カードからの気づき

春分の日を過ぎて

春分の日が過ぎました。

最近は宇宙元旦などと呼ばれて、この日を特別に意識するスピリチュアルな方々が増えたようです。(個人的にはその言い方に違和感がありますが(笑))

少し考えればわかるのですが、最初に考えた人というより、その後にその言葉を使うようにしている方たちの中には、ちょっと商業主義や選民思想的なにおいもあるので、こういうものに流されて、ことさら春分の日を意識し過ぎるのは、かえってよくないという気もします。

まずは、日本における、お彼岸的なことを大切にするのも、初心に戻って重要です。お彼岸自体、民俗学的にも霊的にも、なかなか深い意味があると考えられるものだからです。

私たちは個別で具体的なレベルと、宇宙のような壮大でマクロ的、抽象的レベルの両方を、行ったり来たりしています。

自分に不足感を覚えたり、何か普段の生活に物足りなさを感じたりしている時、自分を大きく見せようと、巨大なマクロの方向へ逃避する傾向があります。

よい意味で言いますと、日常の細かなことに囚われ、日々追われるような状態になっているのを、大きな視点や意識になることで、そういったもの(自分)から解放され、ゆったりとした気持ちになることもあります。

しかし、現実逃避、嫌なことから逃げたい、人と比べて自分は劣っていると感じているような人は、自分を大きなものに仮託することで、あたかも、万能になったかのような感じになり、あるいは、何か外的な神のようなもののご加護を受けたかのような気持ちになり、気分がよくなる場合があるのです。

一種の麻薬投与、中毒みたいな形です。

スピリチュアルな情報は、注意しないと、こうした現実逃避や、幻惑(見せかけ)による痛みの緩和(麻痺)を自分にもたらすことがあります。(情報を出している人が悪いというより、それを扱う者の態度や姿勢のほうに問題があります)

春分の日が特別という情報にしても、それを鵜呑みにしていると、まるでこの日に祈れば、自分を自動的に幸運にしてくれる、現世利益的な願いが叶う、悩みをなくしてくれる夢の日みたいに(そんな人はいないと思うかもしれませんが、似たようなことになっていることに、気が付いていない人も少なくないのです)考える人も出てきます。

そこで、理性と感性の統合が必要になってきます。

なぜ、春分の日を特別に見るのかの根拠を考えないといけません。

すると、当然、地球と太陽の動きの関係性の理解が必要です。そのうえで、単なる天文学的に言っているのではなく、太陽の周期を象徴的に見て、私たちの内的・外的な部分とリンクさせていることも見えてきます。

ただし、理屈でわかっただけではまだ足りません。

重要なのは、感性とも合一してくることです。

言わば、暦自身に自分がなるような感覚とでも言いましょうか。平たく言えば、もし春分の日が宇宙元旦と呼ぶのであれば、文字通り、宇宙的な意味での年の始まりとして実感することができるかという意味でもあります。

これには、春分に対比される秋分、そして夏至・冬至のポイントとの感性的比較が実感できるレベルもいることでしょう。

宇宙元旦があるのなら、宇宙大みそかもあるわけ(笑)で、始まりばかりが強調されても仕方ないと言えます。

結局、太陽の見かけの通り道から規定される黄道十二宮など、占星術の概念・知識が必要になってきますので、占星術を学ぶのが、こうしたことを理解するのに手っ取り早くなります。

とすると、どのような人たちが、この宇宙元旦を述べているのか、広めているのかが、言わずともわかるかと思います。

しかしながら、よいことで言いますと、私たちは以前太陽暦から太陰太陽暦も含めて、「」を意識していた暦も使用していました。

「月」と「太陽」は、「陰陽」としてはもっとも有名な象徴と言えます。ところが、今は太陽暦が中心となり、地球から見た太陽の周期を意識する時代が、21世紀なのに強くなってきました。(天動説的な見方と言えます)

「月」というのは、受容性の象徴でもあります。「太陽」の光を受けて輝く「月」であり、自らで輝くというわけではありません。

もしかすると、私たちはこの「月」のように、何か「太陽」のようなものによって、やっとその存在性を示すことができていたのかもしれません。

けれども、これからの時代は、他者から光を与えられるのではなく、自分自らが太陽となって輝く時代へと変容しているとたとえられそうです。

マルセイユタロットカードの大アルカナも、「月」のカードの次は「太陽」のカードになっています。

「太陽」のカードは、燦燦と輝く太陽の下、二人の人物が手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。

