カードからの気づき
ゆるゆるで癒し系仕事をする場合もあります。
少し前の記事で、「癒し系のお仕事をされる人は、自分の仕事が商売であるか否かをきちんと認識するべき」というようなことを書かせていただきました。
結構厳しい言い方になったかもしれませんが、これは皆さんというより自分自身へのメッセージのようなものでもあり、タロットでいえば「正義」的な記事でした。
今日はその関連ではあるのですが、逆に悪魔的(やんわり楽しい)といいますか、救済の天使のような意味では節制的とも言いますか、そういう観点で書いてみます。
癒し系の仕事と言っても、「仕事」という概念を広く持つことによって、それはまさに「仕える事」として、いろいろなことに適用できます。
とにかく遊びではない、公的なワークが仕事だと考えれば、ボランティアでも何でも「仕事」になります。
ですから、癒し系の仕事をするという人でも、大きな意味での仕事をするのだということで見れば、以前言ったような「商売か否かの区別を意識する必要」がなくなってくる場合もあります。
悪く言えば中途半端、でもよく言えば折衷、中間、無理しないこと、ゆるやかな人と社会への貢献と言えましょう。
それはどんなスタイルかといえば、たとえばご主人や奥様、パートナー、親によってとにかく生活のお金はあるものの、自分がもっと自由になる意味で仕事してお金を得たいという場合。いわばパートタイム的な発想の仕事です。
もうひとつは、無報酬でもわずかなお金でも、とにかく自分が人様の役に立っていることが自覚できるような仕事がしたいというものです。これは自己実現と社会貢献を併せたボランティア的な仕事と言えましょう。
サービスの価値交換にお金というものをあまり意識しないというスタイルとでもいいましょうか。(前者の場合は、意識しすぎるとバランスが崩れたりします)
最初から枠をある程度設定した形で行う仕事なので、その範囲内で行える限りは、ある意味自分にとってのプレッシャーや縛りは逆にない(少ない)というものになります。
不思議に思うかもしれませんが、ある枠組があることでむしろ人は自由になれるのです。たとえば、法律と警察システムがあるから、無法地帯にならず、びくびくせずとも自由に過ごせるというものです。
これはタロットで言えば、「正義」と「吊るし」を見ればわかるでしょう。(ともにロープがあることがわかります)
こういった枠組の中でのゆるやかスタイルの癒し系仕事というのも可能ですので、この限りにおいては商売うんぬんについてはあまり考えなくてもOKだと言えます。
大阪駅リニューアルで。
関西の人はご存じだと思いますが、5/4にJR大阪駅周辺が新しくなりました。「大阪ステーションシティ」と名付けられているように、ひとつの街が出現したかのような大規模な改修です。
GW中ともあって、かなりの人出があります。
私もGWのお出かけとして京都と大阪にいましたので、帰りに寄ってみましたが、オープン当初の混乱を避ける意味か、ほとんど交通整理状態で自由にまだ動けない感じでした。
それで警備員の誘導のままに上に上がるエスカレータに乗りました。
人はとにかく新しい施設には上に上がりたがるものです。(笑)
それでぼんやりと新しくなった大阪駅を見ておりました。(駅は空港ぽく、少し欧風モダン調です)
と、その時、数枚のタロットからのささやきがありました。(笑)
大阪駅、このように大きなリニューアルが行われると、おそらく今まで梅田(大阪駅周辺の地域名)界隈に詳しかった人も、いきなり不案内、初めて訪れた場所のようになってしまったことでしょう。
現に何度も大阪駅には来ている私も、まったくこれまでのルートが通用しないことに気がつきました。
しばらくは、関西人でさえも大阪駅は見知らぬ土地となっているのです。
ということは新鮮であるということです。当たり前のようですが、このことは重要です。
今まで当然のように思っていた場所のイメージ、知識なとが変わってくるので、それは違った視点を供給します。
実際にノースゲートビルディングから北方向を見る大阪の景色は、私にも今までとは異なった印象を抱かせました。
これは「手品師」のテーブルを「吊るし」で見ているようなもの(「吊るし」の木に囲まれている「四角」と、「手品師」のテーブルの「四角」が共通)なのです。(カモワン版マルセイユタロットで説明)
その時、「手品師」はまた新しい手品や方法を発見するかもしれません。
そして、今みんなが新鮮であるということは、逆に言えば誰もがよくわからない、経験がないとうことになりますので、いち早く自分のなじみや蓄積を増やしていくと、今度は自分のアイデアとして人に提供していくこともできるようになります。
それはいろいろな意味でチャンスだとも言えます。(ここまで述べてきたことは、「手品師」「斎王」「女帝」そして「運命の輪」につながります)
このことを少し次元を落としてわかりやすく言うと、ある男の子が新しくなった大阪駅を何度も訪問して、自分なりの経験を増やせば、今度彼女とのデートに有効に使えるということです。
この場合でも、雑誌やネットや紹介しているようなありきたりの情報ではなく、自分の足で赴き、自分の目で見たことが重要です。
