カードからの気づき
「存在」というもの
新型コロナウィルスの感染が、また拡大しているようです。
ただ、テレビなどの報道は、純粋なもの(真実を伝える報道目的)よりも、センセーショナルに煽って、結局番組や局の実権を握ったり、スポンサーをしていたりする企業や組織・団体の思惑に左右され、つまるところ、ほぼ広告宣伝、場合によっては洗脳とも言えますから、報道されているものを鵜呑みにするわけにはいきません。
ということで、最近は多くの人がネット情報を見るようになり、その信用度も旧メディアより上に見ている人も増えているのですが、これもまた曲者で、玉石混交、玉よりもむしろ石の情報も多く、実はネット情報も(自分や記事を)見てもらいがためのデマみたいなところは少なくないと考えられます。
そういう中で、スピリチュアル系や自己啓発、あるいは、成功ビジネス系などでも見られるコロナ間連のものに、「covid19(世界を今騒がしている新型コロナウィルス)はそもそも存在しない」という究極の情報があります。
この「存在しない」という話には、いろいろなレベルがあるようで、新型コロナウィルスは、実はウィルスとしてこれまでにも常在していたもので、そのひとつを大げさにとらえているに過ぎないという説、ウィルスと病の存在自体はあるものの、インフルエンザよりも死亡者も少なく、ことさら怯えるほどではない(だから存在しないに等しい)という説、はたまた、本当にそんなウィルスは存在しなく、すべて、とある目的のための捏造・演出であるという説まで多々あるようです。
新型コロナウィルスは気にしなくてもよいというものでは、ほかでも、「新型コロナは風邪みたいなもの」という楽観論として、特に経済を回したい人、元の社会・生活に戻したい人には見られる意見です。
一方、陰謀論の典型ですが、少し前ならば、人工ウィルス説のようなもののほうがよく取り上げられていた印象がありますが、今はさきほど述べたように、存在自体がフェイク(存在とか感染被害状況が捏造されている)という説のほうが、陰謀論界隈では目につきますね。
私はここで、どれが本当か、何を信じたらよいのかなどの、正解を出す話をしたいわけではありません。
言いたいことは、もっと根源的と言いますか、観点を違うものにした話なのです。
それは、さきほどから出ている「存在」という言葉に関係します。
covid19と名付けられ、世界に猛威をふるっている(と思われる)ウィルス、この「存在」をどう扱うのかによって、まさにそれそのものの存在が確定してくる(または、あやふやになる)のでないかと考えられます。
前述の陰謀論的な人の「新型コロナウィルス騒ぎは演出」という立場の者には、そういうウィルス自体、存在しないということになりますから、名前はあってもウィルスの実態はないことになります。
ただし、世の中の多くの人は、報道や実際目にしたこと、家族や知人の感染などによって、実在を疑っておらず、いわば、世間的にはウィルスは存在していることになります。
繰り返しますが、「ウィルス(騒ぎ)は演出で、詐欺みたいなもの」と考える人には、特にその人個人の世界においては、先述した通り、ウィルスはいない、存在しないことになります。
この現実世界で、物質的実在をはっきり確定させるには、人が目で確認するか、肉体的に接触しないといけません。ただ概念とか心というものは触れられず、目に見えませんが、その存在は信じている人がほとんどです。
私たちは、今、新型コロナウィルスを実際に見ることは、ミクロの世界を確認できる道具を持つか、医療などの仕事に携わっていないと、まず不可能です。
それでも、その存在は確かだと、ほとんどの人は思っています。それは、症状として現れた人、状況、感染者の数などが報道・報告され、常識として根付いたからでもあります。
このように、目に見えず、触れられないものでも、情報がほとんどの人に共有されれば、確実にその存在は認知され、世界に存在するようになります。
