カードからの気づき

タロットとの縁、双方の小宇宙。

タロットと関係する人というのは、最初からカードとかタロットが好きで、当然のようにタロットを手にする人もいれば、タロットなどまったく興味はなかったのに、ふとしたつながりで、偶然のようにタロットと関わるようになったという方もいらっしゃるでしょう。

私は完全に後者です。

そして、ことマルセイユタロットで言えば、前者の人もおられますが、そして統計を取ったわけではないのですが、どこか、感覚的には後者、つまり、タロットに最初興味はなかったけれど、偶然のような必然で関係するようになったという方が多い気がします。

私は、マルセイユタロットを学び扱うようになって、より思うのですが、物事は双方向(時には多方向)から見ないと本質はつかめないと考えるようになりました。

そこからしますと、タロットとの縁も、自分からつなぐ縁と同時に、タロットからつなげられる縁もあると感じます。

前々から言っておりますように、自分がタロットを選んでいるようでいて、実はタロットから選ばれているところもあるのだと。

これは、タロットだけではなく、人やモノ、あらゆる事象との出会い、縁でも言えることかもしれません。

自分はあの人を選んだ、あの学びを選択したと思っていても、向こうのほうがあなたを選んだのかもしれないのです。

そして、その双方向の働きと言いますか、複合的な作用、化学反応にも似た状態によって、両者の関係による体験、事件、事柄、意味合いが生まれてきます。

これは両者によってできあがったものなので、決して一人だけでは誕生しなかったものです。その意味では、あらゆる関係は「結婚」という象徴で言い換えることができます。誰もが、いろいろな結婚を体験しているのです。

しかし、両者によって生まれたものであっても、それぞれの見方、認識は異なることもあるでしょう。人との出会い、関係性はこの意味が強いです。

それでも、同じ時空と言いますか、関係性でできた小宇宙とでも言える中に両者はいるのです。思えば、この小宇宙が、山のように世の中にはあるのだと想像します。

この両者の共同作業によって生まれる経験や時空は特殊であり、まさに双方によってできあがるものなので、両者の関係性のエネルギーによって、様々な状況を見せることもあるわけです。

例えば、あの人のおかげで自分は救われたとか、その逆の場合もあるでしょう。

まさに、小宇宙の中の色とりどりの星々の動きみたいな感じです。

片方の自分からだけの視点では、「自分がなになにをした」とか、時には傲慢に「自分がなになにをしてあげた」と思うこともあるかもしれません。

しかし、双方の関係性から見ると、その反対の解釈にもなるわけです。それこそ、自分こそ、「してもらった」とか、「させられた」ということにもなるのです。

よく、失ってはじめて本当の大切さ、本当の意味を知った」と言われますが、双方の関係性で生まれていた小宇宙が壊れる時、つまり、別れとか新しいものとの関係性に移る時、今までの双方によってできあがっていた小宇宙で体験した貴重な経験性を知ることになります。

すると、自分の主体性・能動性は、客観性・受動性として認識され、その逆もあり、自分が受け身であったと思っていたことは、実は自分が引き起こしていたと、その能動性・主体性(よい意味でも悪い意味でも)に気がつきます。

私自身も、その昔、ある人にいろいろ与えていたと思っていたものが、別れた時に、実は、自分のほうがたくさん与えられていたのだと気づくことがありました。

また、自分があの人を見出したのだと思っていたら、反対に、「私(相手)があなた(自分)を見つけたから、あなたが私を選んだのです」という意味合いのことを言われて、なるほどと感心したこともありました。

すべての関係性は(人とだけではなく)、こう考えると、意味があると思えます。

それは自分だけの意味もあれば、向こう側からの意味もあるでしょうが、双方の出会い・関係性においては、小宇宙としての特別な時空を経験する、第三者的意味合い(それは両者を超える高次の視点ともいえます)が、もっとも双方において必要とれさる「本質」なのかもしれません。

タロットにおいても同様なのです。

あなたがタロットに出会った意味もありますし、タロット側からあなたを選んだ意味もきっとあるでしょう。

そして、世の中に、数えきれないほどたくさんの種類のタロットがあるのに、わざわざそのタロット(例えばマルセイユタロット)と出会い、ツールや学びの資本として選んだのも、やはり意味が(双方向的に)あるのです。

ところで、この記事を書いていて、マルセイユタロットで、ふと浮かんできたもの(カード)があります。

それは、「恋人」「運命の輪」、そして「神の家」です。ちなみに、これらの数は「(恋人)」「10(運命の輪)」「16(神の家)」です。

6+10=16ということで、まるで三枚が複合して「縁」というものが回転したり、出来上がっり、選ばれたりするのだとも感じます。

もし、あなたにマルセイユタロットの縁があるのなら(そう感じ、思うのなら)、自ら動くのと同時に、すでに向こう側からは働きかけがあり、両者の邂逅を待っている、言わば第三の視点の存在のようなものもいる(見ている、設定している)のかもしれませんね。

