完全性・不完全性・中間性
時期的に同じようなことを思うのか、不完全性と完全性について書こうかと考えて、ふと昨年の12月の記事を見ますと、すでにそれについて書いていたものがありました。
ということで、昨年のものを再度紹介しつつ、補足したいと思います。
去年の記事の前文は省いたほうがよいので、あえて文章を掲載し直します。
●昨年の記事
『さて、スピリチュアルの話では、人の完全性を説くものがあります。
一説では、マルセイユタロットも、それを示していると言われます。
ただ常識的に考えて、人はとても完全な存在とは言えません。肉体は弱いですし、精神・メンタルも波があります。
人が完全であるのなら、なぜこのように悩みや争いも多く、皆が幸せな世界になっていないのか?ということです。
それに対してグノーシス思想では、この世界は神ではなく、悪魔が創ったからという神話さえあります。
この「神」というのを完全性に、「悪魔」を不完全性に置き換えると、結構、グノーシス神話の語るところが面白くなってきます。
結局、私たちは不完全性を持つからこそ、人間であり、現実という世界に存在することになるのだと思います。
だから、むしろ、完全性をいい意味であきらめるというのも、現実の世界を生きる上での、ひとつの過ごし方・考え方ではないかと考えます。
不完全性・悪魔性を受け入れる姿勢といいましょうか。
実は、タロットの大アルカナはそれを表しているところもあるのではないかとも思っています。
本当のレベルでは、私たちは神であり、完全なる性質を持つものの、その次元にいるのではなく、不完全性がデフォルトである世界に住んでいるわけです。
不完全さは、ペルソナ(仮面)状態と言え、その付け替えも許されているのが現実世界であり、大アルカナはそのペルソナの特徴と、うまい使い方をも表していると目されます。(小アルカナとの併用で、さらに具体化できます)
ただ重要なのは、完全性のある前提で、不完全性を活用するということです。
完全性を無視して不完全性を許容すると、その行いは、不完全世界を理想としたものなって、平たく言えば、その場限り、刹那的、損得勘定的な生き方になってしまうということです。
それは霊性なき活動、肉体衝動中心と言ってもいいです。
ですから、大アルカナ全体で完全性を意識しながら、現実世界では、全部あるから私は完璧だと超然(天使性だけの純粋性に浸るとか、生悟りのような姿勢でいる)とするのではなく、不完全性世界の中にいて、自分も自我的に不完全であることを認めて、大アルカナ一枚一枚を象徴としながら、時と場合による自分に変化させながら生きていくという態度が必要という話です。
完全であるからこそ不完全を知り(知ることができる)、不完全であるからこそ、完全を想うことができる(完全性に恋し、向上できる)わけです。
よく人と比べるから苦しくなると言われますが、上記観点を持てば、人と比べるのがこの世界では自然で、そこに実は壮大な完全性への想起が仕掛けられているというのが、本質的に面白いことなのだと気づくでしょう。
ということで、何かができなくてもいいですし、できるために努力することも、またすばらしいことになります。
そのままでいい(と思う)人はそのままでよく、改善したり、もっと言うと改悪したりしても自由なのが、不完全世界でもあるのです。』
▼ここから補足です。
マルセイユタロットの構成では、全体的に三つに分かれ、さらに詳細にすれば、四つや、もっとたくさんの数にも分かれると考えられます。
しかし、ここでは「3」と「4」を基本とします。
今回は人間の完全性と不完全性、言い換えれば、神性と人間性(悪魔性とか、神性以外のほかの部分を含む)の違いがテーマなので、それをもとにした分け方で考えます。
「3」の場合、神性、人間性、そしてその中間性として分けられ、「4」の場合は、「3」に、人間より低次の世界とか階層を加えたものとすることができます。
ですが「4」はまた、元型的なもの、設計的なもの、形が作られていく状態のもの、実際(現実)での活動が行われる世界や状況というような、世界観や次元で表すこともできます。
とにかく、人間には、単純に人間としての部分と活動があるわけではないということです。