このカードの解釈は、様々にできますが、単純に見ても、二人が協力する、ふたつのものがひとつになる、統合するという見方ができます。

その二人とは、「月」の自分と「太陽」の自分かもしれません。

自分だけでは輝けなかった時代の人間が、自らで輝ける自分へと変化している様です。

エネルギー的にも、外から供給してもらわない(奪わない)と活動できなかった時代から、エネルギー自体が太陽そのもの(今のやり方で言う太陽エネルギーとは別のもの)、それは自分そのものでもあると気づく時代へと変革する象徴かもしれません。(単純に言えばコペルニクス的とも言えるエネルギー革命の可能性)

また「太陽」は自己意識も象徴します。

スピリチュアル情報に踊らされて、自己を確立できず、他者や情報への依存・洗脳・奴隷になってしまわないよう、情報は情報としてうまく活用しつつ、あくまで自分が中心であるという立地を確保することです。

そこには地上性としての現実もないがしろにできません。(自分が立つ大地でもあります)

宇宙意識に飛ぶのもいいのですが、実感もなく、さらに理性も使わず、ただ低次の占いのように、安易に信じている(妄信の)ような状態では、自分が「月」の状態にあるのと同じです。

せっかく、「太陽」を意識し始めているのですから、自分というものを大切にし、しっかりと確立していきながら、自他を解放していく方向に飛躍することです。

自己犠牲にもならず、自分勝手にもならず、自他を同じ観点で見られるレベルに、人類全体が向上することが、「太陽」の時代に求められる気がします。


終わっていないものを終わらせる

先日、アニメ界最大のこじらせ案件(笑)とも考えられる「エヴァンゲリオン」(作品によって表記が微妙に異なるのですが)の映画、完結編を見てきました。

内容はネタバレになるので、ここではふれませんが、一般的には好評のようです。

まあ、この映画の個人的な評価はともかくとしまして、先述したように、多くのアニメファンを悩まし、四半世紀にもわたって大量の一般評論家、論客たちを誕生させ、同時こじらせてしまった作品が、とにもかくにも終わりを迎えたというその事実は大きいかと思います。

私自身はアニメ好きであっても、エヴァにはまったり、あまりこじらせたりすることはなかったのですが(あえて放置させていたところもありますが)、むしろ、タロットをやるようになってから、聖書をモチーフに、その散りばめられた秘教的な言葉と設定の暗号群が、非常に気になっていたこともありました。

この作品は、言わば、知識を得れば得るほど、自らで難解化してしまうという、面白い束縛構造を持っていたと言えます。まあそれだけ、この作品の生みの親である庵野氏の知識オタクぶりがすごいということでもありますが。

タロット(マルセイユタロット)的にも、とても面白い作品なのですが、その関連はまたの機会にするといたしましして、今日は、エヴァの終わりということで、完結をテーマとする内容です。

タロットリーディングを行っていると、終わっていないことが問題・テーマになっていることが読み取れることがあります。

それも、事象としての事実は終わっているのですが、心理的・内面的には終わっていないということが、特に問題性として出ます。

客観的には終わっているけれども、主観的には終わっていないものと言い換えてもよいでしょう。

ということは、タロットカードの展開における過去のパート(もしその展開法に「過去」という時系列を表すものがあるとすれば、ですが)が重要になってくるということです。

人には、自分自身も気づいていない、無意識や潜在意識的な情報・データがたくさんあると考えられます。

それらにはよいこともあれば、悪いこともあります(究極的にはいいも悪いもないのですが)。

もしそれらのデータのうちで、今の自分自身を苦しめたり、ブロックとして物事をスムースに行かなくさせるパターンのようなものがあるのなら、それは解除しておくとよいわけです。

解除しなくても、認識させること(そのことを知ること、意識化すること、納得できる理由付けをすること)でOKな場合もあります。

心理療法家の多くは、このことを行っているわけです。

このようなデータ・情報の中に、終わっていないことによる苦しみ・葛藤・不安・気持ち悪さ・違和感というものがあります。

その終わっていないことは、事件としては、いろいろ考えられます。多いのは恋愛、仕事でしょうか。また幼少期の様々な事柄ということも結構あります。

自分の恋が終わっていない、自分の仕事が終わっていない、家族のイベントが終わっていない・・・まあ、それ自体(事件)は人により、様々です。

大事なのは、事柄(起こった事件そのもの)ではなく、それに対する自分の感情、意味付け(認識)です。

それが何であれ、とにかく自分の内には、終わっていないという意識、気持ちが続いているのです。

終わっていないのですから、今もって継続中であり、ずっとそれが裏の意識、自分の内の意識していない別世界で動き続けていることになります。エネルギーもただ漏れです。(笑)