もちろん、ほかのタロットとの縁の人もいれば、そもそもタロットには縁のない人もいるでしょう。

しかし、すでにあなたがこのブログにたどり着いたということは、タロットとの何らかの縁は生じている可能性があります。たまたまであっても、タロットと一瞬でも関わる何かがあるのでしょう。

一瞬であっても、あなたとタロットの間に小宇宙は築かれたわけで、言ってみれば、そこへの小旅行を体験しています。旅行なので、楽しまれるとよいでしょう。


大アルカナの数と絵の象徴性

すでに多くの人に知れ渡っていることですが、タロットの大アルカナナンバー自体、(あらゆる)成長や発展の象徴になっています。

簡単に言えば、大アルカナの数順が、そののま成長のプロセスだということです。

ただ、例えば、ウェイト版とマルセイユ版では、大アルカナの数が違います。具体的には、「正義」と「力」の数です。

ですから、すべてのタロットカードが、数順の通り進むのが成長や発展を示しているのではないとも考えられます。

しかしながら、ことマルセイユタロットにおいては、明らかに、大アルカナにおいて、数の進化がすなわち個人や全体の進化とリンクしているというのは言えることだ思います。

ここで、私は個人と全体と言いましたが、この点も重要なところです。

個人と全体は基本的にリンクすると言いますか、根本的には同じシステムや構造で進化していくと考えられるのですが、現実問題として、このブログで何度も述べているように、実際には皆、個人差、一人一人違う個性を持っています。

ですから、全体としては言えることでも、個人によって違って来るようなところがあり、それがまた個人表現が許されているこの世界の仕組みの面白さ(または苦しみ)であると言えます。

言わば、万人に共通の大まかな地図を与えられながらも、個人個人では、通り道とかやり方の異なる地図もあるよという感じです。

言い換えれば、個人の地図は自分で調べ、書き込み、創り上げていくものでもあり、創作可能な、まさにオリジナルマップと言えましょう。

しかし、やはり大目的は忘れないように、抽象的ながらも、目指すべき方向性は全体として共通しているというのが、タロットの大アルカナの絵図に示されているようにも思います。

ということで、個人的に見た場合は、きれいに数順に進むことが必ずしもよいわけではなく、行きつ戻りつ、時にジャンプしたり、抜けたりすることもあり得ると思え、自分がどの位置にいるのかは、人それぞれだと言えます。

また、誰かにとっての「世界」の象徴は、誰かにとっての「力」レベルということもあるかもしれず、単純に数が上のカードが優れているという考えは禁物です。

しかし、数の順に注目してみると、私たちの視点は、ふたつの方向性で見ることが可能になってきます。

ひとつは、普通に、数が増加していく方向性、「手品師」から「世界」への視点です。

数で言えば、1から21へという、ある意味、正道・王道な見方です。

そして、もうひとつはこの逆で、「世界」から「手品師」に向けての視点です。

数にすると、21から1に減少していく方向性になります。

前者(1から21の方向性)は説明しなくてもわかると思いますが、普通に、加増していくような視点・考えになります。

経験や体験、あるいは知識などを、どんどん蓄積していく流れであり、まさに学び・進展という感じがしますね。これが、普通に皆さんが思っている成長性でしょうし、自分が当事者の主観的な人生の進みと言え、年齢的には若さをイメージさせます。

一方、後者(21から1)は、むしろゴールから出発点を見つめるような視点であり、振り返るような印象が強いです。年齢的に言えば、人生の終盤で、老境におり、自分の人生を回顧しているような感じですよね。

すると、それは確かに自分の人生への視点なのですが、何か他人の人生を見ているような、客観的視点にもなっていると思います。

そして、ここが、マルセイユタロットに込められた思想の見方とも関係するのですが、何かを蓄積して成長するというのではなく、すでに自分はすべてを知っていて、それを思い出すための人生(成長)であったと、この逆方向の視点だと気づいてくるのです。

そうすると、壮大な映画と言いますか、ひとつりエンターティメント、ゲームのような感じに人生というもののビジョンが変わってきます。

人生で楽しいこと、苦しいこと、様々に私たちは体験しますし、自分を成長させようと努力したり、とにかく生きるのに必死だったり、時には怠惰に無意味に過ごしたりします。

「世界」から「手品師」に見る視点だと、人生の体験のどれにも、いいも悪いもなく、ただそのような経験があった、してきたということになりますし、実は成長も発展も後退も減少もしていなくて、ずっと完全なる自分が見守っていたということになり、何らかの形で、完全性は忘却する世の中に来ていたものの、振り返ってみれば、その忘却を少しずつ思い出す(取り返す)ためのゲームにチャレンジしていたかもしれないと思えるようになります。

