お金 物質

引き寄せとお金のこと。

いわゆる「引き寄せの法則」のように、同じ波動や振動を持つものは引き寄せ合うというスピリチュアルな考え方があります。

タロットなどしていますと、引き寄せ的な言葉を使う人に出会うことも、しばしばあります。

引き寄せについては、個人的には、そうだと思う部分と、全面的には受け入れられないところとがあります。

それにしても、だいたい、極端なこと、印象的なことが起こった時に対して「引き寄せた」という表現を使っている人が多いような気がします。

その(「引き寄せた」と語る出来事の)多くは、自分にとってポジティブなもののようですが、逆に、ネガティブなものもあるようです。

いずれにしても、先述したように、自分にとって印象的なことが発生した時、引き寄せたと言っているわけで、では普段の何でもない出来事は、自分が引き寄せていないのか?という疑問も出てきます。(笑)

ただ、「それはあまりにも日常的過ぎて、意識していない(されない)だけで、やはりそれも自分が引き寄せているのだ」という主張もできないわけではありません。

では、自分が発する波動や状態に応じて、事が引き寄せられるのであれば、その日常的なことも、印象的に強い出来事も、波動の違いこそあれ、一連の波のようなものとしてつながっており、その極端な上下のピーク点が印象的な事柄として起きているものであり、その他の部分は日常的なものであると例えることも可能でしょう。

すると、波の振幅の幅が重要ということになってきます。また、振幅の幅の平均値と言いますか、振幅の中心を結ぶ直線が梯子のように上下で示され、人によって、その位置が異なるものとも想像できます。

これがレベルや次元などを象徴しているのかもしれません。

ともかく、なかなか思うことが引き寄せられない、期待に反したものが引き寄せられたと感じる人は、そもそも人の波動のようなものは一定ではなく、振幅があり、その都度、変化しているものだと考えると、それも当たり前のように見ることができるでしょう。

そして、この点もあまり言われていなところですが、人の体は肉体以外にも、見えないエネルギー体のようなものがあると想定されており、それはいわゆるエーテル体とかアストラル体とか(説によって、その種類も数も違います)で名付けられているものです。

それぞれに中心となる部分があり、そこが大元の振動を各々に発しているとすると、肉体振動以外のエネルギー体の振動もあると考えられます。

また人の意識にも階層やレベルの異なりがあり、それによっても、一人の人の中でも、振動数に違いがあると思われます。

結局、どれが主体となるのかはわかりませんが、現実的には肉体をもって活動し、それが人々の意識の中では普通ですから、まずは物質的・肉体的波動・振動が基本であるのは想像がつくことです。

この部分を安定させたほうが、ほかの部分の振動の変化があっても、ふらつくことは少なくなりそうな感じがします。

一方で肉体次元の振動に囚われすぎると、変化が少なく、常識世界の虜となるおそれもあります。

ところで、引き寄せ的なものを信奉する人の中で、お金(経済的豊かさ)の引き寄せを願う人は少なくないようです。

それがうまく行く人もいれば、そうでない人いるでしょうが、ここにもやはり落とし穴があるように思います。

引き寄せ的には、豊かさの思いや波動のようなものを出せば、それと同じく、現実的にお金が入ったり、豊かさの環境に整えられていったりすると考えられています。

通常とは逆転の発想で、お金がないのは、貧困な意識や思い・その波動にあるということで、ならば、先に裕福な波動、豊かな状態を意識の中に生み出して、それを安定させることで、現実に、そのような状況を引き寄せるというものです。