人間というのは自己再生力とか自己治癒力があり、そのため、このいわば未完了の状態・気持ちを何とかしようと、折に触れて、「完了してくださいよ」という警告、メッセージを出してきます。

もっと言えば、未完了なものを完結させるための環境・事件が用意されると言ってもいいです。ここでは「される」と言いましたが、無意識的には、自分がしている、「する」という言い方をしてもいいのです。

ということで、それは今の「問題」として発生したかのような形を取ります。

まあ、平たく言えば、避けていたことに向き合うタイミングが来た、処理し、終わらせる時が来たという知らせです。

それを放置したり、うまく処理できなかったりすると、また未完了事件として残り、次の機会を待つことになります。

だいたいは、ループ状態として経験されていくのですが、そのことに、多くの人は自覚できません。

本当はこのループ構造自体がとてつもない罠になっていて、霊的な意味合いがあるのですが、今は心理的なレベルにあえて落とし込んで説明しています。

ということで、マルセイユタロットにおいては、完了を示唆するカードとして、特に指摘するとすれば、名前のない「13」が代表的であり、ほかにはサイクルの完結と始まりを示す「運命の輪」、再生的新生とも言える「審判」、それらの前兆や低次選択事件として起こる「恋人」、高いレベルでの見地から、達成と始まり、あるいはそのプロセスを示す「神の家」、大アルカナナンバー最大でもっとも数の大きい、まさに大いなる完成を示す「世界」などが挙げられます。

その他、水に流す意味での「星」とか、移行エネルギーそのものを表す「愚者」、征服、克服を意味する「戦車」など、見方によっては大アルカナのほとんどが完結性の意味を取ることが可能です。

しかし、やはり、最初に挙げたカードたちが出るのが、その意味合いとして顕著と言えましょう。

終わらせるためには、今回のエヴァゲリオンの映画でもやっていたことですが、儀式と自らへの(これまでへの)祝福が必要となります。それには従来の見方の反転的観点もいります。(「吊るし」とも言えます)

カモワン・ホドロフスキー版マルセイユタロットの製作者の一人で、映画監督・セラピストてもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏は、自らの映画作品においても、そして、セラピーとしてのサイコマジック技法においても、未完了のものを完了させていく儀式を行っています。

マルセイユタロットは、一種の儀式的ツールでもあるので、タロットリーディングという行為そのものが、一種の儀式となっているのです。

葬送儀礼をすることが葬式であり、それによって死者の魂は、自らが死んだこと、生が完結したことを知り、生きている側は、亡くなった人が、まさに故人となったことを認識します。

たとえ死者とか魂のことはわからなくても、少なくとも、生きている現実の人々にとっては、葬式によって、死・終わりを認識する区切りにはなります。

ただ単に亡くなったというのではなく、式典によって、死者を弔うわけで、言ってみれば、これまで生きた方への慰労と敬意、死の世界への旅立ちの祝福でもあります。

これと同様、葬式をされていない、自分の中にまだ死にきれない亡者として彷徨ってい感情があると見るのです。

きちんと弔い、葬ってあげないと、その感情はゾンビ化して(笑)、自分を苦しめます。

エヴァンゲリオンでも、こじらせてしまった人の精神の残骸が大量に彷徨っていたのでしょう。(苦笑)

それに終わりをもたらせたのが、2021年の今回の劇場版だったということです。比較的好意的に今回の作品が受け取られているのも、そういう人たちにとっては、本当の意味で、エワンゲリウム、福音となったということだからでしょう。

そこからしても、マルセイユタロットにおいては、「13」(完了・終わり)によって、「審判」に浮上するような(福音を受け取る、新たに再生する)構造を見ることができるのです。