マルセイユタロットの「恋人」カードは、これをよく表現しいると言えます。
恋人という名前がついていますが、人は人間同士や現実世界での恋をするだけではなく、天上への恋もあるのです。この恋というのが、思考であり、志向であり、嗜好とも言えます。
人間世界での恋も、天上世界への恋も、人間であるからこそ、不完全な部分を補うために、自らが起こしているのかもしれません。
不完全を補うというのは、つまりは完全になりたい、戻りたいという思い(反応・衝動)です。
完全性は神性でもあるので、要は、神になりたい、あるいは、もともと神(完全)であるのなら、それに還りたいというようなことにもなります。
しかし、完全であると、まったく動きがない状態とも言えますし、違いが見えない世界になります。ひとつだけの世界と言ってもよいでしょう。
そうすると、おかしな(とても人間的な)表現になりますが、神性側も人間側(人間次元)に恋をすることになるのかもしれません。
要するに、変化ある世界、違いある世界体験への望みです。
そうして、私たちはまた神から人間へと次元転換するのでしょう。(あくまで説や物語として聞いてください)
ところが、人間になったらなったで、不完全な思いに苛まされます。人やモノと比べ、悩みがつきません。
それは差異があってのものであり、それこそが豊かさを実感する原因なのですが、逆に不足や貧しさ、苦難をも感じさせるものにもなっています。
「恋人」カードの人間たちが迷っているように見えたり、人を取り合ったりしているように見えるのも、こうした状況をよく示しているように感じます。
一言で言えば、人間世界の苦しみは、すべて不完全性への思いから来ていると言え、それは、完全性を知っているから起こるものでもあります。
従って私たちは、悩み・苦しみが起きる時は、完全性とよくリンクしているのだと言い換えることができまます。
むしろ、何も問題がない、順調(過ぎる)というのは、不完全なのに完全であるという幻想に浸っているか、騙されているかの可能性もあります。
常に問題や悩みあってこそ、私たちは天上(神)とつながり、それを想起させたり、霊的な向上(霊性の回復)を進展させたりするのだと言うことです。
単に苦しみの中だけにもがいていては、人間性やそれ以下の次元で停滞し、固着することになり、それこそ、永遠に不完全性の世界に閉じ込められる精神にもなりかねません。
神に祈ることは、神に救ってほしいという思いもあるかもしれませんが、おそらく、マルセイユタロット的な指針からは、自分の天上(神性)由来を思い出し、そのリンクを強めることにあるように思います。
そうすることで、一時的な人間性・不完全性を楽しんだり、楽しめないにしても、崇高な目的を思い出して、生きがいをこの現実世界においても見つけることができたりするようになるかもしれません。
幸い、マルセイユタロットの教えでは、天上と地上、神と人間との間を取り持つ、天使(性)が存在する言われます。
この天使的(中間的)意識と活動が、非常に重要ではないかと思います。
いわゆる羽の生えた天使がいるというのではなく、あくまで象徴として考え、自分にも他人にも天使的な役割を持つ部分があり、それを認めるということになるでしょうか。
それは端的には、カードでは「節制」で表されるものです。
人間だけでは弱く、不完全なものなので、すぐに(悪魔的とも言える)誘惑や、過剰な自我(エゴ)の欲求に流されてしまうこともあります。それは高いレベルから見れば悪いことでもなく、もともとそうした経験も欲していたのかもしれません。
しかし、そこに中間の天使性を入れることで、私たちは必要以上に地上性や悪魔性に浸ることから救われる可能性があります。一人ではなく、天使とともに協力するからこその安心感や救済です。
いずれにしても、実は人間も天使も、悪魔も神も、すべて自分自身であるというのも、マルセイユタロットから見た話であり、壮大な自作自演の世界の劇をしていると言えば、その通りなのかもしれません。
それでも、人は最後のカーテンコールを目指し、決して無駄でない成長の物語を続けているのだと感じます。
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