仮にそれが正しいとしても、「先に豊かさの意識や思いになる」というのが、なかなか難しいものだと言えます。

鶏が先か卵か先みたいな話ですが、普通はお金がないから不安になるのであり、お金がすでにたくさんあったり、入る勝算があったりすれば、人は安心するものです。

お金がどんどん失われる、入ってくるアテもない、経済的に苦しい状態が続いていて先行きも不透明・・・ということであれば、不安になるのが当たり前です。

後者のような状態で、「豊かさを先に感じろ」と言われても、一時的にはできても、それを持続させることは困難でしょう。

ということは、先にやるべきことは、願いや思い、波動のうんぬんではなく、お金が入る状態、もしくはこれ以上に無駄に流さないようにする現実思考と行動になります。

ただ、ここで言いたいのは、だから引き寄せやスピリチュアルな考えは使えない、ダメだということではありません。

ここでは引き寄せが正しいかどうかは議論しませんが、その法則を信じるのであれば、その法則を厳密に適用すべきと言っているのです。

先に豊かさを感じ、それが安定していくことが求められるのですから、そのための環境や行動は整えられてしかるべきというものです。

お金がない心配、稼げない不安に苛まされたまま、ただ豊かさを願っていても、意識の中では葛藤と矛盾の連続であり、これまで説明したように、振動の幅が極端になって安定せず、そのまま不安定な状況を「引き寄せる」ことになるわけです。

とりあえずは、豊かさの前に、少しでも「ほっとした状態」「不安が軽減される状態」が長くなるように、現実的に行動することが求められます。

しかし、実際にお金があまりなかったり、これから入るアテがなかったりする人でも、心の底から、それこそ、宇宙や自分自身の豊かさを信じられ、実感できるような思考・感情・意識に持続して浸ることができれば、お金を引き寄せることができるか、あるいは、お金でなくても、実際にその人が豊かであると感じられる環境に身を置くことができるでしょう。(引き寄せ的なものが正しいとした場合)

その意味では、お金について、必ずしも現実的に収入アップや支出抑制などの行動をしなければならないわけでありません。極端に言えば、瞑想していてもいいわけです。

ただ、普通の人は目に見える範囲、常識的なモノとしての価値で「豊か」であることを「実感」しますから、現実にお金がなく、どんどん流れ、入っても来ないという状態で、豊かさをイメージするのは困難でしょう。

そういう不安の高い人、常識を超えての豊かさの確信に至りにくい人は(それが普通ですが・・・)は、やはり現実的に、現代社会での豊かさの象徴となっている「お金」を稼いだり、減らさなかったりする手段を講じていったほうが効果的です。

そうすると、引き寄せ的には意識(振動)が安心(安定)に向かい、それによって、実際に最初の時点では手にしている収入は少なくても、やがて経済状況が改善されていく可能性が高いと考えられます。

不安や心配のまま、「自分は豊かである」とアファーメーションしたり、瞑想したりしても、実際にそう感じられない状態が多いのでは、効果がないのもむしろ当然ではないかと、引き寄せ的にも考えられるのです。


「手品師」に見る現実世界への移行

まずお知らせです。近いうちに告知いたしますが、東京で現在、タロットリーディングの技術を向上させる講座をしております。

その実践体験として、受講生によるリーディングを受けていただく方を募集したいと考えています。受講生がリーディングをいたしますが、あとで私も監修し、アドバイスをお送りさせていただきます。料金的にもワンコインくらいを予定していますから、タロットリーディングを受けてみたい関東の方、後日のお知らせをお待ちください。

さて、今日、浮かんできたタロットは「手品師」を中心に、二枚ほどありました。

それらの関連性から、精神的なことより、現実的な話になります。

私たちが肉体をもって生まれてきている以上、物質的なもの、目に見えるものでの体験と実感は避けようがなく、まただからこそ、(体験として)必要あるものと考えたほうが、理屈が通ります。

一方で、だからと言って、物欲に邁進すること、物質的なものがすべてと断定してまう生き方も問題と言えそうです。逆説的には、反対の、精神や目に見えない霊的なものへの関心・重要性も示唆している(そのことを、逆説的に実感させられるようになっている)と考えられるからです。

しかし、やはり、この現実の世界で生きるということは、何らかの形、モノ、成果を出すことが求められているようにも思います。それが何の目的かはわからないにしても、私たち一人一人、そして人類全体の学びや成長の一環であることは想像できます。

