自分を癒すには他者が必要な世界
私たちが現実の世界と認識しているこの世の中では、個人個人、違うパーソナリティを持っています。
平たく言えば、誰一人まったく同じ人物はいないということです。ですが、人間としては皆同じです。
マルセイユタロットをやっていて気付いたことでもありますが、ここ(個としては別でありつつ、全体として共通)が考察のうえでも、実践(実際・行動)においても重要なことだと思います。
人として共通、同じではあるが、皆それぞれで違うということ、このことは、言い換えれば、たくさんの層やレベルがあり、究極的には、一人一人の世界と、ひとつの同じ世界が同居していると表現できます。
ケーキで例えれば、ミルフィーユとしての層がありつつ、全体してミルフィーユというケーキになっているというものです。(笑)
何を大切にするかの価値観は個人で異なるわけで、それがために、何が成功で幸せなのか、よい状態なのか、反対に、何が失敗、不幸、悪なのかという個人の観念も人により様々です。
しかし、最初にも述べたように、人としては同じであるので、何か全員の共通の価値(基準)というのもあるのでしょう。
それはシンプルなようでいて、高いレベルにあるため、考えようとすると複雑なものになると感じます。
宗教的に言えば「神の教え」「神の裁き」「神が定めたこと」となるわけでしょうが、やっかいなのは、それを人間レベルに落として、遵守しなければバチが当たるとか、よからぬ結果になるとか、もっとひどいのは、人ではなくなる(だから殺してもよい)という、次元の低い、支配・牢獄ルールのようなものに使われてしまうことでしょう。
万人に共通のルールというのは、通常でははかり知ることが難しいレベルの宇宙法則のようなもので、たとえあったとしても、なかなか言葉とか人間レベルの善悪では語れないもののはずです。
逆に言いますと、個人レベルになればなるほど語りやすく、具体的なルールになってきて、はっきりとした線引きが現れ、個人としては厳格なものになっていると言えます。
ところが、意外に、個人ルールは本人自身がわかっていないことがあり、逆に他人だとよく見えることがあります。
それは、一人一人価値観が異なるからで、自分と違う価値観や考えをもっている人は、それだけ目立つ(わかる)わけで、だからこそ、ある意味、他人のほうが自分(の価値観・特徴)を知っていると言えるのです。
これを適用していくと、よく自分と向き合うとか、自分を知りましょうとか言われますが、案外、自分で自分を知ることは難しいはずで、自分を知るには他人の助けがあったほうがわかりやすいことになります。
これと同様、自分を癒したり、治したりしていくことにおいても、自分だけではどうしようもない(他人の力を借りる)ことがあります。
いや、スピリチュアル的には、おそらく自分がすべてを起こし、修復・回復させることをしているはずなのですが、それは魂とか高次(全体につながる)部分のことで、個別世界の次元(つまり通常世界・現実)になると、やはり自分と他者(他者は一人だけではなく、たくさん、many)という関係性の世界で、問題発生も解決も行われるという実状があると考えられます。
タロットリーディングにおいても、個人の技量はもとより、個人のレベル、特徴がそれぞれあって、いわば一人一人違います。それはたとえ同じタロットとか技法を使っていても、です。
しかも、クライアントに対して、アプローチする層とか部分が、一人一人、タロットリーダーによって異なるということもわかってきました。(それはタロット種とかタロット技術の違いにも言えます)
例えば、同じ悩みや問題をリーディングしたとしても、Aさんの読み方とBさんの読み方では違う部分があり、問題への光の当て方も、角度とか深さとか、タロットリーダーそれぞれで特徴があるわけです。
結果的に同じ部分が指摘できたとしても、そのプロセスとかアプローチは異なることが多いように思います。
ただ、同じタロットで、同じ技術を使っている場合は、ある種の共通ルールがあるので、似たような経緯をたどることが多いです。それでも個人個人の違いはあります。
ところで世の中にヒーラーの方も、たくさんいらっしゃいますが、そうしたヒーラーさんも、ヒーリング技術の違いは当然として、やはり個性としての光の当て方と言いますか、中心に治療していく層の違いがあるように思います。
受けるほうも個性がありますからも、それが双方相まって、いわゆる相性としての効力の違いが発揮されることもあるでしょう。
あるヒーラーさんの中心となるヒーリングの層が、その時の当人(クライアント)にとってはあまり重要ではない、あるいはピントがずれているなどのことがあれば、効果はあまりなかったとなるかしもれませんし、その逆に、ヒーラーさんの得意な中心層が、クライアントにとってはどんぴしゃりであったならば、極めて高い効果を実感することになるでしょう。
だからと言って、相性が大切というわけでもないのです。
たとえ層がずれていたとしても、どこかに効果があるわけで、例えばクライアントの問題のコアの部分があったとして、そこに光が直接当てられなかったとしても、コアに何らかの形で影響し、コア周囲を揺るがしたことにはなっているでしょう。
そうして、当たりが何人かなかったとしても、次第にコアは崩れやすくなっていき、または、コアへの通り道ができやすくなって、そのうちコアに到達する時がやってくる(それは、自分だけの力で可能になることもあるかもしれません)と想像します。
つまり、このような仕組みが、個性(個人個人違いの)ある世界のものなのです。
ですが、たぶん全員に共通している高度なルールというのは、最終的には「自力である」ということでしょう。
他者依存ばかりでは、何事も本当の意味では解決(成長)しないということです。また、同時に、すべて自己責任、自己のみでの解決も、この現実世界では、すでに説明したように、個性がある世界のため、難しいわけです。
結局、全体性への理解には、個の理解が基礎であり、それは自分だけではなく他者理解(つまりは相互理解)も含まれる構造になっているようてす。
相互理解のためには、自分と他者を見ている、高次のもうひとつの視点、第三の視点が重要です。これが誰しも備わっているから、私たちは、自分と他者を区別することも可能だと言えます。
ということは、私たちは、現実の世界(自他の違いの世界)にいるようで、実はいないのです。もうひとつの上の次元の、おそらく他者と自分が統合されているような次元に、主体(と客体)があるのでしょう。
例えばそれは、マルセイユタロットで言えば「月」や「太陽」を見ていると感じます。
思えば、マルセイユタロットも、そのような意識の浮上のために、意図されて描かれているのかもしれません。
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