日本語の言葉で単純化すれば、それは、「さようなら」そして「ありがとう」(「ありがとう」そして「さようなら」でもある)と言えるものでしょう。


「勇気」のカード

タロットカードの勉強において、意味を覚える作業は、どうしても出てきます。

ただ、一枚のカードがひとつの意味(言葉)を成すのではなく、言葉・単語としては、多くのものを思い浮かべることができます。

それは、タロットの図像が象徴でできている(象徴という機能がある)ためです。

カードの意味を覚えるとしても、それはあくまで、そのカードの象徴(本当の意味)を理解するための導入に過ぎす、象徴を言語化するためのきっかけなのです。

それがわかっていないと、カード→意味の方向が逆になって、意味→カードとなり、その意味はそのカードでしか表せないという誤解・妄信に陥ります。

さて、今日は「勇気」という言葉と、タロットカードとの関係について考えたいと思います。

最初になぜ、カードの意味を覚える際の注意点について書いたのかと言えば、この「勇気」という言葉・意味においても、あるカード一枚がそれを表すだけではなく、ほかのカードにおいても「勇気」の意味を見出すことができるからなのです。

マルセイユタロット的に考えた場合、「勇気」の意味があるものとして想像できる代表のカードと言えば「」かもしれません。

「力」は、その絵柄の通り、女性がライオン(子ライオンではなく、ちゃんとたてがみのある雄の大人ライオンです)を抑えているように見え、それはかなり勇気のいることだと想像できます。

本当のところは、この「力」の女性は、別に必死の決意で勇気をもってライオンに対しているのではなく、ライオンを御せるほどの「フォース」を扱うことができるからなのですが、タロットは見た目からの意味合いもあるので、「勇気」を「力」から読み取ってもよいでしょう。(実は、深くには、別の意味で勇気だと考えられることもあるのですが、それは秘伝的なことに関係しますので、ここでは言いません)

しかし、何も「力」だけが「勇気」意味するとは限りません。

例えば、「戦車」や「13」、「神の家」とか、その他のカードでも、考えようによっては勇気の意味合いを取ることも可能です。「悪魔」でさえ、神に逆らうサタン的なことでは、勇気あるとも言えなくはないです。

究極的には、どのカードでもそれ「勇気」を見つけ出すことはできます。

とは言え、やはり、前進性、特にマルセイユタロットの場合は、カード人物の向いている方向性にも意味を持ちますので、どちらかと言えば、右向きのカードにそれを思うことができるでしょう。

となりますと、具体的には、「愚者」「女帝」「法皇」「力」「13」ということになるでしょうか。

ただ、さきほど述べたように、前進性を示すもので言えば、「戦車」も左向きとはいえ、馬車に乗って戦いに勝利している人物がいるので、例外的にあげられるかもしれません。

右向きのカード、上記5枚のうち、「女帝」と「法皇」は、ちょっと勇気をイメージしにくい対象かもしれません。

それでも、あえて、それぞれから勇気を取るとなりますと、「女帝」は創造性に関係することで、やはりクリエイトすることには、それまでの既成概念を打ち破り、斬新なアイデアを生み出し、提供するということでは、勇気が求められることがあると考えられます。

アイデアや発想を思いついても、それをすぐ引っ込めてしまうのではなく、新しいことを創造していくには、勇気をもって、それを提示していくことが必要だと言えそうです。

また「法皇」は、教育者も表しますが、教育していく人、何かを伝えていく人にとっては、これも時には権力とか体制、支配者に対して、一言持っておかないとならず、勇気をもって諫めたり、悪い方向性や後退的に向かう状況の場合、勇気をふるって、それを打破する教え、伝達をしていくことが重要となるでしょう。

「力」はすでに述べた通り、一番「勇気」を象徴しそうなカードですし、「愚者」と「13」も、その姿勢を見れば、次に移行し、従来の世界から新規な世界へと新たに歩みを進めている状態が見て取れ、そこには勇気というものが後押ししている、あるいは、勇気ある態度でないと次へ行けないと思うこともできます。

改革など、古いものや固定してしまったものを破壊して、新しくするための勇気もありますが、一方では、大事な人やものを守ったり、正しいと思うことを主張したりするような保守的な勇気もあります。

その場合、女性的なカードや、動きの少ないカード、右向きのカードたちが現れ、先述した改革的な前進性のあるカードたちと一緒に出ることで、保守的な勇気というものを意味させることもあるでしょう。

それから、「愚者」のカードと関係しますが、無謀さと勇気はまた別だということです。

「愚者」は、ある意味、勇気があるから「愚者」でいられるとも考えられますが、本来的には名前のように、愚か者に見えるような、意外性と言いますか、普通の常識人からすれば異質性がある人物です。