マルセイユタロットの大アルカナで、最初の数「1」を持つのは、「手品師」のカードです。

彼は大道芸を披露しており、それにはテーブルと芸事(手品)の道具が用意されています。

つまり、彼の何らかの思いや意志は、実際に目にすることのできる(形ある)テーブルや道具類によって表現されているのです。

逆に言えば、目に見えない領域の表現と実現は、まずは自分で形として見せることが必要であるとも言えます。

おそらく、彼(真の手品師)の本当の意志は、この手品を見せることや、芸そのものではないと思います。

いや、この「手品師」自体は芸をする(披露して金銭を得る)ことが目的かもしれませんが、この「手品師」を見ている者、すなわち、カードを見る私たち自身の思いは、もっと高次にあると考えられます。

実は、タロットを見る場合、この「メタ(上部)構造」が非常に重要なのです。

カード(の人物)そのものが表す事柄と、カードを見ている私たち自身がカード(の人物)となって考えること、感じること、これらが統合されて、複雑かつ、ある種のインスピレーションが起きてくるのです。

これは、言っておきますが、カードへの心理的投影というものとは違います。(ここが決定的に、心理カードの類のものと、マルセイユタロットとの違いなのです)

「手品師」を例に取ると、手品師自体がやっていること・思っていることと、自分(カードを見る者)が手品師を観察することで、内奥に息づく「手品師」の真意というものが、自分の中に芽生えてくる(真の「手品師」の自覚)という構造に気づくことが重要なのです。

言い換えれば、タロット全体から見た「手品師」の意味と位置と、「手品師」のカード単体で見ることの違いであり、「手品師」の手品師自身は、自分が思う「今」そのものの関心(つまり大道芸そのもの)を見ており、「手品師」を見る私たち自身は、「手品師」を通して私たちに起きる超越的な意識と、到達する大きな意識の段階のひとつを見ることになります。

最初に戻りますが、これらの考察から、私たちが現実で生きているこの時空間では、自分の思い(理想や意志)は、実際の行動や形として表して初めて、現実世界に出現してくるのだということです。

とはいえ、何も、いきなりの完成や完全を実現させなくてもいいのです。

そこは、今の自分レベルのバランスと能力・資力に応じて、やれる範囲でやってみるとよいのです。

例えば、ミニチュアや予祝(あらかじめ祝うように、形式行為をする)という概念があります。

家を建てたいと思えば、実際の家のミニチュアモデルを作る、結婚がしたいならば、結婚生活(ペアを意味します)のための食器や道具を先に祝福するように用意する、癒しの仕事をしたいのなら、スモールな範囲と金銭での実践を楽しくしてみるなどです。

大切なのは、理想や完全のそれではなくても、また規模が小さくても、どれも現実(実際)に形として現れていること(表すこと)です。

虚空からエネルギーを、形として表現しはじめると言ってもよく、それは意図をもった実際の行動でもあります。

自ら、エネルギーと精神(目に見えないもの)に、鋳型としての現実的な道を作る(形、物質の基礎を作る)わけです。

(魔法の)儀式的には、生け贄や四大元素を象徴するものを置くことはありますが、そういう魔術的なことはしなくても、皆さんが普通に現実でも、魔術(マジック、しかしそれはタネがあるもの、言い換えれば理屈や秩序があるもの)が可能なことが、マルセイユタロットの「手品師」から推し量ることができます。(ウェイト版では、逆に魔術的なことが強調されている絵柄です)

じっとしていて、ただ希望や願望を思うだけでは、なかなか現実として、うまく行かないでしょう。精神やイメージだけの世界ではなく、現実・形・物質の世界にいるのが私たちだからです。

タロットに関心のある人は、やたらと精神世界や、過度のスピリチュアルに目が行きがちですが、こと、マルセイユタロットをきちんと見ていく限り、現実逃避とはならないはずなのです。


精神的・スピリチュアル的な仕事を目指す人に。

タロットリーディングも含めて、精神的、スピリチュアル的なセッションや相談、ヒーリングはその種類も多く、携わっている人も、今はたくさんいらっしゃいます。

アマチュアや趣味の世界まで含めますと、相当な数ではないでしょうか。

さて、これだけ多くの相談する(してくれる)人が出てきますと、昔では思いもしなかった問題(扱い、相談する内容)も生まれてきます。

「生まれてきます」と書いたように、そう、「問題」は生み出されている(作り出されている)のです。もっと言えば、問題として意識させられるようになったと言い換えてもよいでしょう。