なかなか、老年にならないと獲得できない視点かもしれませんが、マルセイユタロットを並べて、「世界」から逆の順序で、大アルカナを見つめてみると、このような視点も年齢にかかわらず、起こって来るかもしれません。

それからのこの視点(「世界」から見る視点)に近いものになりますが、自分が「愚者」になって、大アルカナ全体を投影図のように見つめると、自分は何になってもよいのだと気づきます。

これは、多くの自己実現を唱える方の話とは真逆なものかもしれませんが、自分に肯定とか否定とかの考えをしなくても、本当は、自分は大アルカナでいうところの「愚者」なのだと知ると、実は何者でもなかったのだいうことになってきます。

「愚者」は数を持ちません。ということは、どんな数のカードでもなく、また逆に、どんな数のカードにもなることができます。

数の順番通りに成長していく、蓄積して大きくなっていくこともできますし、どれか、なりたいカードの象徴性に、自分を置くこともできます。また先述したように、「世界」から見直す視点のように、完全なる自分に、あえてハンディを持つように、忘却の旅をしていると見ることもできるわけです。

ということは、一言で言えば、自由なのです。

ここに自己の肯定や否定という「二元」を考えれば考えるほど、「愚者」ではなくなってきて、この大アルカナの中で、自分が決めた「よい・悪い」という基準でカードを見て、その世界観に振り回されていること(自分)に気づくかもしれません。

幸不幸も、一般的な概念があることは認めても、やはり、人それぞれであり、自分が「愚者」であるのなら、その幸せ感もまた自由なのです。

幸せを、数順をたどるように追い求めてもよいでしょうし、逆に、待っていたり、振り返ったりしていると、実は幸せだったと感じるようなものもあるでしょうし、本当に何でもいいと思います。

私自身、「何者でもない感覚」に悩まされてきました。どこにも居場所がないとか、何か楽しんていても、どこか空虚な感じが常にある感覚とか、何か浮いた感じというものがありました。

しかし、改めて、マルセイユタロットを見て、自分は「愚者」なのだということを知ると、それはむしろ当然なのかとさえ、最近は思ってきています。ここでまた、「それでいい」とか、「いやいや、それは悪い状態」とか考えると、また余計に悩むことになるでしょう。

ありのままとか、そのままの自分でよかったんだ・・・という言い方は、自己への心理的な肯定感としてよく例えに出されますが、もちろん、それはとても大事な考えではあるものの、「そういう感覚に、必ずならねば幸せになれない」とか、「自己肯定こそが幸せの近道」と絶対的に思う必要もないと感じます。

タロット的には、「愚者」であること、ただそれだけを思い、振り返る視点もよし、順を追って成長していく視点もよしだとすると、ずいぶん楽になるのではないでしょうか。

ただ、「愚者」には犬のような存在も描かれています。この犬の解釈はいろいろとできますが、とにかく言えることは、「愚者」は一人ではないということです。

ですから、あなたが「愚者」である限り、孤独ではありません。

もし孤独を感じているのであれば、この「愚者」の犬の存在を感じてみるとよく、それは実際の人物である場合もあれば、あなたを支える教えとか思想のこともあったり、目標的な世界とか人物を含んでいる存在のこともあったりするでしょう。(マルセイユタロットの場合は、この犬の色が重要なこともあります)

そしてこの犬の中身は、入れ替わることもあります。(例えば、あなたを支える人物とかパートナーが変わるとか)

結局のところ、「愚者」としての自分が、まるで一種のゲームを楽しむかのように、(錬金術の文言にもありますが)自分をあえて分けて、また再構成する(ひとつに戻す、統合する)、そういう旅(遊び)が、大アルカナの象徴なのかもしれません。


絶望にある希望、有望

どんな人にも悩みがあり、つらいことはあった(今後もある)と思います。

そしてこれもまた、多くの人が経験しているかと思うのですが、絶望という言葉で表現されるような、まさに望みが絶たれる感じの状況というものがあります。

ただ、中には、「私はそんな気持ちになったことないなあ・・・」という幸運と言いますか、メンタルの強い方もいらっしゃるでしょう。もしかすると、絶望なんていう状況は、そうそう現れるものでもないので、実際に絶望感を味わう人は、ごく限れた方なのかもしれません。