もし「愚者」が問題性として現れれば、それは勇気ではなく、無謀ということが示唆されてくるでしょう。

「愚者」本人は、実は勇気とか無謀とかなど意識せず、ただしたいことをするみたいな、何ものにも束縛や規定のされない人、あるいはそういうエネルギーを示すのですが、「愚者」を見る人物、「愚者」と関係する側の者たちからすれば、「愚者」が無謀に見えたり、勇気ある人物とみなされることになるのです。

つまりは、意味付けているのは、見ているこちら側、(この見ている側とは、一般的客観的視点という意味と、カードを実際に見ているタロットリーダーとかクライアントという意味のいくつかの層があります)ということもあるのです。

このように、カードには、それ(カード)そのものの意味と、カードで表されるような人物や事柄と対する側の反応の意味みたいなものも含まれます。

こうした双方向の意味合いを意識することは、普通のタロット学習では少ないですが、高度になれば、そうしたことも考慮しておくと深い洞察がカードからできるようになります。

あと、ちょっと話は変わりますが、自分にとって勇気を出さねばならい時が、意外にわかりづらいことがありますよね。

または、勇気を出さねばならないと時とわかってはいても、なかなか踏み出せない場合もあります。

こういう時は、自分だけで考えていると、なかなか結論が出しにくく、勇気を出すタイミングが遅れたり、勇気を出さなくても本当はいいところで、出してしまったりということもあります。

要は、勇気への判断がつかみづらいわけです。

ですから、タロットの出番なのです。

タロットカードを引くことで、勇気を出す時なのかどうか、そして出しにくい時は、その要因は何か?(この分析には、小アルカナが特に役立ちます)ということがわかりやすくなります。

カードというツールがあるために、自だけではわかりつらいこと、目に見えない内的なことなど、カードによって外側に表現することができ、自己のことでも客観的に見たり、絵であることで具体的・視覚的にとらえたりすることが可能です。

「勇気」と一口に言っても、今見て来たように、カードで象徴化すれば、たくさんの種類があることがわかります。

同時に、勇気の度合いも、人によって異なります。

ある人にとっては、簡単で勇気がいらないことでも、別の人にとっては、大変勇気のいることもあるわけです。

こういう個別性に対しても、マルセイユタロットは応えて(答えて)くれ、あなたにとって、今勇気が必要なのか、そうではないのか、どんな種類の勇気がいるのかなど、示してくれるのです。

混沌としている今の時代、全体的にも、一人一人においても、勇気がより必要になってきたのではないかと思います。

あなた自身の勇気を、タロットカードとともに見つめ、発揮していくことで、あなたの自身の新しい世界を創造していくことができるのです。


マルセイユタロット「手品師」について

マルセイユタロットに「手品師」というカードがあります。

一般的なほかのタロット名では、魔術師と呼ばれることが多いかもしれません。

ウェイト版のタロットでは、明らかに魔術をしているかのような絵柄なので、魔術師と呼ぶ方が適当かもしれません。(そもそも製作者のウェイト氏は魔法団体所属の人です)

マルセイユ版の「手品師」は、例えば、数年前に出版された、著名な映画監督でタロット研究・実践家でもあるアレハンドロ・ホドロフスキー氏の本「タロットの宇宙」では、このカードのことは「大道芸人」と訳されいます。

別にこのカードの人物は、ウェイト版のように、魔術をやっているわけではなく、まさに大道芸人のように、出店で手品という芸を披露しているように見えます。ですから、呼称するには、大道芸人でも、手品師でもよいわけです。

しかしながら、ただ大道芸をやっているだけの人物では、それこそ芸がありません。(笑)

見た目だけのものではない、口伝的内容「手品師」の象徴性にはあるのです。

なにも「手品師」だけに留まらず、ほかのカードたちも同様であるのがマルセイユタロットの特徴です。つまりは見た目や見せかけの意味と、隠された意味とがあるということです。

この裏の意味を知らないと、カードをきちんと扱うことができません。もし表だけだと、それはタロットが普及した一番の意味であるカードゲームとしてか、カードの絵柄に芸術性がある場合に美術鑑賞用のものとしての意味(価値)しか見出せません。

何よりも、そのことを大アルカナの最初のナンバーを持つ「手品師」のカード自身が示しているのです。(大道芸人・手品師の絵柄と道具に隠された意味があること、それらの本当の意味を認識し、使いこないことが暗示されています)