昔の人はそれを問題とも思わず暮らしていましたし、当然ですが、問題意識がないわけですから、そのことに対して別に解決や癒しがなくても、構わなかったのです。

このことを考えると、悪い意味では、わざと私たちは問題を意識させられていることがあるのではないかと疑いを持つことがあります。

今の世の中の経済システムの中で、結局、お金としての利益が必要な会社・団体・個人はたくさんいます。いわば、商売のネタになるものは常に狙われているということです。

ひどいものになりますと、その利益を生み出す仕組みとネタさえあれば、ネタそのものと、それを購入する人のことはどうでもいいとさえ見る者も存在します。

一言で言えば、儲かればいいというだけの視点です。

これは本当の(いい)意味で商売とは言えないものですが、お金がある意味、となった現代社会では、お金が神ならば、すなちわ神への信仰(証、つまりはお金を稼げること)さえあれば、何をやってもいいという風潮になってきているのです。

つまるところ、マネーゲームの勝者が神(お金)から祝福されるという発想になってきます。

スピリチュアルや精神の世界での仕事というのは、あまり形(形としての商品)を売るものではないですから、投資が少ないものとして儲け主義の人のネタにされることがあります。

極端に悪いケースで言えば、先述したように、今までは問題として意識されなかったことまで、あえて「問題」という見せる形にし、「それを解決・浄化しなければ幸せになれない」と謳うわけです。

それにより、「私はこれが問題だったから幸せになれなかったのだ」と思い込まされ、それを解除してくれるという技術や方法を受けます。(セッション・相談に行き、お金を支払います)

実は、まだこの段階ではましなほうです。

さらに行くと、自分もそれ(問題を解除して幸せになる方法)ができるようになりたいと思わされるようになり、当然、商売側としては、その用意はあらかじめあるわけで、技術習得のセミナー・コースの受講となります。

ここではおそらく、その技術を受けた(セッションを受けた)時よりも、技術伝授ですから、相当高い金額を支払うことになります。

まだこれでは済みません。

今度は、技術を身につけても、お客さんが来ないと仕事にはなりません。たとえボランティアでするにしても、自分の技術が役に立つかどうかを実感するには、多くの人に来てもらう(技術を行使する)必要があります。

となりますと、集客という別の技術がいることになり、それについても、用意周到なところは、お客さんを集めるための別のコース・メニューを案内するでしょう。ここでまた多額のお金が支払われます。

まだまだ続きます。

仮に集客ができなかったとしても(集客セミナーを受けても全員ができるとは限りません、わざと効果が中途半端のものを教えるところもあります)、癒しや相談の技術そのものを教えて、セミナー講師として稼ぐ方法も紹介されます。そして、これまた、そのためのコースも用意されているでしょう。

このパターンになってきますと、実際は、自分が身につけた癒しや相談の技術を、お客さん(クライアント)に使って利益を上げるのではなく(相談自体が仕事ではなく)、技術を教えることをメインの稼ぎとして、それで、さも成功しているように自他ともに見せかけていることがあります。

そうして次に、セミナー講師が自分の子ども分に当たるセミナー講師を作り、さらにその講師がまた子ども分の講師を作り・・・と、言ってみれば、技術習得セミナーのネットワークビジネス状態となります。

この人たちは、結局、最初に自らが感動した技術をほとんど使わず、ただそれを教えることをネタ(商材)として、自分たちの生活や経済を潤しているに過ぎないことになってきます。

※これは自覚なき(あるいは悪意をもって稼ぐ人の元に巻き込まれた)悪いケースのパターンを述べているのであり、癒しや相談技術で仕事したり、講師として稼いだりすることがダメだと言っているわけではありません。クライアントやお客様のことを考えずに、一方的なマネーゲーム(の奴隷)になることへの警告で言っているわけです。

そしてもっとも悪いのは、これらのシステムを最初から構築し、すべてのプロセスとコースにおいて、誘導・勧誘・利潤の巻き上げを行う集金マシーンと世界を創っている大元です。