ここでまず考えたいのは、「絶望」と一口に言っても、客観的な絶望と、主観的な絶望があると言うことです。

まあ、言い方を変えれば、事実としての絶望と、思い込みの絶望とでも言いましょうか。

前者は、誰が見ても絶望にある状態で、考えたくもない悲惨な状況が浮かびますが、どうしたって誰が何をしたって、もうダメだという感じのものです。

そして、後者のほうは、個人それぞれの絶望感なので、他人からすれば、まだ何とかなるよ、と思える場合もあるわけです。

超楽観的な人とか、ものすごい能力とか才能、資源、アイデアなど持っていれば、普通は絶望するシーンでも、むしろ希望にあり、望みの確信に満ちて微笑んでいることすらあるかもしれません。

ですが反対に、ほとんどの人が、それはまあ大丈夫だよね、と思うことでも、ある人にとってはもうダメだ、絶望だあーと嘆いてしまうシーンもあり得ます。

ここで、本当の意味で客観的な絶望といいいますか、万人が望みを絶たれたと思う状況が、果たしてあるのかと考えますと、それは存在しないのかもしれないという思いにも至ります。

それは「万人」の定義によって変わって来ると言えるかもしれません。

今いる関係者全員とか、国民全員、地球の人全員とか、果ては宇宙にいる知的生命体から、神のような存在まで入れると、そのレベルでの可能・不可能のレベルが拡大されて行き、究極的に絶望などないとなってくるでしょう。

要するに、絶望も希望(有望)も、個人の思いと、関わる人(人だけでなく)の範囲によって変化するというわけです。

ここから、絶望を希望や有望に変えるヒントが見つかりそうです。

まず、ほとんどが主観的な絶望が多いと考えられますから(皆が共通して思う「絶望的状況」というのはそうそうないはずです)、個人の意識、思い、考え方、感じ方、アイデアを変える方法を身につければ、そんなには絶望状況は訪れないと言えます。

また、内面(思考・感情・意識等)だけではなく、知識や環境、物理的レベルのものでも拡大させておくことが絶望を遠ざけます。

つまりは、利用できるもの、救える方法、脱出できるもの、支援される方法や物事を準備し、「もしもの知識」として知っておくということです。

言い換えれば、情報不足により絶望と思わされることが結構あるので、助かる情報を色々な角度から入れておくと、有望や希望が出やすくなるわけです。

ただし、これは最近の状況に特に言えることですが、逆に、あまりに情報過多となって、余計な情報を入れることで、今度は内的に不安や葛藤、迷いが生じやすくなって、本来悩まなくてもいいことが増え、幻想に怯えるような感じで、しまいにはそれが絶望感を生み出すことにもなりかねず、注意が必要です。

他人と比較しなければならないこの現実の世の仕組みではありますが、近ごろはそれが簡単に(他人情報が)目に入ることにより、比較の度合いや回数も増えて、自分の無力さを必要以上に感じて落ち込み、絶望にかられる危険性もあります。

従って、情報の適度な遮断自分の身を守る方法のひとつで、絶望に陥ることから救います。

内的には、ほかにも、絶望感に至りやすい自分にある心の傷、トラウマ、ネガティブ思考を稼働させてしまう心のプログラムのようなものと向き合い、浄化、調整、整理しておくと、有望性に意識が向きやすくなります。

人より絶望感がよく出る人は、何かそういう心の仕組みで回されている自分があり、それに気づいて、もっと有望感に至る普通の状態に再調整していくという意味です。これはカウンセラーとかセラピストなどの専門家の力を借りたほうがよいでしょう。

だいたい、主観性で絶望に至りやすい人は、逆の客観性の視点(他人の見方、データとかルールのような客観的事実を示すものなど)をカウンターにもってくるようにできれば、中和されて、何とか救われる場合があります。

それと、ここが実は書きたかったことのひとつなのですが、マルセイユタロット的には、変化・変容と統合というのが表現されています。絶望はずっと絶望ではなく、その逆もまたしかりで、ふたつはひとつの両面であり、さらに言えば、いろいろなレベルの絶望と有望があるのです。

例えば「運命の輪」一枚を見ても、輪の中にいる上向きの動物と、下向きの動物が描かれていますが、輪が回転すれば、それは反対になり、上が下、下が上へと変わります。

輪が文字通り、運命の回転であったとしても、状況は回転して変わり、ずっと運がよい、ずっと悪いが続くわけではなく、一番下の絶望の地点だと思っていても、輪ですから、回転し、いずれ反対になることもあれば、輪を上下逆さに見れば、それは上でも下でもないのです。(ちなみに、私たちの地球は丸いと言われていますが、北半球の人が安定していて、南半球の人は逆さまで落ちるわけではないですよね(笑))