そこに独創性と個性的なインスピレーションが起きるからです。
未経験・未体験の前では誰でも平等であることは、「手品師」と「正義」によってタロットでも語られていることです。
ということは、いつも新しいことにチャレンジしたり、好奇心を向けたりしていく人は、リセットのような新鮮味と平等感がその都度働き、初心に戻る公平感と謙虚さを味わうことになって、古ぼけないということになります。
書くことで実現するのか。
「書くと物事が実現する」ということは聞いたことがあると思います。
それは私の経験上もある程度事実だと感じます。
そういえば、この前もこんな気づきがありました。
私がタロットリーダーとして独立した時は、あまり自営業という意識をせずに開業していました。
自分としてはタロットリーディングの勉強と実践はしてきたつもりなので自信もあり、タロットを仕事にすればお客様も自然に来られるのではないかという、今思うと恐るべき甘い考えでいました。
ですが、やはり広告宣伝などもほとんどせず、「隠者」的な引きこもり研究家みたいな生活をしていましたので(苦笑)、当たり前ですが、お客様も来ない状況が続きました。
そこから営業的なことを勉強して実践すればよかったのですが、私はさらに変な方向と言いますか、精神世界の実現の方から入り、具体的にはイメージングと書くということをやってみたのです。
ただこれ自体も中途半端なもので、今思ってみても恥ずかしい限りものでした。当然ながらあまり効果はありませんでした。
それで、その時やっていたのは、自分のスケジュール帳が真っ黒になるというイメージで、実際にその当時のスケジュール帳をありもしないのに、申込み予定みたいなもので埋めてみたのです。
「いつかはこうなればいいなぁ」などという、やや夢想的なもので、この点でも甘さを露呈しておりました。(笑)
それから何年かたち、今、ふとそのことを思い出したのです。
実は最近結構多忙で、今の余白が少なくなってきたスケジュール帳を見て、今後どう調整を図ろうかと思っていたのですが、その時に「あれ? こうした状態の帳面は前に見たことがあるぞ」とはっと気がついたわけです
そう、昔私がイメージングして書いていた通りのスケジュール帳に近いのです。
これはもちろん、去年からコーチングを受けたり、営業的なことを意識して実践してきたりした事が大きいのですが、あの当時にイメージして書いていたことが、その後の実際の行動と結びついて実現してきたのだと想像しています。(まだまだの段階ですが・・・)
大切なのは、イメージすることと、それを書くということ、さらにここが最もポイントですが、その書いたことを実現するために何らかの行動を取るということです。
これはタロットでいえば、まさしく「斎王」「女帝」「皇帝」の道筋です。(「月」「力」「皇帝」とも言えます)
「斎王」と「女帝」でイメージしたものを「皇帝」で実際に書き、行動に移すということになります。
これは実現の型(鋳型)を、イメージすることから紙に書くという方法であらかじめ実現させておくという象徴行為に当たります。
また実際に紙に書き出すことで、あやふやだったイメージを整理して実現可能なものに合理化するという効果もあります。
書くこと自体が実現に向けてかなり具体化していることになるのです。
ただこの一連の作業はあくまで象徴行為に過ぎないので、まだあなたの小さな世界に閉じこもったままです。
ここから外に出していく、つまり外部世界に実現を図るには、やはり外に「形」として働きかけのできる行動が必要だと考えられます。
言ってみれば設計図を書いたとしても、それで家を建てるには材料を集め、実際に建築していかねばならないことと同じです。
逆に言えば、設計図がなければ家を建てることすら難しいということでもあります。
あなたの夢や希望・目標を現実にするひとつの効果的な手段として、やはり書くということはポイントが高いように感じています。
タロットで見る「本の読み方」
皆さんも読書をされると思います。
小説や物語のような、純粋にストーリーを楽しむ場合は何も考えず、そのまま本を読めばいいと思います。
しかし、これが知識をつける、あるいは人生の質を向上させようという目的の場合は少し異なってきます。
このことを考えた場合、カモワン版マルセイユタロットにおけるタロット絵図・タロットマンダラにおいて、第二列目が示唆を与えてくれます。
タロットマンダラ第二列は一番下から「斎王」「隠者」「神の家」というものになっています。
このうち、「斎王」には明らかに誰が見てもわかるように「本」が描かれています。
ではほかの二枚も「本」に関係するのかといえば、この場でははっきりとは言えませんが、特に「隠者」にはその名の通り、「隠されて」本が描かれています。
ただそのことに気がつかなくても、今から述べることは理解できるものです。
まず、一般的に知識的に読書をする場合、ノウハウや知恵、情報を仕入れようと読むはずです。
その時、何も知識がないまま読むということは赤ちゃんでもない限りあり得ないでしょう。そして赤ちゃんは本は読みませんね。(笑)
何が言いたいのかといえば、人はすでに自分にある知識や情報を基準にして新しい本といえども読もうとするということです。
