カードからの気づき

行動に移せない人、手品師を見よう。

一般的な名称では「魔術師」とか「奇術師」などと呼ばれる「1」という数を持つ大アルカナのタロットカードに、「手品師」があります。
マルセイユ版では絵柄を見るとまさに「手品」をしているので、私は「手品師」と呼称するようにしています。
とはいえ、手品は手品なのですが、裏では魔術・魔法に近い意味もありますので、一般的名称の意味もきちんと実はあるのです。
ただいきなり魔術師と言ってしまっては元も子もないという感じはあります。(^^;)
さて、昨日はカードから示唆を得るという話をしましたが、今日は「手品師」からの示唆です。
どういう示唆の形(昨日の記事のテーマ)だったのかはご想像にお任せします。
私たち、特にいろいろと考えすぎる傾向の人は完璧主義と言いますか、完全主義と言いますか、何かが完成してから、あるいは納得してから行動に移すというパターンが多いと思います。
これはタロットでいえば、いきなり手品師(1)から世界(21)に飛んでいるようなものです。
その間には2から20の段階(大アルカナの数を示しています)があるのですから、言ってみれば、実際にはそのことをしないと言っても、想像上・心の中では1を思い立った時、2から20の段階を経て21に至ったという意識が「完成」しないと、行動に移せない状態だと言えます。
これがまさに行動を遅らせる原因となっているのです。
行動が遅れればそれだけ結果も遅れ、フィードバックや検証も遅れ、すべてが遅れていくことになります。
では行動が早い人はどうしているのかといえば、言ってみれば「手品師」の段階でGOとしているのです。
21までの想像をすることなく、1の段階でやってみるという意識です。
作業しながら結果を見てさらに修正し、改善していく。
完成ありきから入るのではなく、完成は進行の中にあると見ているのですね。
言い換えれば、21までの段階のステップを限りなく次元を落として細かくし、非常に小さなスパンで想像しているため、実行に移しやすいということでもあります。
つまり、行動が早い人は1から21までの想像上の段階の長さが、行動の遅い人に比べて極めて短い、一瞬に見えるほどのものだということです。
ということは、21という完成の度合いが低いとも言えます。低いからこそ、実行への躊躇、失敗への恐れが少なくなるのです。ハードルがもともと低いからです。
まさにスモールステップでの完成(目標)を見ていくということと同じです。
それから、これが恐るべきことなのですが、高い目標、遠い完成の道のりを設定することによって、「自分にはできない」「完成することは難しい」となり、それが「しなくてよい」「やろうとしているけれど、完成には時間がかかるので・・・」という行動の言い訳、逃避に使われるという事実です。
ほとんどの人の成功できない要因は、「やらない」のこの一言に尽きます。(自戒の意味が多分にあります・・・(^_^;))
これを変えるには自分が「手品師」であることを自覚し、「手品師」は「手品師」としてその最初の段階から実行していくことで、技術や知識を身につけていくことにあると思うことです。
誰しも最初から完璧な人はいません。やりながら改編し、完成させていくものだということを思うと、気は楽になります。
実は1の「手品師」と完成を意味する21の「世界」との間には密接な関連があり、これを読み解くと、「手品師」の実践がいかに大切かがわかってきます。
しかし、ただやるだけではなく、大アルカナの2から20までのステップを細かいものにわけて(考えて)やっていくことが肝心であると、タロットからは示唆が得られるのです。


集中力を高めるには。

皆さんは物事に集中するには、どうしたらいいと思いますか?


実はタロットカードからその答えのいくつかの導き出すことがてきます。


集中を意味するカードは少なくありませんが、仮に私の判断でマルセイユ版で14の数を持つ「節制」というカードを挙げることにします。


なぜこのカードが集中を意味するのかは、簡単にいえば「節制」の天使の持つふたつの壺の扱いが集中力を要すると見られるからです。


そして、このカードの前の数を持つカードは「13」(名前を持たないカード)です。マルセイユ版の場合、13と「節制」を並べると向き合う関係になり、カモワン流などではペアやカップルとして扱われるカードです。


「13」は大きな鎌を持つ人物が描かれており、そこからそぎ落としや合理化というような事柄が浮かんできます。


さて、数としては14の前は13ですが、14の次はというと当然「15」です。


15の数を持つカードは「悪魔」です。


13と14が関連するなら、14と15、つまり「節制」と「悪魔」も何か関係しているのではと考えてみます。


「悪魔」も単体で集中性を意味する部分があるのですが、それとは別に、「節制」と一緒に考えると「集中」ということでは面白いことがわかります。


「悪魔」は楽しみや楽しむということを意味のひとつとして表しています。(「悪魔」カードに描かれている者たちは皆笑顔です、もちろんこれには深い意味がありますが、とりあえず「楽しんでいる」と取ることができます)


皆さんも、何か時間を忘れるほど集中したという経験を思い出してください。たぶんそれは楽しかったことが多かったのではないでしょうか?