それでも、実際には見ることがないので、たとえ自分が感染しても、症状が出て、検査を受け、医師からコロナウィルスです、と言われないと、信じられないという人もいるでしょう。
こうして考えていくと、そもそも現実に存在するということはどういうことなのかと、不思議な感覚になってきます。
ウィルスに限らず、無数の小さな菌、存在はいる(ある)と私たちは信じています。それは顕微鏡等で確認されたからではありますが、図鑑などでは目にしても、実際に自分がすべて確認したわけではないでしょう。それでもそれらの存在は、あなたの中に確実化されています。
結局、存在とは、つきとめると情報(とその扱い、認識)ということになるでしょう。
その情報の流布する範囲、どれだけの人が常識として共有しているか、個人の場合は、生身の体験(五感での強烈な体験、特に視覚、触覚)のリアリティによるとも言えます。
よく、スピリチュアルでは、信じたことがあなたの世界そのもの(になる)と表現されますが、その信念がたとえ妄想で非科学的、非常識であっても、本人が強く信じ、リアリティを感じていれば、それは「存在」として、他者・常識の世界と切り離して、あったり・なかったりさせることができるでしょう。
ですから、「covid19などない」という強い信念をもっていれば、それはその人の世界ではそうなので、covid19がその人の認識で存在することはありません。
極端なことを言えば、あきらかにそのウィルスの感染症状が出たとしても、それは外の世界からの判断であって、その人の世界の中では、風邪やほかの病気(その人の信じる病名の病気)になるのです。(※一般の人は医師を信じますから、医師の判断の病名が自分の病だと思いますし、その病の存在を認知し、現実化しています)
ということで、covid19の存在がフェイクと信じる人、その説の信奉者たちは、covid19が存在していると信じている多くの人たちに比べて、当たり前ですが、自分がたとえ感染していても(症状があっても)、検査をしたり、covid19ではないかと心配したりすることは希薄になるでしょう。
ただ、一般の多くの人は、covid19というウィルスと、そこからもたらされる症状について、まだ未知数部分が多く、危険性もあることを信じていますから、covid19への注意、感染の疑い、検査希望などはしていくことでしょう。この人たちには、確実にウィルスは存在しているからです。
さあ、あなたは「存在」をどう考えますか?
ないと思えばない、あると思えばあり、その言葉は、「存在は情報による」とした場合、あてはまる言葉だと言えますが、私たちの現実世界では、一人の想念(の世界)だけではなく、たくさんの個人の想念(の世界)が混じり合う世界でもあります。
いわゆる集合意識のようなものの世界もありますし、常識・世間という世界もあります。
その中で、個人の信じる世界だけで生きるのは、実は並大抵のことではありません。
真実というのはひとつかもしれませんが、たいていは解釈がはさみこまれますので、人の見方だけ真実があると言ってもよいのかもしれません。
そもそも、自分というものさえ存在するかどうか、疑うことも可能でしょう。
存在のレベルを階層別に設定し(認識し)、表れている現象や結果に注目して対処する方法もあります。(逆に言うと、存在そのものの証明にこだわらない方法)
例えば、幽霊は見えないとされているのが普通で、存在する・しないになってきますと、いろいろな意見が出てきます。(科学的には存在しないと考えられていますが)
幽霊の存在そのものよりも、幽霊という「概念」としてもいいのですが、たとえ概念であっても、自分が振り回され、精神や命の危機、生活の問題が実際に生じているのなら、幽霊の存在を証明するよりも、緊急には大事なこと(対処すべきこと)はあると思います。
今日の記事では、まるでタロットは出てきていませんが(笑)、これはタロットリーディングにおいても関係する話であり、、特に質問や問いについて、考えさせる内容になっていると思います。
「愚者」の旅、どこに向かい、何を目的とするか?
