものと言えます。
ですから、その象徴の大元をつかんで、そこから関係(派生)する、いろいろな意味を見出すことは、手順としてはよい方法なわけです。
一番まずいのは、ただ単語としてカードの意味を無理矢理覚えるようなやり方です。
カードの象徴性を把握しないまま、機械的に、「このカードはこういう意味」と暗記するのは、タロットがシンボリズム(象徴機能)とそのシステムで構成されていることを無視するようなもので、タロットを本当の意味で活かすことができないでしょう。
ところで、カード一枚一枚には、さきほど述べたように、根本の象徴(性)があるわけですが、これが「象徴」であるがために、実は一見正反対だったり、対立したりするかのような意味合いを見出すケースがあります。
言葉にすると矛盾したり、正反対だったりしても、象徴することの本質では同じであるということに気がつかないと、なかなか理解が難しいかもしれません。
例えば、マルセイユタロットの「運命の輪」というカードは、今すぐやってみると読む場合と、しばらく待っておくというような、反対の意味合いで見ることがあります。
これは、「運命の輪」が回転するものという本質を考えれば、そこから時間やタイミングという象徴性が表出され、「タイミングを合わす」ことを主眼で考えれば、現時点でのゴーもストップもあり得ることになります。
それは「チャンスをつかむ」と言い換えてもよく、時期の早い遅いの問題ではなく、そのチャンスに自分をいかに合わせるかということがテーマになっていると考えれば、まさにタイミング(時間合わせ)の問題(課題)であるとわかります。
※(もっとも、個人的には、チャンスをつかむことがこのカード「運命の輪」の本質ではないと考えており、本当はもっと別のことにあると講義では説明しているのですが、今回は記事の内容に沿わすために、あえてわかりやす説明で一般化してお伝えしています)
というわけで、カードの読みによっては、正反対みたいな意味(言葉)も出ることがあるわけですが、もうひとつ、能動と受動(送り手・受け手)というエネルギー・動きとしての正反対の読みが、それぞれあることもふれておきましょう。
マルセイユタロットの場合、これは大アルカナも小アルカナも、すべて言えることだと思います。一枚一枚、能動的な読みと受動的な読みの両方が考えられるというわけです。
例をあげましょう。
12の「吊るし」のカード。
このカードは受動性が印象的に強いカードです。マルセイユタロットではない別のタロットでは、おそらく“吊るされた”とかの、明らかに受動的、もっと言うと犠牲的な意味合いでとらえられることが多いと思います。
しかしマルセイユタロットの「吊るし」では、名前からして「吊るし」としているように、実は自らが好んでこの吊りの姿勢をしていると考えます。表情的にも吊らされている苦しさというより、笑みを浮かべているかのような余裕を感じさせます。
ということは、変な言い方になりますが、能動的・積極的に吊っているわけで、逆さの姿勢をあえて取ること、または動きを停止することで、なされる(なすべき)ことがあるという解釈も成立します。
このような、カードそのものの能動・受動の反転した見方ができる場合もあれば、カードの図像に描かれているものを見て、どの立場に自分(タロットを読む人、タロットに相談する人)を置くかによって、能動・受動が変わるケースもあります。
例えば5の「法皇」では、メインは何か説教や話をしている法皇に見えますが、一方で、下の方には、その法皇の話を聞きに来ている聴衆が描かれています。
自分が法皇の立場なのか、あるいは聴衆の立場なのかによって、話をする側の能動と、話を聞く側の受動というように分かれるわけです。
ほかにも、20「審判」というカードでは、一般的には覚醒とか復活とか、中央下の、起き上がっている人物を中心に解釈されることが多いのですが、目立つのは、むしろ、ラッパを吹く天使であり、この天使の立場になれば、まさに起床ラッパのように、ラッパを吹いて人物を起こすという感じになります。
とすると、中央の人物は、天使から起こされていることになって、受動的になります。
もっとも、別の見方では、人物が起き上がることによって、天使がそのことを祝福してラッパ鳴らす(おめでとうみたいな演奏)ということも想像できますので、その解釈では、天使側も受動性を持つ(中央の人物の行動に反応した)ことになります。
※余談ですが、「審判」は、見た目、人間と天使という図像なので、人間である私たちは、自分(たち)を「審判」の人間側として見てしまうことがノーマルになり、あまり天使側を自分として読むことが少ないです。しかし、時には天使側になって、自分や誰かを起こすことが必要と解釈することができ、目覚めを待っている人が身近にいる(あるいは自分自身の)可能性があるのです。
いずれにしても、カードの図像の人物なり、動物や物事なりを、どう当てはめるかによって、読み方も変わって来るということなのです。
これが一枚だけのことではなく、複数枚以上でも成り立ちます。例えば三枚引きをしたとしましょう。
たまたま今三枚を引くと、「13」「斎王」「愚者」と出ました。
「13」の鎌を持つ者を自分とするか、あるい切られている首とか骨が自分と関係していると見るか、そして「斎王」は、斎王自身が自分としても、学びを自らが行っているのか、外からのものを受け入れて、学習されられているのか、さらには、「愚者」は、愚者が自分なのか、ついて行こうとしている犬が自分なのか、また同じ犬でも、愚者にすがっているのか、止めているのか、喜んで同行しようとしているのか、色々と立場や姿勢の変換によって、解釈が多様にできます。
それを活かして、この三枚のリーディングを事例的にすると、『解雇の危機を受け入れる自分は、すでに新たな資格の勉強をしたり、様々な情報の取得をしたりしており、そのおかげで、転職への希望か出ているし、身に着けたことは「犬」として、自分の新たな旅立ちを後押ししている』というものが一例としてできます。
大アルカナを中心として見ましたが、これまで説明したことは、小アルカナでも可能です。
たとえ玉のカード一枚でも、玉(お金)を作る(稼ぐ)のか、使うのか、貯めるのか、増やすのか、これもいろいろと解釈できるわけです。
もちろん、数カードの場合、奇数か偶数かとか、数の意味によって、傾向は決まってくると言えますが、小アルカナと言えど、あくまで象徴カードであるので、ひとつの意味に固定されるわけではないのです。
視点・観点・立ち位置・エネルギーなど、いろいろと考え、もっとも適した解釈を探って行くことも、タロットリーディングでは重要だと言えますし、自己活用するうえでも、普段とは異なる見方をして、新たな気づきを得たり、修正したりすることができますので、タロットカードを決まりきった見方・解釈で固定しないように注意しましょう。
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