人の創造世界とグノーシス

タロットなどしていますと、物事を多重に見る傾向が出てきます。

ところで、私はグノーシスという古代から伝わる思想を研究してきました。(マルセイユタロットに流れている思想の一つとみられるからです)

グノーシスは大変興味深い思想なのですが、色々な考え方があり、しかも仕掛けがあることもわかってきました。

初心グノーシス者(という例えは変ですが(笑))だった頃の私は、世界は間違っているという認識に立っていました。

神話的に表現すると、偽の神が創った世界が、私たちが本当だと思っている世界というわけです。この偽の神こそが悪魔になります。

とすると、本当の神は私たちには隠されている(悪魔によって認識を変えられている)ともなります。(あくまで神話的表現です)

これが危険なのは、自己を正当化することに使われてしまうおそれがあることです。さらには、世界否定が自己否定にもつながってしまいます。

そうなると、自分自身が信頼できないわけですから、自分の中で分離・葛藤が起き、(外側の)現象として、実際に分離した状態が起きる、つまり問題が生じます。

もともと世界が間違っているという認識に立つので、理不尽でおかしな世界が、自分の前に現れるのも当然と言えば当然です。

一方で、グノーシス思想は、自己の中に真の神がおり、その認識に至れば世界も変わるという考えがあります。

内に神がいるので、別に教会に行って祈る必要はなく、キリスト教的なルールに従わなくてもよくなるので、キリスト教側ではグノーシス派は危険思想とみなされ、激しく弾圧・攻撃されるものでした。

しかし私は、ずっとグノーシスを見ていくうちに、どちらもどっちで、キリスト教的な考えにおいても、実はグノーシス思想は統合・融合できるのではないかと見ています。それはむしろ、東洋であり、日本人だからわかることかもしれません。

ただ人と集団・組織にはよくありますが、今まで自分が正しいと思っていたことを否定するのは、なかなかできないことで(自分の人生、生きる価値自体も否定され、意味がなくなると感じる)、今もって、宗教の争いから戦争まで起きていることは、我々の知るところです。

そして最初の話に戻ります。

世界が間違っているか、間違っていないかの前提は、グノーシス的には非常に重要な問題ではあるのですが、実は、次元を上げれば、それさえもどちらでもよく、今の私はこう考えています。

宇宙全体に、ある種のエネルギーや流れがあり(それは次元やレベル・規模を変えても同じものとして全体に行き渡っている)、それに調和している限り、問題という状態にはならないものの、人間は神(例えとして使っています)の子として、創造する力があるため、逆にこの流れに反抗したり、曲がったりする自己独特の世界を創造することもでき、それが問題というものになるというわけです。(ただし、自己世界の創造と問題も、大きな局面からすれば、いいも悪いもありません)

この、自己独特の世界の創造、いわば全体意思(真の神)ともいうべきものから、はずれた状態にさせるものが、例えるなら、グノーシス的な悪魔と考えられます。

もっと別の表現で言えば、私たちのほとんどは、自分の思い込みの世界と、真のありのままの世界を、きちんと見分ける状態になく、ずれているのにずれていないと錯覚して生きているため、そのズレを修正するため、問題ということが現象として起こる(起こさせる)と考えられます。

グノーシスとは認識という言葉であり、結局、言い換えれば、自己世界と事実の世界とのズレによる錯覚、幻想を認識する智慧(の獲得・認識の自然状態への回帰)ということが言えます。

多次元宇宙(世界)論で言えば、本来の(問題にならない宇宙と調和する自然状態の)自分の世界のほかに、いくつもの自分の誤解や錯覚、思い込みによって生じさせた世界の自分がおり、それらを切り分け、存在を知り(識別すること)、やがて再統合を果たして調和した自分に戻ることだと考えられます。(多次元にさせている意味を見つけ出すことでもあります、つまりは分岐点が重要です)

よって、マルセイユタロットによる、人(自分)の多重の意識構造に気づくことは、とても重要だと言えるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Top