先日、NHKで「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼路の番組がありました。
サン・チャゴ・デ・コンポステーラとは、スペインの西端に位置し、サンチャゴ、つまり聖ヤコブ(イエス・キリストの12使徒の一人)を祀る大聖堂のある町で、そこまで至る巡礼の旅路が、キリスト教的な意味を超えて、今や世界遺産として、世界中から多くの人が訪れるルートとなっています。
昔の巡礼は、今よりもはるかに過酷な旅だったと思いますが、現代の巡礼者も、決して楽なわけではないでしょう。距離的にも、長いルートはおよそ1500kもあり、並大抵なことで完遂できません。
番組ではその大変さも放映されていましたが、同時に、途中の宿や、同じ巡礼路を歩く人たちの助け合いの姿も映し出され、巡礼路が孤独なだけの場所ではないことが表されていました。
現代において、巡礼を志す人は、何も宗教的な意味合いからだけとは限りません。
このカミーノと呼ばれる巡礼路においてもそれは顕著なようで、番組では、フランスでレストランを経営していたものの、それに忙殺され、ついには倒れてしまい、自分とこれまでの生活スタイルを見直すためにここにやってきという人、台湾人の女性で、ヨーロッパにワーキングホリデーに訪れ、巡礼路の情報を知って、何となくチャレンジしてみたという方、離婚して孤独で一文無しになった女性の再生の旅、父子の親子旅で、確かブラジルから来たという人などの紹介がありました。
どの人も、人生に何かの転機を迎えた人々で、巡礼という日常とは異質な時間と場所を選択されたのでした。
日常は日常で大切な時間ではありますが、ともすれば、私たちはそれに埋没し、時には精神や肉体を酷使して、ただ一日一日、惰性的に、義務的に過ごしてしまいます。
だからこそ、昔から、日常に代わる非日常的な時間や空間に自分をさらす、追い込む、転換(脱出)するような機会を課していたものです。
それは厳しいやり方もあれば、楽しいやり方もありました。
例えば、日本のムラにおけるお祭りなども、日常と非日常の切り替えのひとつの方法と言えました。
一方、「旅」というのは、空間的にも時間的にも、私たちを異質な世界に誘ってくれます。それは楽しいやり方での、非日常体験とも言えますが、決して旅は楽なことだけではありません。
厳しい旅であればあるほど、それは私たちを成長させ、知見や経験を広げ、意識を拡大させます。国内旅行よりも、海外旅行のほうが一般的に強烈で、常識を覆すことが多いのは、そうした理由によります。
かつては、「自分探しの旅」ということが流行ったこともあります。
コロナ禍以前だと、まだそうした目的で日本中、世界中を旅していた人は多かったでしょうし、今でも、YouTubeなどの題材として、旅的な非日常動画は人気でもあり、自ら、全国を回って撮影している人も少なくありません。
彼ら彼女たちは、きっと旅をしながら、楽しみつつも、苦労も多く、元の場所に戻って来た時、自分を変えたものとして、一生の思い出となったり、経験談として、皆に聞かせたりすることになるでしょう。
ところで、マルセイユタロットには「愚者」というカードがあります。マルセイユタロット以外のタロットにも、もちろん「愚者」というカードはあるのですが、図像を比べてみればわかりますが、いかにも旅、旅姿をしているのは、マルセイユ版の「愚者」が顕著でしょう。
例えば、ウェイト版(ライダー版)の「愚者」は、崖の上に夢見るような感じでとても危うい感じで描かれているのに対し、マルセイユ版の「愚者」は、足取りはしっかりしており、杖をきちんとついて、顔は上向きですが、目標に向かって意思を持って歩いているように見えます。
「愚者」と聞くと、まさに愚か者で、フワフワしているイメージですが、実のところ、あまりフラフラとした印象ではない感じの図像が、マルセイユ版の「愚者」となっています。