楽しい講座であっという間だった、趣味やゲームに熱中して気がつくと時間がすごく経っていた、旅行やデート、家族とのふれあいで休日は楽しく、あっという間に終わった・・・などなど。


以上のことから、集中にはふたつの重要な要素があることがわかってきます。


ひとつは、余計なことをせず、シンプルに物事を絞るか整理することで集中力が生まれること。


そしてもうひとつは、楽しいもの、楽しくできるものが集中につながるということ。


です。


もちろん両方の条件が満たされていると、より強い集中力が発揮できるのでしょうが、片方だけでも十分だと思います。


そして集中が本当にできているこの時、時間は相対的なものとなり、ある意味時間を超越します。また時間を有効に使っているとも言えます。


これが裏で出てくる「節制」の意味でもあります。そう、実は「節制」は時間とも大きく関係しているのです。そのことは、節制のカードの名前(書き方)にも現れていることなのです。



争いは「正義」にあります。

まじめに物事を考えてしまうタイプの人や、白黒はっきりさせたい傾向の人、知識欲が高い人などは、どうしても自分の正しさの証明をしようとむきになるところがあります。
人間関係においても、そういったタイプの人は、何かトラブルが起こった場合、たいていどちらが正しいかの争いになっていることがほとんどです。
結局は自分が間違っていないことを何かで得ることで、安心します。
たとえば、
議論や言い合いによって相手を言いくるめ、自分が正しいとする行為。
他人に判断を仰いで、どちらがか正しいかを求める行為。
書物や新たな知識・情報を得ようとして、正しさを証明する行為。
無理矢理自分で自分が正しいのだと「自分に」納得させる行為。
形式的に相手に謝り、相手よりへりくだるように見せて、「自分は相手より大人だ」として自分を当該争点とは別の意味で人として正しいとしてしまう行為。
人ではなく、神や宇宙・天などという大きな概念を持ち出して、自分も相手も正誤判断からはずしてしまうことにより、結果的に自分が間違っていないことにしてしまう行為。
ほかにもいろいろとありますが、いずれにしても結局のところ、自分の正しさを証(あか)して自分が壊れることを防ぐということではどれも一致します。
私はこれが悪いと言っているのではありません。むしろこうなるのが普通であり、それをしないと今の自分としては特に心が安定しないので、ある意味自分を守るための自動的防衛策と言えるのです。
ただ、改めてこうやって自分の正当証明の行為を見てみると、なかなか滑稽ですらあります。大切なのは、正しさ証明のあとでもいいので、客観的になる機会を持つということです。
正しいことを示すということは、それだけ分析力や証明力があるということでもあり、正義感や客観性ともつながっています。
ということは争いから起こる正しさ証明でも、そのこと自体(正しさを求める心)は自分の特性であるとも考えられますし、それだけの才能が与えられているとも言えます。
一度相手との正しさでの争いとなれば、徹底的に自分の正しさを示す思考・理論・見方を作り上げればよいことも出てくるのです。
別に口論や言い争いを勧めているのではありません。
ここで言いたいのは、あなたが弁護士や検察官のように、ある争点となっている事について、必死で自分や持論の正しさを証明するという努力をすれば、思いもしなかった新しいアイデアや考え方が生まれるというその可能性を述べているのです。
タロット的に象徴としていうと、「剣」で切り分けるところまで切って行けば、もうそれ以上切り分けられない何かが生まれ(あるいは「見え」)、そこに真理に近いような輝きが現れるということです。
言い換えれば、自分のために剣をふるうのではなく、物事の真理の理解のために剣をふるっていくということです。
最初は自分の正しさ証明のためであっても、それを「真剣」にやっていると、ある時、正しさの証明ではなく新しい考えが出てくる楽しさに気づくというものでしょうか。
でもそれは相手のとの争いというネガティブなものから始まっているのです。
ネガティブなものをネガティブなままで終わらせるのもありでしょうが、どうせならポジティブなものも見たいです。
それは自分の正しさにこだわる証明の仕方から、自分を超え、あるいは離れて正しさそのものの証明の方法を取っていくということになるでしょう。
逆説的ですが、それも「正義」にこだわることから始まるのです。