このことから、絶望の中にも有望性はあり、有望の何には絶望もあるという循環性や、対立性・相補性が見えてきます。

確かに、客観的に近い絶望状況では、希望(まれなる望み)さえ持つことも難しいかもしれません。

ただ、絶望と有望をまったく同じレベルのふたつの対比で考えるのではなく、絶望状況にあっても必ず違うレベルの希望があり、しかしその希望はまさにわずかの望みとかで、一気にハッピーになれる望みではないものの、本当に絶望だと思っていたところに、一筋の光明を見つけることで、いわば、真っ黒だった世界に、少しだけ光が生じ、わずかと言えども、それがあるだけで、真っ黒の世界ではなくなっているわけですから、世界は変わった(変わりつつある、変わるエネルギー方向にある)のだと見ることができるのです。

ほかの例で言いますと、マルセイユタロットには「13」と「節制」が数順で並べると、その人物たちが向き合うようになっています。

前にも書いたことがありますが、私もうつ病と神経症で非常につらい時期があり、死を思うことが何度もありました。いわば「13」のような状態だった時、「節制」(救済・天使)のようなことに出会った記憶があるのです。

それはまた、救済者として誰か一人の偉大な存在が現れたとか、回復の治療法が突然見つかったいうわけではありません。

「節制」的な人物や事柄が、少しずつ、わずかずつでも、絶望にある時に存在した、現れたということなのです。(発見し、気づいたという意味でもあります)

苦しい時はそれがなかなかわからないかもしれません。でも、少しだけ視点をずらし、救いをあきらめず求めて行けば、そこに小さいながらも天使(その魂が宿っている現実の人物)がいたり、救いや新たな境地に導くきっかけを与えてくれるものが存在します。

それが絶望にある希望であり、有望です。

これは完全に元に戻るとか、すべての苦境がなくなるというような望みではないかもしれませんが、少なくとも、今の絶望感を変える何か新しい境地とか目標、アイデア、考え方、心境、ビジョンのようなものを、「望み」として天(自身の内と言ってもよいです)が与えてくれる可能性があるのです。

さて、客観的な絶望のほうに移ります。

これは範囲を拡大させることで、絶望から逃れられる可能性が、まず高まります。

家族だけとか、地域だけとかの範囲を超えて救済を見ると、ほかからの資源やアイデアを回せますので、絶望がブレークする可能性が増えるでしょう。

ですが、客観的事実に基づく絶望の場合、例えば不治の病とか、医学的に見た致命傷の怪我など、これは客観事実でもありますので、思い込みでは難しいですから、変えられない・救えない厳しい現実もあるにはあります

それでも、マルセイユタロットの「世界」の象徴のように、範囲を拡大した情報・資源からならば、普通の場合は、望みに変えられる可能性は高まります。

重要なのは、助け合うシステムと、その前に、そういう精神を全体として共有し、築いていくことだと思います。(気持ちだけではなく、実際において価値あるものとする)

個として切り離された社会の実態になってしまうと、先述したように、範囲が狭いと利用できるものも少なくなりますので、絶望感に陥りやすく、現実(客観的絶望)の意味でも、詰んでしまうことは増えます。

個人責任論が横行する昨今ですが、これほど無慈悲なことはありません。もちろん甘えや依存になっては問題ですが、この世界は、一人一人個性が違うからこそ、一人ではどうしてようもできないことも当然出てくるわけです。

ですから、協力して問題を少なくしたり、生きやすくしていったりする社会のシステムが整わないと、弱肉強食の世界、持てる者が勝ち、持たないものが負けという構造で回ってしまいます。

ひどい言い方をすれば、多くの絶望によって少数の望みが満たされる仕組みです。こういう構造から脱することです。

マルセイユタロットで言うと「節制」的意識に私たちは進む必要があり、「節制」の天使が壺の水を入れ替え、注いでいるように、与え・与えられる循環性と公平性(すべてまったく同じで等しくという意味ではなく、個性に応じた平等性)が進めば、絶望に至る人は減ると考えられます。

ということで、絶望から有望、希望に至るには、私たち一人一人個人の中でできることと、範囲を拡大して考え、全体やシステムとして見直し、改善していく方向とのふたつが重要だと考えます。

問題というのは、どんなにレベルが上がっても発生すると思いますが、こと絶望については、そう感じる人が激減し、絶望は言葉や物語でしか存在しないくらいの社会にしていきたいものです。


自己評価は低くてもよい

自己評価が低い・高いというのは、心理的に大きな意味を持ってくると考えられています。

自己評価のテーマは、最近ではスピリチュアル的にも言われいます。心理的な意味と、スピリチュアル的な意味とでは少し違うのですが、とりあえず、自分自身による自らの評価ということで定義しておきましょう。