このマルセイユ版の「愚者」は、夢見る夢男くんや夢子さんというより、強い意志と目的をもって、しかしながら緊張せず、楽観的なものも持ち合わせながら、歩みを進めているように見えます。
いかにも旅姿らしい旅人ということで、旅をしていることは確かでしょうが、先述したように、ある目的を有している感じが強く、その視線や体の方向に意味があるように見えます。
すでに、カモワン流やユング派でマルセイユタロット研究家の方から提示されているように、「愚者」は大アルカナを旅する人と目されています。
従って、象徴的に言えば、一番最高度の数を持つ「世界」のカードが目標となっていると考えることもできますが、同時に、大アルカナすべてを旅したい、全部自由に回りたいという気持ちも、「愚者」にはあるかもしれません。
普通に考えれば、数の順に旅していくように思えますが、彼の旅の方法や目的によっては、数には関係していても、独特な法則によって、一見バラバラに見えるかのような巡り方もあるかもしれません。そういう余地や自由さを、マルセイユ版の「愚者」からは感じさせます。
さきほど、旅は非日常を味わうにはよい方法であることは述べましたが、これは、実際に旅するということだけではなく、心の旅路というように、内面が(を)旅していると見ることも可能なのです。
いやむ、むしろ究極的には、私たちは、実は場所など移動しておらず、意識が移り変わっているだけで、周囲の景色が映像のように映し出されているかもしれないのです。いわば、バーチャルな旅みたいなものです。
もし自分の周囲にスクリーン映像があり、自らは足踏みのように動かし、景色自体は移動しているように映し出されると、かなり精巧に装置ができていると、実際に自分は(場所も)移動していると錯覚を起こすことでしょう。
このことは、私たちが動いているのか、周囲が動いているのか、どちらかわからないことを示し、移動というものは、実は相対的なものという考えにも至るのです。
すると、重要なのは、内面の旅であることがわかります。
この内面の旅を、マルセイユタロットは「愚者」とともに、その他のカードによって象徴させます。
私たちは、タロットによって、自分が変化したような体験、言い換えると、それぞれのカードに自分自身が変身する体験を味わうことができます。
しかし、「愚者」としての自分は実は変わっていないのです。まるで着せ替え人形のように、ほかのカードという服を着るようなものでもあります。
それでも、その服を着てみないとわからないことがあります。
通常では、人生の実体験から省察することで、この体験をしますが、タロットを学習していると、先回りしたり、自分が実際には体験していないことでも本質的な世界に入って、それに近い感覚を得たりすることができます。
それはまた、意識においての巡礼なのです。
巡礼の番組では、孤独のように見えて、巡礼者のサポート体制によって、助け合って、かえって生きる力、ゴールしていく気力を回復していく様が放映されていました。最終的には神の存在を感じ、まさに神のご加護のもとにいる自分(一人ではない自分)を意識したかもしれません。
これと同様、タロットによる意識の巡礼路も、一見孤独な作業のようでいて、同志がいたり、タロットの世界からのサポートがあったりして、助けられながら、進んでいきます。
逆を言えば、巡礼は、孤独になることで、孤独ではないことを知る旅と言えます。
サン・チャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では、ゴールは「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の町の大聖堂ですが、タロットの巡礼のゴールは、いったいどこになるのでしょうか?