さて、この「手品師」、さきほど述べたように、裏の隠された意味合いなどもあるわけですが、もちろん表・見た目だけからでも出る意味もあります。

この「手品師」は、手品をして観衆からお金をいただくことをしているので、彼にとっては「仕事」をしているとも言えます。

そこで、「仕事」ということが意味としても表されるわけなのですが、タロットは象徴であるので、「意味=カード」という図式が成立するわけではありません。カードから意味が出るのであって、意味をカードにあてはめるわけではないのです。

ですから、たとえ「仕事」という意味や言葉があったとしても、それは「手品師」だけの意味とは限らないのです。

タロット学習において、カードの意味を暗記する人もいますが(それは悪いわけではありませんが)、方向性(「カード→意味」であり、「意味→カード」ではないこと)を間違えないようにしないと、意味を覚えたのに、リーディングできないという事態に陥りますので、タロット学習において注意が必要です。

「手品師」は彼にとっての仕事をしていますが、大規模なビジネスをしているわけではありません。屋台をはって営業している大道芸人ですから、しょせんしれている規模です。

ですが、カードは成長性も示し、特に大アルカナの数が増えるごとに成長していくという考えがあります。そこからすると、「手品師」の彼は、「皇帝」とか「戦車」へと発展していく可能性も秘めているのです。

すると、やがて大きなビジネスに成長していくかもしれず、その可能性は「手品師」にあるかもしれません。

たとえば、今は彼は、道端で手品を披露しているだけの一人の芸人かもしれませんが、やがて経験と年を経て、手品師団体や組織を作り、会社みたいにして、多くの手品師・大道芸人を雇い、経営していくことも予想されます。

若い時だと体も無理がきき、また新しい芸を覚えて披露することも柔軟に、スピーディーにできますが、次第に年を取ってくると、そうもいかなくなってきます。

しかし、経験や知識は増え、直接、体や芸を資本として稼ぐより、違う方法(稼ぎ方)を思いつくようになるでしょう。

そうやってタロットを見ますと、「手品師」のカードの人物はわざと若い人物のように描かれているのがわかりますし、テーブル上の手品道具も種類があり、それらを扱うように用意されているのが見て取れます。

それと同時に、表情はちょと自信なさげでもあり、まだ経験不足のところも見受けられる感じです。

こうして、若さで仕事する特徴が、手品師には描かれているわけです。すると、タロットは見ようによっては、仕事やビジネス、あるいは人生そのものの流れ、成長、発展を、やはり(全体として)表しているのではないかと推測することができます。

「手品師」は、その若さもあり、好奇心旺盛な人とも言えます。新しい道具、ツール、技術にも関心が行き、それを使いこなそうとするでしょう。

現代においても、好奇心旺盛な人は新しいものに目が行き、それを採り入れよう、使ってみようという人が多いですし、そういう人は比較的成功する素養があると言えるかもしれません。

もちろん、なんでもかんでも目新しさに飛びついていては損をしたり、危険な目に遭ったりすることもあるでしょうが、やってみないことには始まらないということもあります。

「愚者」と「手品師」を合わせる(並ぶと)と、まさにベンチャービジネスとか、新しい仕事にチャレンジみたいな意味で見ることができます。

たとえサラリーマン・アルバイト的な人でも、新しい職場に行くとか、転職するとか、新規の気風が漂います。

古いことを守っていくことも大切ですが、仕事・ビジネスというのは、現実の状況(経済情勢・景気・情報等)に多分に関わって来る分野ですので、新しいもの、移り変わる世の中の情勢に関心をもっておくことが成功の鍵でもあるでしょう。

そして「手品師」が道端で実際に芸を披露しているように、現場、実際のフィールドに出ること、そこからの情報と経験を活かすことも示されているように思います。

「手品師」の次の数の「斎王」(一般的には女教皇)は、「手品師」と違い、本を手に取り、静かな環境で控え、勉強しているような雰囲気ですが、まず「手品師」というカードが出ていることは、学びばかりし、引きこもったりしていても始まらず、とにかく一通り覚えたらのなら、世間(実際)に飛び出し、やってみることが大事だと、タロットは言っているようです。