ところで、一般的と言いいますか、もはや常識的に、自己評価は高いほうがいいとされています。

平たく言えば、自信であり、それがないのとあるのとでは、生き方も大きく変わると思われています。

言葉は面白いもので、「自信」は「自分を信じる」と書きますので、まさに、自分に対する信頼感、自らを信じている強さとも言えます。ということは、自己評価が高いというのとほぼ同意ですよね。

よって、自己評価の高低も、自分に自信が持てるかどうかにかかっているとも考えられます。

今回は、自分に自信を持つにはどうすればいいのか?ということが主題ではありません。

その方法は、多くの心理系の方々によって説かれていることであり、それを身に着ける(自信をつける、自分を認める)セミナーとか個人セッション、カウンセリングなどもたくさんあるわけで、自信のない方、自己評価の低いと思っている人は、そういうものに参加したり、受けてみたりされるとよいかと思います。

話は変わりますが、時代とともに、いわゆる心理的援助、悩みや苦しみ、問題の相談をされる仕事やビジネスをする方は、昔に比べて格段に増えました。

さきほど、ビジネスと言いましたように、単なるボランティアではなく、プロの仕事としてされている人が多くなったわけですから、これを利用しない手はないと思います。お金がもったいないと思う人もいるかもしれませんが、それは価値観の問題です。

極端な例を言えば、毎日パチンコするような依存症になり、借金して人生を破綻してしまうより、依存症の問題を誰か専門家に相談したほうが、今後のお金の損失程度から見ても、効率的だと言えます。

また、なかなかいい人と出会いがない、相手ができても、いつも同じような問題のある人とつきあってしまうという人が、婚活とかそういうカップリングを目指すことにお金をかけるより、もし心理的に問題があるのなら、そこを解消しておいたほうが、望む結果が早くなったり、かかるお金にしても少なく済んだりすることもあり得ます。

人生をよくするには、いろいろなサービスがこの現実世界ではあるのですから(それがまたこの世の面白いところと言いますか、救済措置のひとつだと思います)、そうしたものをうまく利用することも考えてみるとよいでしょう。なんでも自分一人でやらねばならいとか、解決しようと思わないことです。

現実世界の特徴は、個別意識、言わば分離的個性にありますから、逆に言えば、全体によって個人を救う仕組みになっており、簡単に表現すると「持ちつ持たれつ」なのです。

このことに世界の人が気づけば、もっと暮らしやすくなるのですが・・・まあそうさせない勢力もありますので、単純なことなのに、難しくされている世情があるわけですね。

さて話を戻しますが、今日言いたいのは自己評価が低くてもいいよ(いい場合がある)という、ちょっと非常識(苦笑)な話なのです。

実は私自身は、自己評価が低いほうだと思います。以前は、例にもれず、これではいけないと改善を試みようとしました。心理的に学んだり、セッションやカウンセリングを受けたりしたこともあります。

それでも、やっぱり低いままなな感じは残っていました。自分に自信がなく、自己評価が低い部分が残存し続ける感じです。

と書いて来て、気になった方もいると思いますが、「部分」と私は書きました。そう、ある程度、自己評価の問題に取り組んで来て、気づいたことがあります。

自分と一口に言っても、実は様々な自分が存在しており、そこには自己評価の低い自分もいれば、自信をもっている自分もいるのです。

シーンや状況によって、それらの各々の自分が出てきて、ある時は自己評価の低い自分になり、ある時はましになっている自分が出ます。

つまり、高い・低いの問題ではなく、高い自分と低い自分とが混交し、それが一人の自分として形作っているのです。となれば、状況によって、登場してくる自分も違うことになります。

何回か経験したこととか、慣れている場面とかでは、自信のある自分が登場するでしょうし、未知なるところ、慣れていない時などは、自信のない自分となるでしょう。

ある特技を披露するシーンとか、人よりましなもの、優れているものが出せる時は、、他の場面では自信のない自分であっても、急に自信を持つ自分が現れる人もいるでしょう。

ということで、実は、自己評価とか自信というのも、状況によって変わる(左右される)わけです。時分による自分の違いです。(笑)

それでも、人格全般に影響するような強烈な体験があれば、それが全部を支配してしまうことがあります。この場合は、自己評価の低い人格ばかりとか、そういう傾向をひとつの固まりとして持ってきます。

人格形成は、大人になる前のことが強く影響しますから、やはり心理的によく言われるように、成育歴における事件は自己評価に関わってくると言えましょう。

しかし大人になってからも修正は可能ですので、特に自信を極端に失っている人格を見つけて、平均化していけば、だいぶん全体としても変わって来る可能性もあります。

また、自信の強い人格が他を助けることもありますので、その人格(趣味とか特技とか、自分を自分としてある程度強く出せて、認められる人格の象徴体)を意識的に認識すれば、全体としてもっと自己評価がましになり、生きやすくなるかもしれません。