それは「世界」のカードかもしれませんが、地図上とか、カードにあるのではなく、あなた自身にある「世界」なのです。いわば、あなたの中に大聖堂はあります。
ところで、「愚者」には犬のような動物が付き添っているようにも見えます。
この動物はスピリットとしても表され、「世界」のカードにおいては、四つの生き物にも関係するでしょう。「オズの魔法使い」や「西遊記」なども、主人公と従者の形で、ある「旅」を象徴しているように見えます。
もちろん、あなた自身は、その主人公となって、旅を志し、本当の目的地を目指していくことになるです。
しかし、幸せの青い鳥ではありませんが、求めるものはすでにあり、ただその発見に至るために、プロセスとしての旅が必要なのです。
アクセルとブレーキ 「戦車」
よく物事のたとえとして、車のアクセルとブレーキを同時に踏む・・・みたいなことが言われます。
これ、実際の車では、まずやることはないですが、象徴的に言えば、意外に人はよくやるんですよね。
マルセイユタロットで言えば、ちょうど乗り物の象徴でもある「戦車」というカードがあり、この「戦車」の図柄には、二頭の馬が描かれていて、それぞれがまさにブレーキとアクセルの役割にもなっています。(必ずしも、そう読めるわけではありませんが、馬の違いを見れば、二頭が、何らかの意味で、別種の表現をしていることはわかります)
この馬が、それぞれの思いのままに暴走してしまったら、車は転倒したり、壊れたりする危険性が高まります。
それをうまくコントロールするのが、馬上の御者となります。戦車のカードにもそのような人物が描かれています。
「戦車」の絵柄には、手綱のようなものはないですが、おそらく彼は、二頭の馬を巧みにコントロールして、目的地に到達することができ、「戦車」の名の通り、戦いに勝利することもできるのでしょう。
当たり前ですが、車も人も、とにかく動くものには、ただ無暗に前進しているだけはダメで、ブレーキさばきと言いますか、ストップ&ゴーの扱いに長けていないと、うまく進むことができません。
もっとも、まっすぐな道で、何も障害物がなければ、前進あるのみで行けますし、そのほうが到達が早いのも確かです。
しかし、人生にたとえてみますと、人生は平たんな道のりばかりではありません。山あり谷あり、川も、落とし穴や罠(笑)さえも待ち構えています。
何も問題や障害のない目標達成とか、前進というものはあり得ないと言ってもよいでしょう。
だからこそ、アクセルとブレーキの扱いをないがしろにはできず、アクセルだけとかブレーキだけとか使えても、それもおかしなことになるわけです。同時に、進路や岐路をきちんと選択できるハンドルさばき、手綱さばきも要求されます。
「戦車」の人物は、またある意味、リーダー的な要素も持ちます。(乗り物に乗っている人の責任も持つと考えます)
このリーダー的人物のさばき方・コントロールが未熟で誤っていれば、たちまち乗っている人を危険や事故にさらします。
だから私たちは、自分の車の扱いに気をつけ、特にアクセルとブレーキの同時踏み込みのようなことは、自覚なくやっていることもあるので、注意したほうがよいでしょう。
内部に大きなエネルギー、欲求があるのに、それを無理やり抑え込んでいては、内燃機関の暴発のごとく、エンジンが焼き切れてしまいます。
つまりは、やりたいことがあっても我慢を強いていたり、進みたいのに進めない状況の葛藤をそのまま放置していたりすると、自分の中のエネルギー消費が過剰になったり、暴走したりして、心か肉体の調子を狂わせることがあるのです。
また矛盾した命令を受けていると感じる部下、あるいは、上の者でも、自分自身が矛盾していると思いつつも、何かのために仕方ないと思って強引に進めているような時、これもアクセルとブレーキの同時踏みのような感じで、葛藤から来るエンジン暴走、焼き切れみたいなことが起きるおそれがあります。
日本の職場では、結構このような事態があるのではないかと想像します。
余談ですが、政府が「GO TO キャンペーン」という旅行を推進させる施策を実施するようですが、新型コロナウィルス感染の拡大が再び巻き起こっている今に、「感染に注意しながら、どんどん旅してください」とはこれいかに?の、まさにアクセルとブレーキを同時に踏めといわんばかりのことをやろうとしています。