自分と人との違いの大きな意味

人間は強いようでいても弱く、もろいところがあり、また弱いようで見えても、とても強くたくましいところがあるようにも感じます。
一人の人間でも強い部分もあれば弱い部分もあります。またこの分野は強いけれどこちらの方面は弱いというところもありますよね。
ただ、いずれにしてもその基準は自分の中にあるようでいて(絶対的でいて)、その実、他人や世間との比較において強さ・弱さが感じられるということです。いわば、相対的なものとも言えます。
ということは、バラエティ(多様)さがあるから強弱がある(わかる)ということになります。
白黒をはじめ、色・カラーはそもそも明暗や色調・波長の違いがあるからこそ、たくさんあるように見えるのであって、何も違いがなければまさしく何も感じる(区別する)ことはできないでしょう。
ですから、強さ・弱さを感じることは悪いわけではなく、むしろこの世界にいる限りそのように感じるのが当然であると思うことです。
これをつきつめれば、ふたつの考えに行き着きます。
ひとつは差異があることを認めること、そしてもうひとつはその差異をどうとらえるのかという課題が与えられていること
というものです。
差異があること、違いを感じることはこの世界で当然ですから、まずはそれを自分は認めることが前提というか、この世界をスムースに生きるコツになってきます。
なぜならば、ゲームの世界でもそうですが、前提やルールを無視しようとすればゲームオーバーして離脱するか、ゲームを楽しむことができないからです。いわば抵抗すればするほど矛盾と苦しみを抱えることになります。
問題はその次です。差異を認めるのはわかったとしても、では、その差異をなくしていくことがテーマなのか、差異を広げていくことが大事なのかというテーゼ・アンチテーゼが起こります。
これがですね、私個人として思うのは、大どんでん返しと言いますか、逆説的と言いますか、差異を拡大することによって差異をなくすことにつながっていく、あるいは差異をなくすことをしていくと反対に差異も拡大していくということになるのだと考えています。
これは一言で説明するのは難しいのですが、タロットカード大アルカナの特定図式と解釈によって可能になります。
あえて簡単に言わせてもらえば、個性の拡大は全体の統合につながり統合の意識は個性化にもつながるということですね。
まるで禅問答のようになってきましたが、結局は内的なものは外的なものと同一であり、人はそれぞれ小宇宙を持って個性となりますが、大宇宙の原理からすれば同じだというわけです。
自分と人との差異を意識すること、これが実は平和にもつながることを考えてみるとよいと思います。不思議に思うかもしれませんが、それが自他の救済にもなっていくと考えられるのです。


「恋人」、「運命の輪」のカードがもたらすもの。

自分の人生において、重要な「点」(ポイント)ともいえるものは何だと思いますか?
人の価値観はそれぞれであり、この「点」についても様々な意見があるでしょう。
私はひとつにはタイミング、そしてもうひとつには「縁」だと考えています。
タロットカードでいえば、「運命の輪」と「恋人」です。
このカードを見てもわかるように、ともに複数の人間や動物たちがいます。
ということは単独より、複数(多くの人)によって「ポイント・点」が生み出されるとも考えられます。
恋愛や結婚、就職・起業・ビジネス、果ては遊びに至るまで、人は何かの縁によって結ばれ、人生(の質)が決まってくると言ってもよいでしょう。
その縁はほとんど自分というより、人が運んでくれるものです。
とすれば、いい縁と出会うためには、よい人たちとつきあわなくてはならないということになります。
つまり、よい縁はよい人につくと言ってもいいでしょう。
あなたの今の人生も、いろいろな人やモノとの縁によって生じ、形成されてきているものです。
もし今が不満足、あるいは理想とは大幅にかけ離れているというのならば、あなたに縁をもたらす人の次元(レベル)を上げていかなくてはならないことにもなるでしょう。
しかしながら、ただ縁を待っているだけではどうにもなりません。「恋人」カードには人間たち三人が描かれているように、現実(人間)の世界で自分が行動しなくてはならないのです。
さらに、タイミングも重要です。
チャンスや縁があっても、あれこれ考えすぎてそれをつかみ損ねるということもあるでしょうし、反対に無策に飛びつきすぎて、悪い話にだまされてしまったということもあるかもしれません。
よいタイミングを測るには、カードでいえば「運命の輪」の中に埋没・操作されてしまうような、コントロールを失った(自分自身を失う)状態で物事を判断しないということです。
すなわち、それは「運命の輪」のスフィンクスでいることなのです。
それから自分について向上心を持っていること、理想やイデアと呼ばれる最上・最善(魂的な意味で)のものを求める精神も大切だと感じます。
それが良質の縁を運んで来ますし、まさにジャストなタイミングで現れることもにもつながってきます。
それには人生で悩むこともよいのです。
恋人カードが示すように、どっちにしようかと選択に悩み、迷い、あるいは人生の方向性がわからないといった混乱に陥る・・・このような時でも自分自身はあきらめず、向上の心を持ち続ければ、上空に天使が必ずやってきます。
実は「恋人」「運命の輪」、そして「悪魔」と「神の家」はある規則によってつながっており、この4枚を読み解くことでとても深い示唆を得ることができます。
最終的にはそれらのことも「星」のカードが握っているという構図にもなってきます。
これはマルセイユタロットならではの関連です。
ちなみにこのような示唆は、誰に教えられるのでもなく、カードの基本的知識(象徴と思想も含む)を得て、ずっとカードに接していると自然にインスピレーションとして降りてきます。
改めて神業とも思えるマルセイユタロットのすごさに気がつかされます。
それはともかく、少なくとも今より自分の人生の質を上げたいと思うのならば、努力して自分によい縁をもたらすことを実行していけばよいでしょう。


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