ほとんどの人は、自分が受けたり、習ったりした技術がすばらしいからこそ、人に伝えたい、それを仕事にしたいと思ってやっています。それ自体は純粋で美しいことです。

その技術を学び、仕事として成り立たせ、経済的独立と精神的独立を実現させている人も、それはそれですばらしいことだと思います。

しかし、元に戻って考えてみると、本当にその技術は人々に役立つもの(必要なもの)だったのか? その技術が扱う「問題」というものは、お金儲けのために生み出されていなかったか?と見る視点も、時にはあっていいものです。

また、お金儲けを狙って、システムを創り上げる業者の大元は、その技術や、それを使う人のことを本当に思っているのかどうか、疑ってみることも大切です。(中間層では、本当の目的がわからないように、美的な文句で飾られていることがあります)

まあ、今お話したのは、極端に悪い話(説)の場合です。

もちろん、時代の進歩と、今必要だからこそ、昔の人は意識しなかった「問題」と、その「解決」「癒し」「解除」の方法が、生み出されてきたと見ることもできます。

かつての人は、そういう問題を意識できないほど、生活ベース次元で追われていたのであり、今はもっと次元が上がり、精神的・スピリチュアル的観点から、現実や生活、そして個々人の幸せを見ることができるようになってきたと思うこともできます。

すべてには、よい面と悪い面(と見えるところ)があります。

ひどい、悪いと思っているものの中にも光やすばらしさはあり、そのまた逆に、美しいもの、尊いものと思っているものの中にも、残酷性や無知性があるものです。

全部鵜呑みにするのではなく、冷静で現実的な観点も持ちつつ、スピリチュアルも入れた統合に向けて、現実を超える視点も併せて獲得していくとよいでしょう。


癒し系、メンタル系で仕事をすることについて

タロットリーダーもそうですが、プロになって仕事にしたいという場合、提供するサービスの内容がスピリチュアル系や癒し系、メンタルなサポート系のケースでは、お客様からお金をいただくということに躊躇してしまう人がいます。

これがその人の「お金に対するブロック」に根ざしているという話もあり、その手の解除を試した方もいらっしゃるでしょう。

それがいいのか悪いのかは、ここでは述べません。

今回のテーマは、メンタルや癒し系で人の援助をしたいという方が、「お金をいただくということに対して、どう考えるのか」ということについて書きたいと思います。

まず、これは厳密には比較対象にはならないかもしれませんし、比較される方としては、違和感を覚えるかもしれませんが、わかりやすいと思いますので、「医者」というお仕事を事例にして考えたいと思います。

お医者さんの場合、もちろんお金儲けということが目的ではないでしょう。

しかし、サービス業として、お金をいただく「仕事」であることも確かです。

ここに、二人のお医者さんがいたとします。ともに腕や技術は同じで、患者に対する気持ちや医療行為についても真摯だとしましょう。

そして一方のお医者さんは、たくさんの人に医者として貢献したいと思い、設備も大きくしたり、医療機器の充実にも力を入れたり、最新の技術を取り入れようとしたりもしています。

しかし、そのためにはお金が必要です。だからといって、いわゆる不正や、いい加減なことをして稼ごうというわけではなく、様々なサービスの工夫や宣伝などをして、営業的発展を試みています。

また各地で講演をしたり、医療とは直接関係ないにしても、近接した事業も手がけたりしています。そうして自分を基礎とした組織の拡充を図り、結果的に患者さんも多く来られ、お金も流れてきています。

さらには、自分の息子にも医者になってもらい(息子の意志は尊重しています)、組織のあとを継いでもらって、引き続き、たくさんの人を救いたいと願っています。

翻って、もう一方のお医者さんは、地域密着で、親切で面倒見がよく、急患にも快く応じ、時には支払いが満足にできない人でも診てくれることがあります。

その地域では評判なものの、これと言って宣伝に力を入れているわけでもなく、今時、HPもありません。まさにアナログ、リアルでのお医者さんとしての営みです。

腕も良くて親切なので、口コミでは評判ですが、患者さんが地域以上に拡大することはなく、また規模も医院ですので、限界があります。

そもそもこのお医者さんには、拡大意識はなく、ただ来てくれる人のために一生懸命、治ってもらおうと、元気になってもらおうとしているだけです。ですから一代限りで終わってもよいと思っています。

また「医は仁術」であること、人に貢献する職業であることを強く意識していますし、医業本分以外に手出しすることもありません。

さて、皆さんは、この二人のお医者さんのケースを見て、どちらがいいと判断しましたか?