ともあれ、日常的にも、私たちの多くは、このような矛盾状況にさらされ続けているのですから、心と体が調子が悪くなるのも、ある意味、当然かもしれません。
そうすると、エネルギーを内部で使い過ぎて(暴走を抑えるためのエネルギー消費でもあります)、鬱になるなど、カードで言えば、「吊るし」として(まさにドック入り、メンテナンスみたいなもの)、心身の保全のために体が動きにくくなることがあります。(休ませるために調子が悪くなる)
ではやりたいことをどんどんやればよいのか?みたいに思いますが、そもそもアクセルとともにブレーキも同時にかけてしまうのは、アクセルをふかすと、恐怖や不安も起こってしまうからです。
「やりたいことをやればよい」というのは簡単ですが、それでもやれないからこそ、あるいは、やろうとしても、不安や恐怖、ブロックが生じてしまうから問題なのです。
スピードを出すと速いのはわかるけど、同時に怖いという心理です。
ではスピードが出ても安全だとなればいいのですが、それには車自体の安全性を高めるか、スピードの出し方・コントロール制御を修練する(つまりは運転技術を高めて、経験と慣れでスピードの安全な出し方を知ること)か、車に乗らない、車から降りて別の方法で行くかになってきます。もうひとつの裏技としては、車自体を別の車や乗り物で運んでもらう(笑)という策もあります。
これらを人の精神や肉体的なことに置き換えれば、車の安全性を高めるということは、すなわち自分自身を高めることにほかならず、肉体的精神的に成長や強化を図っていくことになるでしょう。
スピードコントロールとなってきますと、自身のマインドコントロールとか、内面や気持ちをもっと知り、緩急をつけたり、自分の気持ちと外側からのもの(世間体とか、自分を支配するもの、ルールなど)とのバランスを図る術を身に着けたりして、向上させていくことにあるでしょう。
また単純に運転技術は経験によっても上がるように、いろいろな(または専門の)経験を積む、物事に慣れていくということも、手のひとつです。
車自体をほかのもので運ぶというのは、例えば、他者の支援とか、組織・団体・次元やレベルの違うもののサポートを得るということでも考えられます。
車から降りるというのは、自分の目標や夢を疑ってみる(あきらめるというより、本当にそうなのか、もう一度見直すような感じでしょうか)、別の目標や目的を持ってみる、これまでとはまったく別の観点で見てみる、今までとは違う人生や価値観で生きてみる、実際に転職する、移住をしてみるみたいなことが言えるかもしれません。
車のコントロールには、何もブレーキとアクセルだけがあるのではありません。最近はナビが当たり前にありますし、ハンドルも当然あり、シフトレバーも備わっています。未来では自動運転が当たり前になるとも言われています。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいるのなら、それらを同時に離せば危険は去りますし、バックしたり(「隠者」などではそれが表現されます)、回転したり(「運命の輪」)することもいいかもしれません。
「戦車」の御者に手綱がないように、実は自分の中の高度な操縦マニュアル、いわば神性なる叡智によって、無理に操縦しようとせずとも、自ずと進めることができるのかもしれません。
いわば、自動運転に次第に近づくわけです。
マルセイユタロットで例えれば、「世界」のカードに向かって、できるだけオートマチックにスムースに車が運べるように、これからの時代は進展していく(そうした進化を全体が目指している)ように感じます。これまでは必死に地上(物質的)にあるものをマニュアルにして、車を動かしてきました。
それはそれでよかったのかもしれませんが、車も進化し、車と人が一体化し、指令から制御されて自動運転が安全に行われるように、大元(神や宇宙、大いなるひとつ)からの誘導のもとに進んでいく道に入る気がします。
つまり、自我(エゴ)中心での運転から、統合的・共同的・神性的自己の運転への切り替え、自動でいながら自分の意思も反映できる、楽しむ運転モードへという印象です。
そうなると、私たちの社会や人生も、例えると、わがままな割り込みとか、おあり運転とか、交通事故とかもほとんどなくなり、スムースなものとなっていくでしょう。