これとは別に、自己評価は低いままで、超越的なものから支えられていると考え、だからこそ、低くても助けや救済があるとする見方があります。

これは宗教がやっていた方法です。

神とか仏とか、自分の信ずる超越的な存在が、まさに迷える子羊である「私」を見守り、お導きくださるという姿勢です。

だから、自分への評価は、言ってみればどうでもよいのです。むしろ低いのが当たり前と言えます。

人間としての弱さ、未熟さ、至らなさを当然のごとく自覚し(神とは違うので)、だからこそ、神仏を敬い、助けていただく、完全になるよう、お導きの道を進む・・・こういう感覚です。

この立場では、自己評価は低いままでよいと言えます。低くても、自分には完全なる神仏がおり(ついている)、矛盾する言い方になりますが、その意味では限りなく自己評価は高くなります。

このように、外側に神仏を見て、自分を客観的(神仏目線と併せて)に評価していく、成長していくという見方が宗教的なものと言えます。

ですが、外側ではなく、自分の内なる神性とか仏性というものに置き換えてみると、スピリチュアル的な意味での方法となってきます。

現代社会では、こちらのほうをお勧めしたいです。

マルセイユタロットの「悪魔」のように、自我を強めて、現実社会での自信を持つというのが、常識的な、自己評価を高めるひとつの方法なのですが、自分自身が「神の家」であることを認識するという道(人間性が神性へと変化・回帰し、完成させていくという自己認識)は、さきほど説明した宗教的なものと近くなります。

マルセイユタロットでは、「神の家」と、謙虚な姿勢の女神が描かれている「」のカードとセットで考えてみると、よりイメージしやすいかもしれません。

ですから私自身は、自己評価が低いことは、問題としてあまり思っていません。それは人間としての私の部分であり、むしろ当然だと思うくらいです。

とは言え、すべて人間レベル(つまり現実的な認識のみの視点)で考えている場合は、自己評価が低いままでは、きっと生きづらくなると思います。

何度もこのブログで書いていますが、この世界は一種のゲームです。やりようによって、何とかなっていくものだと考えられます。

別に一般的な成功とか幸せを手に入れなくても(そういう設定のゲームにしなくても)生きられます。(笑)

「悪魔」を出し抜くような気持ちで、「手品師」(いかさま賭博師でもあります)から始めてみましょう。

「愚者」となってこの世界を旅するのなら、アウトローで結構だと思えばいいのです。

ワタリガラス、英語ではレイブンと言いますが、不吉の象徴のように思わているこの鳥も、ある文化ではトリックスター的にも見られています。

この世を渡っていく黒い鳥として見れば、自由で面白い存在だと言え、自己評価は黒くても(笑)、ワタリガラスのように人生を渡っていくのもまたよしかもしれません。


あこがれの人、モデルの人

誰かにあこがれそういう人になろうとすることは、自身の進歩と向上につながりますし、具体的目標があってよいことではあります。

しかしそれが行き過ぎて、もはや信仰や崇拝にまで変わってくると、今度は逆に自身を縛る人になります。

その人のことを全部肯定し、間違ったことは言うはずがないとなり、その人が自分にとってあらゆるルールになります。

そうすると、結局、自分を支配する人に変わることになります。

この弊害について、普通に考えればわかりますが、あこがれの対象の人が悪いのではなく、あこがれている側に問題があるわけです。(ただし、人によっては、あこがれられる側に問題があることもあります)

あこがれの対象になっている人は、ある意味、勝手にあこがれられ、勝手に支配する人にさせられているのです。

心理的には、あこがれの人が、自分の父親や母親、兄や姉のような、家族関係で問題となっていたり、理想にすえていたりする人の肩代わりになっている場合もあります。

また、パートナーや恋人になる人だと、夢想してしまう人もいます。

繰り返しますが、これはあこがれられる人の問題ではなく、あこがれるほうに問題があるのです。

ですから、自分が誰かにあこがれていると思った時、それが過度になっていないか、崇拝にまでなっていないか、自分の考えや行動が、その人を通してでないと(基準にしたり、想定したりしないと)できなくなっていないか、見直す必要があります。

ただ、過度のあこがれになってしまっている人の場合、自覚ないことが多く、自覚ないからこそ、妄信にまで来てしまっていると言ってもよい状態なので、友人や家族などから、注意を受けたり、何か行き過ぎたことの示唆があったりした場合は、反発したくなる気持ちを抑え、我が身をふりかってみるとよいでしょう。

今回述べていることは、マルセイユタロットで言えば、「悪魔」のカードに関係します。

「悪魔」は、自分のモデル・目標として、よい意味で働いている・設定されている場合は、エネルギーを与え、現実的にもよいほうに作用して行きますが、崇拝・教祖に変わると、あなたを縛り、支配する存在へと変貌します。