またどちらにシンパシーを感じました(共感されました)か?

まあ、そもそも医者と癒しやメンタル業界では、業務独占の公的資格制度のことや、医者の社会的認知、投薬や手術などの目に見える形があるなどの根本的な違いがあり、比較にはならないと思います。

しかし、ここではあえて、お医者さんを例にしました。

貨幣経済の社会の中で、お金を稼ぐこと、サービスを提供し、代価としてお金をいただくことは当たり前の行為と言えます。

一方で、お金だけでは解決できない倫理、正義、バランス、美、徳といったものも人は尊重します。

やたらとお金に対する思いを解除したところで、それは新しい価値を自分に入れているだけであり、解除ではなく、置き換えがほとんどです。それを解除と言ってもいい場合も、もちろんありますが、ブロックは自分を守ってくれているところもあります。

そしてまた、自分がサービスを提供する「仕事」として行うと言っているのに、頑なに低額料金や無料で行うことは、何かの修行かボランティアだと指摘されても仕方ない面もあります。

癒し系、メンタルサービス系で人のために何かをしたい、それを仕事としたいという方、もう一度自分自身で考えてみてください。

どれが正しいというのではなく、結局はあなたの価値観(大切にしている判断基準)によるのです。

当然、価値観も変わることがあり、最終的には、最初に戻り、「自分が正しいと思っているもの」という「正しさ」の判断に行き着きます。(「どれが正しいというのではない」と言いましたが、行き着くと、そうなってくるのです、ここが面白いところです)

なかなか正しさを抜けることは難しいものであり、それがまた人の個性を作っているとも考えることができます。

よって「選択」(自分が選ぶ)という概念は重要さを持ち、人間を超えたところの崇高な基準というものが、古代では尊重されてきたところもあるのです。言葉で言えば、霊性ということになるでしょう。


おとぎ話 りんごのなる国

タロットを見ていて思いついた、ちょっとしたおとぎ話と言いますか、ファンタジー的な話をしたいと思います。

あるところに、大きなりんごの木がありました。

この木は、いつもたくさんのりんごを実らせ、もいでもまたすぐにりんごをならせるのでした。

この木の周囲に家があり、人々が住んでいました。

この国(星)の人たちはりんごを主食としていて、これだけで通常は栄養も感情も満たすことができました。

つまり、生きていくのにはこのりんごを食べるだけでOKだったわけです。

もいでもすぐに実るので、人々はりんごを蓄えておくこともなく、また新たに植えて増やすようなこともしませんでした。

そもそもこのりんごが何なのかを詳しく調べたり、考えたりする必要もなかったのです。

そうして人々は平和に、食べ物やエネルギーを得るということでは困ることはなく、穏やかに暮らしていました。

ところが、ここに突如、別の国からある集団が移住してきました。

この人たちは、なぜかいつもあくせくとしており、どうやら移住してきたのも、自分たちの住んでいた地域で食べ物がなくなったからのようでした。

よくはわからないのですが、その人たちのかてつ住んでいたところにも、りんごの木のようなものがあり、それはやはりここと同じように、食べてもすぐに実るようになっていたようです。