この場合、新しい本を読み進める内に「どうもこれは役に立たない」と見切りをつけてしまう場合があります。
それは自分のすでにある知識と比較しているからです。つまりは思いこみによって、新しい本の知識・情報を無駄だと切り落としているのです。
これはもったいないことです。
タロットマンダラの下段第二列の「斎王」を見ると、本を手に取ってまずはすべてを受けて入れているのです。
そこから私たちは読書においても、とにかくあまり先入観を持たず、いったんは受け入れるということが求められるのだと気がつかされます。
しかし、やはりどうしても自分の価値観や基準というものが出てきますが、それはそれでいいのです。
自分がすでに身につけたもの(知識・情報)と照合し、それが正しいのか間違っているのか、あるいは正誤の判断を超えた新しい示唆が本から得られるのかなどを吟味する段階が、次の「隠者」の段階なのです。
「隠者」はランプを持って探究しているように見えますが、そのことと符合してきます。
そして、その探究、つまりこれまでの知識と新しい本によって得たものとの比較検討などを経て、最終的には「神の家」に到達します。
いや、まだ厳密には到達していないと言えます。「神」と表現されているように、それは相当高い次元の段階であり、いわば真理への到達というものに近いからです。
ただ「隠者」までの段階のものでも、すべては「神の家」の建物のレンガ積みの一部となっていくのです。
それが積み上げられ堅固なものとなった時(用意が整った時)、最後には神の光が流入するかのような大きな気づき、仏教の言葉を借りれば「大悟」となるのです。
「隠者」の段階であなたが今まで身につけた、あるいは最高と思っていたもの、信じていたものがそのまま残ってもOKです。
それは結局、あなたが身につけているものがすばらしいということの証明や補強になるからです。
しかし、たいていの場合は新しい知識と融合して自分の枠や殻がさらに破られることにもなります。
その状態はまた「隠者」と「神の家」の段階でもあります。
結局、知識の面で本を読むということは、何をしているのかといえば、究極の法則や真理・悟りと呼ばれるものに近づくための情報を仕入れているということです。
ですから、もっとも大切なことは知識と知識の間の共通点を探すということになります。
それこそが根源的なものでもあるのです。
その意味ではどの本も等しく重要で価値あると言えます。
ただ何も考えずに表面的に知識を入れること、あるいは自分の対外的な価値を上げるだけのために読むというのでは、ある意味無駄といえるかもしれません。
つまりは知識を仕入れるための読書の場合でも、その背景や目標に「神の家」を置いておくと、大きな意味で効率的でもあり、有意義だということになるのです。
「愚者」になっているといいことがある。
前にも書いたことがありますが、人が亡くなる時や病気になって死期を悟った時、いろいろと後悔をするようです。
特に日本人はその傾向が強いと言われます。
それはやはり、何かと我慢や忍耐をする、外に出すことを控える民族性というものがあるのかもしれません。
でも「この自分」としては一度きりの人生であり、楽ばかりを追い求めていても学びにはなりませんが、反対に自分を閉じこめる一生もとてもつまらないものだと言えます。
特にもう皆さんは気がついたと思いますが、日本は災害の多い国であり、安定的な変わらない生活や状況が続くことは実はまれなことだったのです。
そうした時、求められる心や姿勢というものは、タロットでいえば「愚者」的なものだと言えるでしょう。
元来すべては移り変わるものであり、だからこそ、それを思って自分自身も自由にそして身軽に、人生を楽しむかのような態度を取っていれば自然の理にもかなうと考えられます。
そこで、死ぬ間際に後悔しないように、自分自身にも言い聞かせることが最近はあります。
それはやはり「愚者」のカードに関係することです。
「愚者」は先ほど述べたように、どんどんと旅するかのように移行している人物が描かれているカードです。
つまりはどこかに行こうとしているわけです。(しゃれではありませんが・・・)
「行く」ということは目的があるためで、この目的を「人」と「物」にわけるとわかりやすいです。
そう、私たちは「愚者」となって、人に会いに行ったり、ある場所に行けばよいことになります。
一番最初に述べた死ぬ間際の後悔でも、「あの人に会って伝えたかった、謝りたかった、感謝したかった」というものと、「もっと行きたい場所に実際に行っておくべきだった」というものが多いらしいのです。
ということは、私たちはなるべく「人に会う(会って話をする)」「行きたい場所を訪問する」ということをしていれば後悔が少なくなるというわけです。
ずっと安定した状況が続くとは限らないことは先述したとおりです。極端なことを言えば、明日どうなるかわからないのです。
ですから、今日からでも自分の縛りをもっと解放して、会いたい人に会い、行きたい場所に行くという姿勢と行動を取ることだと思います。
今はGW真っ盛りです。まだ何も決めていない人は、早速上記を実行に移してみるのもよいのではないでしょうか。