ところで、マルセイユタロットのリーディングメソッドのひとつには、アクセルを踏むべきなのか、ブレーキをかけるべきなのか、あるいは、ともに踏み込んでしまっているのか、カードの展開によって論理的に判明できるものがあります。
相反エネルギーのこと(の扱い)は、なにも「戦車」だけの話ではないのです。そもそも、この地上(現実)世界の表現として、分離的・二元的なものがデフォルトなので、世は矛盾に満ちている(ように感じるのが自然)と言ってもよいのです。
みんな、いつでもどこでも、アクセルとブレーキのかけ方に悩んでいるようなものです。
だからこそ二元的なものの扱いを巧みにしていくことで(判断していくことで)、世の中をうまく渡って行けるようになるとも考えられるわけです。(ここでいう世渡りとは、一般的に言われている世渡り上手という意味ではなく、物事の見方・感じ方が大きくなり、悩みにくくなる、あるいは回答や気づきを得やすくなるということを言っています)
そのコツは、マルセイユタロットでは、カードの図柄・デザインにあります。こういうところがマルセイユタロットの面白さでもありますね。
トランプと小アルカナ ゲームつき
マルセイユタロットの小アルカナとトランプカードは、とてもよく似ています。
違う点と言えば、その枚数で、小アルカナが56枚、トランプが52枚です。
とすると4枚の違いがあるのですが、その4枚とは、小アルカナの宮廷カードに騎士が存在することによります。
すなわち、トランプには騎士(ナイト)はなく、人物の絵札として、皆さんにもおなじみの、ジャック、クイーン、キング(数でいえば11,12,13)があるだけとなります。
ここからすると、騎士は特別な存在であることがわかります。マルセイユタロットを学習すればそれはわかるのですが、ここでは、騎士が何らかの秘密を握っているとだけ言っておきましょう。
ただし、トランプには、ジョーカーがついていることがほとんどで、ジョーカーを枚数に入れると変わってきます。ちなみに、ジョーカーは、タロットでは大アルカナの「愚者」に相当すると言われ、見た目やトランプゲームでの機能からも、それはうかがえます。
とりあえず、トランプを、ジョーカーを除く52枚だとすると、そのうち、スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4組に分かれて、各13枚ずつになりますので、その4組を春夏秋冬の四季に置き換えますと、ひとつの季節が13週と考え、13×7で91となります。これが4つあるわけですから、91×4=364という数が出ます。
さらににジョーカーを加えると、365になりますから、トランプは、おそらく意図的にこの枚数にされており、私たちの一年、実際的な一年サイクル、日々の毎日を象徴させていたのではないかと推測できます。
いわば、日常を表しているわけですが、日常の中にも非日常性はあり、それが絵札やジョーカーなど特別なカードとして表されているのかもしれませんし、日常の退屈さを補う意味で、ゲームをする(刺激を受ける、楽しむ、他者と交流するなどの)ことが、トランプカードの役割、使命みたいなものを示しているのかもしれません。
タロットも一般にはゲーム道具として流布したところがありますから、実は、意外に、ゲームをする(させる)ことの深い意味が、タロットやトランプには込められていた可能性があります。
カードゲームというのは、札が配られることから始まることが多く、運というものに大きく左右され、また、ただ運に頼るのではなく、それなりの戦略を練って戦術を駆使することで、ゲームに勝つことができます。
さらにゲームは、自分一人でやるのではなく、ほとんどは何人かで行うことで楽しめ、人のカードの出方・利用の仕方で、局面も変化します。
カードゲームの最中には、まるで神が降りてきたかのような体験もあるでしょうし、きちんと計算通り勝利することもあるでしょう。
私たちの人生も、日常生活の中で、毎日同じようなことを繰り返しつつも、特にイレギュラーなことや、シンクロニシティ、神秘的な体験をすることがあります。
運命に翻弄されながら、自分の意志と行動で何かをつかむこともあれば、他人の助けや影響によって、大きく事態が変わることもあります。
それはまるで、カードゲームをしているのと同じではありませんか?