まあ、これは、タロット、特に大アルカナ中心に、数の順に物事や人物が成長、発展していくという前提で見た場合のことです。

これとは違う見方があり、それによれば、まず「手品師」になってみよう、「手品師」のように行動することが一番、というわけではなくなります。

人には得意不得意、向き不向き、言わば個性があり、「手品師」や「愚者」のような人もいれは、「斎王」や「隠者」のような、保守的で慎重な人もいます。

いわゆる経済的な成功分野は、現実としての経済(お金の世界)が重要で、それは数値で計れて、ある程度の成功法則があると言え、理論・良質な(あるいは斬新な)情報・アイデアとともに、実践・行動、そしてそこから得られた結果とその修正、再チャレンジというサイクルの、特にスピードと行動性が重要視されます。

しかし、人は経済や物質だけで生きる存在ではありません。

価値と目的が変われば、目指すもの、過程も変わってきます。

本質的には、どの分野であれ、実は同じ要素や順序、法則のようなものがあると考えられますが、目的・レベルによっては、入れ替えとか、ルート、表現が違ってくる場合もあります。

「手品師」が仕事をしているというのなら、現代的にいえば、仕事をして経済的糧を得て、人生のある程度の安定を得るか、さらなる(経済的)発展・成功を目指す人となるでしょうが、最初にも述べたように、「手品師」(その他のカードも含めて)には裏の意味もあるわけです。

それを見れば、「手品師」が行うこと、学ぶこと、主題は別にあると言えます。

それは実際の年齢とは関係なく、あなたが年を取っていたとしても、今から「手品師」としてスタートすることもできるのです。ここにおいては、若さの絵は完全に象徴化されます。

または、すでに「手品師」の意味すものをやっていたことに気付く段階があるかもしれません。

「手品師」は「」という数を持ち、この数は、大アルカナにおいて、ほかに「11」の「力」、「21」の「世界」と続きます。それらのカードには共通した象徴・シンボルが描かれています。

またローマ数字においても象徴性があり、ローマ数字の1を持つ数も、関係します。

そのようなことで、あなたが、どのタイプの「手品師」になるのか、あるいは、どのタイプの「手品師」の学び・実践が必要とされ、自分の傾向としてある(合う)のか、それはまた、「手品師」のカードと会話することで現れてくるのです。すべてはカードの絵柄に描かれているのです。


「世界」と、私たちの構成とのシンクロ

この世の中は理不尽なものです。

しかし、多くの人が、公平な社会になるよう尽力し、運動しています。それには敬意を表しますし、人類の歴史は、ある意味、矛盾さ、理不尽さをなるべく解消し、真の公平な世界になるよう努力してきたとも言えます。

おそらく、スピリチュアル的な意味では、もともと人は本当の意味で(完全に)公平で平等であると考えられます。それはもう、私たちの思う「人」ではないのかもしれまず、すなわち、神、神性と呼ぶ概念のようなものと言えそうです。

それを私たちは、どこかに記憶しているのでしょう。だからこそ、それ(真の状態)を目指して(モデル・イデアとして)、世界をよくしようと頑張るのだと思います。

もし、最初からすべてが公平で、何の理不尽さもない完璧な状態だったら、それは停止と同じであり、何もしなくてもいいので、それでは宇宙の拡大・発展(というより、バラエティさの実感)には足りないのかもしれません。

ゆえに、私たちは、不公平ともいえる現実の世界に、皆、人として生まれてくるとも考えられます。

マルセイユタロットを見てますと、タロット(カードの象徴)は、実はその現実世界の色々さ(いい・悪いの両面)を示していて、同時に、そこを超える何かも表していると見ることができます。

おかしな話に聞こえるかもしれませんが、タロットは本当は意味のないものであり、タロットから離れることこそが、真の世界・状態への回帰になるのだと、以前に気づくことがありました。

しかしながら、私たちの意識が人である限り、タロットは逆に大いに意味あるものとなるのです。

従って、現実世界でタロットを学び、タロットの示唆や象徴を活用していくことは、無意味どころか、原点(宗教的な言い方をすれば天国)に戻る有用な地図みたいなものとなるわけです。

ところで、マルセイユタロットに流れる思想に「グノーシス」というものがありますが、それによれば、人間は大きく分けると、三つの部分によって成り立っていると考えられています。

スピリチュアル的な見方においても、人間は見えない体と言いますか、エネルギーのようなもので示され、それによると数種類の部分(性質)でできていると言われています。

まあ、普通の人には肉体部分しか見えず、常識的に、それが人間のすべてだと思っている人が多いわけですが、ただ、一般的にも、心の部分は肉体とは別にある(肉体の中にあっても肉体そのもとは違う)と思われていますよね。