しかし、ある日を境に急に実りの速度が遅くなり、なかなか実らなくなりました。

そこで、あせった人が、なっているりんごの実をたくさんもいで、自分の家に持ち帰り、備蓄するようになりました。

当然、りんごはますます少なくなってきます。ほかの人もそれを見ていて、慌ててまねするようになりました。

たちまちりんごは実りが追いつかず、丸裸の木になってしまいました。

ここで初めてりんごが食べられないということを経験をする人が出始めました。そう、空腹や飢えという感覚を味わう人が出てきたのです。

それは初めて味わう、ものすごくつらい体験であり、本当に苦しいものでした。

この星の人はりんごでエネルギーを得ていたので、りんごが食べられなくなると、「死」という恐怖や現実が迫ってくるのです。

「死」という恐怖の前に、人々はとうとう蓄えていたりんごを奪い合うということを始めました。

争いは凄惨を極め、人々は自分たちが思っても見なかった醜く怖ろしい「人」の姿を目の当たりにしました。

そして争いは武器や戦略も生みだし、この地域や国に予想以上の被害をもたらせました。

結果的にはなんと、りんごが食べられなくなって死ぬよりも、りんごを奪う争いによって亡くなる人が多く出たのです。

こんなことはもうたくさんだと、一部の生き残った人が意を決して、集団で旅に出たというのが、この移住してきた人たちの背景にあったのです。

新しい土地、つまり最初に登場した「りんごが普通に実る国」に着いた集団は、、初めはこの国の人たちと同様、穏やかにりんごを食べて過ごしていましたが、あの恐怖体験が蘇り、突然、りんごをたくさんもいで蓄える人も出てきました。

いや、それだけに飽きたらず、ついには移住した集団で組織立ち、この国の人のスキをついて、りんごの周りに囲いをし、りんごを自分たち以外もぐことができないようにしました。

言ってみれば、集団でりんごを独占し始めたのです。

この国の人々が食事のためにりんごの木に向かったところ、堅牢な柵に囲われ、移住民が守っているのに気がつきました。

「私たちにもりんごを食べさせておくれ」と優しく、この国の人々は語りかけましたが、

「ダメだ。今日から我々がこのりんごの木を管理していく」と意住民たちは言い放ちました。

こんなことは初めてだったので、この国の人たちはたいそう驚き、再度りんごをくれるよう懇願しました。

しかし、りんごの周りにいる人たちは、がんとして聞き入れません。

「どうしてそんなことをするのか」と、この国の人たちは聞きました。

移住民たちは言いました。

「我々はかつて、りんごの木がおかしくなって、実がならないことを経験した。そのため我々の間で奪い合いが起こり、多数の死者を出したのだ。ここのりんごの木もそうならないとは限らない。だからきちんと管理して、我々やこの国の人たち皆が飢えないよう、調整してりんごを出荷することにしたのだ」

そう言われても、この国の人は争ったことや競争した経験がないので、どうしたものかわからず、あまり意味も理解できないようでした。

ただ、この時以来、本当に移住民たちによるりんごの管理が始まり、この国の人たちは配給制としてりんごを受け取ることになったのです。

また、移住民たちの考えもあり、やがて、河原にあったきれいな小石を持ってきたものは、りんごを多く渡すということも実行され、いつの間にか、小石そのものがりんごのような価値を持つことになってしまいました。

そのうち、りんごを盗むものも現れたり、もともとの価値以上の小石として交換したり、りんごではなく、小石を溜めたり、預かった小石を貸してほかの小石を追加で取ったり、労働したものに小石が与えられたりすることにもなりました。

小石を偽造するものまで現れ、りんごも盗まれたりすることも多くなったので、移住民たちはりんごの木ごと植え替え、遠くの地に移植させました。

移住民たちはりんごの研究に着手し、ついにはりんごの秘密まで迫り、遺伝子的な操作も行い、偽のリンゴや、ほかの国にもそれを移植させたり、反対にまともなりんごを枯らせたり、実のなる期間を調整したりする技術も開発されました。

時代は何世代も移って行きましたが、移住民の末裔以外の人は、原木のりんごの木のありかはもちろんのこと、改ざんされたりんごのコピーや移植物などの真実も知らされず、ひたから偽リンゴを食したり、小石でりんごを買う社会で、悲喜こもごもの生活をしていったりするようになりました。

このあと、この国や星がどうなったのか、わかりません。

ただ、人々の記憶のどこかには、太古の昔に、飢えも争いも所有も差別もない世界があったことを、うっすらと夢のように時々ふっと思い出すことがありました。

しかしそれは単なる幻想だ、ファンタジーを見ているのだと自分に言い聞かせ、またそんなことを言う人はバカにされ、再び人々はこの楽しくも悲しい刺激ある現実に舞い戻るのでした。


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