「悪魔」のカードにはつながれた人が描かれていますが、まさにその状態です。

このつながれているひもは、よく見ると、緩いロープであり、悪魔側からはきつく強引に縛っているわけではないのです。

むしろ、ゆるゆるなので、抜けようと思えばいつでも抜けられるわけです。

それをきつい縛りにしているのは、つながれている側の人間です。(マルセイユタロットの「悪魔」のカードでは、つながれている人は、もはや動物的になっていますが)

「悪魔」は、よい意味でモデルとなっている場合は、つないだひもを通して、前述したように、エネルギーをつないでいる人に送ります。

実際的には、エネルギーだけではなく、その人の技術とかスキル、精神などの伝達、注入もあるでしょう。

経済的に成功していたり、有名人であったり、精神的に余裕があったりする人が、モデルとなりやすいですが、良心的なモデルとなる人は、たとえカリスマ性があっても、慕って来る人、モデルとして自分を見てくれる人には、ファンへの恩返し、プレゼントとして、自分の一部をその人たちに与えていくことでしょう。

ファンとアイドル、サポータと主人公みたいに、応援され、あこがれられることで、「悪魔」(よい意味で)としての人物は、ますます力を発揮することになります。

悪い「悪魔」の場合、応援されるエネルギーを悪用したり、意図的にしろ(意図的なのがまさに悪魔的ですが)、無意識にしろ、奪ったりします。

ここでいうエネルギーとは、サイキック的には生命力のこともあれば、現実的にはお金や時間ということもあります。

ちなみに「運命の輪」のスフィンクスと「悪魔」は、同じ色をしているマルセイユ版があるのですが、これにもやはり意味があると考えられ、ネガティブに見ると、人の運を奪うような存在でもあり、いずれにしても、人の運命を強烈に変えていくような力を持つと言えます。

このように、「悪魔」というものは、人のエネルギーを奪うようにも見えますが、つながれる側をもっと主体的にして考えれば、結局、「悪魔」をどう扱うか、実際的に言えば、今日のテーマともなっている、あこがれやモデルの人に当たるわけですが、その人をどう見るか、どう扱うかによって、「悪魔」はよい存在にも、悪い存在にもなるということです。

「つなげさせられた」と考えるのではなく、「つないだのは自分であり、はずすのも自分である」と見るのです。

※ただし、本当の意味での悪魔もおり、それは通常の力・意思ではどうすることもできないくらいの巨大な力を有している場合もあります。しかしそれとて、自分にある神性、天使の力、輝く光によって対抗することは可能と言われています。人は弱い存在でありつつも、神の力も内包しており、それによって悪魔を超えることはできるとされているのです。

あくまでモデル・目標として、バランスよく、自分自身も律しながら、モデルとして対象へも、盲目的に一面だけで見るのではなく、その人も人であり、悪いところやネガティブな面もあることは、当然として受け入れることです。(それを断罪したり、否定したりすると、また逆に囚われやすくなります)

自分があこがれ、いいと思う人の中には、一見、自分にはないものがあるから、自分とはまったく違うから、惹かれてしまうと思うかもしれませんが、実は、同じものがあるからこそ、惹かれるのだとも言えます。

あなたはあこがれの人と同質の何かがあるのです。潜在的な能力と言ってもいいかもしれませんし、モデルの人とまったく同じではなくても、似たような気質でもって、自分をモデルとはまた違う形で表現できる力です。

だから、あこがれの人のようにはなれないと落ち込むのではなく、あこがれの人の中にある自分と似た部分、核のようなものに気づき、それを自分の中で再発見することです。

それが、あなたの宝です。

それがわかれば、自分の真の力が出てきて、たとえあこがれの人のようになれなくても、自分に自信が持て、自分なりの道や表現で、充足させていくことができます。

あなたには、自身にふさわしい「悪魔」がいるのです。悪魔という言葉にだまされ、悪魔の力を否定・拒否せず、自分の内なるものに取れ入れ、よい意味で、悪魔の力を復活させましょう。

すると今度は、あなたが誰かのモデルとなり、その力をまだ発現できていない人に対して、たいまつの火を与えていくことができます。

マルセイユタロットの「悪魔」が持つ「たいまつの火」は、偽物という象徴性もあるにはありますが、それには、本物の光を発見するプロセスとしての火があるのだと見ることもできます。

悪魔といえばサタンという名が浮かびますが、サタンもその昔は、ルシファーとして天使であったと言われています。ルシファーは、つまりは「」です。

本物と偽物、これらは実は深い関係や示唆に満ちていて、優れた偽物は、いいかげんに本物を示すよりも、本物を知る手がかりになるのです。


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