ともあれ、そういういくつかの部分・性質のうち、一番崇高ともいえる「霊性」の部分が人にはあると言われます。

それは他の肉体とか、心とか(霊性は心や感情とかとは別だとみなされています)とは違い、なかなかわかりづらく、感じることもできにくいのですが、誰にでもあり、いわば神とダイレクトにつながっている部分と言えます。

コンピューター的例えであえてすると、メイン(神・大元)につながる端末(人の中の霊)でありつつ、メインとシンクロし、データの共有ができ、時に入れ替え可能なものと言えるかもしれません。

しかし、通常、なかなか人はその端末(霊性)を意識することができにくいということでしょう。また、普通はスイッチが入らない(オフにさせられている)と言い換えてもいいかもしれません。

それで、現実生活においては、ほかの性質・部分が支配し、つまりは意識の中心として働くようになっていると考えられます。

まさに、霊以外の部分たちに動かされる毎日と言ってもいいかもしれません。

ここで、量・パーセンテージで見れば、(霊ではない)他の部分のほうが多いわけなので、私たちの通常意識では、量が多いほうが圧倒すると思う傾向がありますから、そちら(霊以外の部分)が優れている、よい状態と錯覚するわけです。

しかし、エネルギーの「」として、もし見ることができれば、量は少なくても強いパワー、影響力があるとわかる場合もあります。

翻って、私たちの現実生活では、質で見ることは意外に少ないことに気がつきます。

特に経済では、端的にお金・利益がたくさんあるほうが勝ちみたいになっています。

勝ち組・負け組的ニュアンスも、まさに持てるものが勝ち、持てないものが負けみたいなところがあります。

その大きな要因は社会の仕組みにあるのですが、スピリチュアル的に見た人間の構造から考えると、人間の中で多くの部分を占めてしまうものに私たちは支配されがちなので、自ずと、物事の見方・価値観も、多いほうの勝ちとなってしまうのではないでしょうか。

もし少ないパーセンテージでも、極めて良質ともいえる人の中の部分を、各々が認識することができるようになれば、その本当の力に気づき、ただ多いだけが支配したり、よいとみなされたりするわけではない、質で見る価値が浮上してくると思えます。

ほとんどは、量的な領域・部分で動かされているからこそ、私たちは、理不尽ともいえる世界を作ってしまっていると言えます。

そう、世界(外側の状態やシステム)が私たちを規定しているのではなく、私たち自身の人としての構造を量的に感じてしまっている(価値を置いてしまっている)から、世界をそのような価値観で見て、それに準じる社会を作り上げてしまうのだということです。

スピリチュアル・心理系ではよく言われる、私(自分)が世界を創造しているという意味にも近くなってきます。

最初にも述べたように、私たちは、もともとは神として、完全で平等で公平な、理屈の通る世界を知っていて、それがために、世界の改革・発展を望むと考えられるわけですが、その記憶を忘却させられ、ただ多いほうの部分で動かされるロボットのような存在になると、ますます矛盾や、一部の者が得をする世界を生み出していく(保持していく)ことになるのです。

ですから、普段からロボット化されないように、霊的記憶へのアクセスを思い、崇高で純粋な、いわば魂の世界にリンクさせていく必要があると考えられます。

その鍵が、量だけの世界に毒されるのではなく、質を見極める観点です。

多数決は民主主義の原理として働きますが、必ずしも、多数がよいというわけではないのです。

少数派にいても、負け組と言われる者であっても、そこにいるのは、実は、少ないながらも良質なものを思い出し、指向している存在なのかもしれません。

多数にある悪魔性に気づき、少数と言いますか、個であっても、その中の輝きを発見することです。もちろん少ないからいいというわけでもなく、量が必要なこともありますが、重要なのは質・本質です。

一見、量的には少なくとも、実は大きな力と真なる世界とのつながりを導く人の中にあるそれは、マルセイユタロットの中に描かれているものでもあります。

現実(現境や今の社会システムの中での暮らし、個人の人生)をよくする観点も大切ですが、それを超えた世界、自分自身が真に記憶している大元の世界への変質・回帰を意識することが、量から質へと変換する、ある種、錬金術的な世界変容とへとつながるのだと、マルセイユタロットを見ていて思うものです。

やはり、私たち自身が高次になること(レベルアップ・価値観の変容・アセンション)が、世界や社会を、より平和で公平なものへと変えるのだとわかります。


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