そういえば、タロットの大アルカナのナンバー1を持つカードは「手品師」であり、大道芸人として芸を披露していますが、ゲームをしているようにも見えます。
「手品師」は現実の生活空間に入ることも意味しますが、私たちは、まさに実際の生活というゲームの中に入り、ゲームの中で、カードのようなゲームをして、自分の人生そのものがゲームであることを知るのかもしれません。
さて、トランプにも小アルカナのように、意味が当てはめられています。
今述べたように、四季を表すとされている部分もありますし、西洋の古代エレメント思想でメジャーな、四大元素(風・水・火・地)に配当されるところもあります。それは小アルカナと同じと言ってもよいです。
ただし、タロット(小アルカナ)とトランプでは、同じ4組に分かれているとは言え、当てはめ方が違うこともあります。それは人や流派、地域によって、象徴の表現、配当が異なるからです。
ここはあえて、私のやっているマルセイユタロットからのものを用いて、トランプに当てはめてみます。
すると、剣がスペード、杯がハート、杖がクラブ、玉がクラブとなります。(もろちん、先述のように、流派とか人によって当てはめ方は違います)
また、(昔の西洋での)四つの職業をトランプ的に一般的なものとして示すと、スペードが騎士で、ハートが僧侶、クラブが農民、ダイヤが商人となっています。
タロット小アルカナでは、剣が騎士、杯が僧侶、杖が農民、玉が商人になりますね。それも当然で、剣が騎士なのはそのままですし、杯は聖なる杯であり、心を扱う分野であるのなら、僧侶(修道士とか神父・シスターなど聖職者に当たるでしょう)はぴったりですし、杖は棍棒ですから農業という感じがし、玉はコインなので、当然、商人を表すのが妥当だと言えます。
ここで面白い遊びをしたいと思います。
タロットの小アルカナになぞらえて、四つの□を並べます。直感でピンと来たものひとつを選んでみてください。
□ □ □ □
それぞれ何の絵柄(4組)を表しているかは、一番下に書いていますので確認願います。
あなたが選んだ表の特質が、あなたの気質を示すと見ます。あなたの行動原則とか価値観を表すと考えてもいいです。
ちょっとスピリチュアル的に、あなたの強い関連性のある前世とか、家系的なつながり、因縁みたいなものも示していると見るのもありです。あまり深くは考えないでください。なにせ、これはゲームですから。(笑)
ほかに、今のあなたにとって必要な気質、そいう人になっておくのもいいよ、と受け取ってもOKです。
簡単に、それぞれ4つの職業気質を書いておきます。
剣・騎士…戦いに挑む人、戦略を練る人、前向き、切り開く、開拓、ベンチャー、目的達成に向かう、学ぶ、技術を磨く
杯・僧侶…心を癒す人、神秘・聖なるものとふれあう、精神を高める、交流、交際、受け入れ、浄化する、熟成させる
杖・農民…作る、創造する人、生み出す、育てる、開墾する、耕す、働く、力を入れる、運動する、行動する、守る、助け合う
玉・商人…サービスを提供し、利益を得る人、お金を動かす、稼ぐ、借りる、貸す、貯める、投資する、実利を見る
まあ、単純に、あなたが仮に、この4つの職業や仕事をする人のうちどれかならば、何を思い、何を大切し、どう動くか、でイメージすると、回答が得られるということです。
ゲーム的に、楽しんでやってみてください。
あと生徒さんには、小アルカナの読み方の多大なヒントを与えているつもりですから、自分なりに、ブログ全体から読み取ってくださいね。☆
※表側の絵柄 向かって左から、「杯」 「剣」 「玉」 「杖」 です。
「恋人」から「審判」へ
日本では、「空気」を読む、読まないということがよく言われます。
民俗学的に見ても、ムラ社会の続いた日本では、共同社会の中で、そのムラのルール・慣習・伝統、そして雰囲気さえも感じて守って行かないと、なかなかうまく暮らせなかったことの影響があるのではないでしょうか。
これは日本においては、特に農村社会が主であったがゆえに、同じ土地に留まって、皆で助け合いながら生きて行かねばならない環境の村落共同体では、自然の成り行きだったかと思います。
和を乱す者や、空気の読めない輩がいれば、それだけで共同体の維持が難しくなり、ムラの乱れは、集団の意識や環境の変化を生み、それは場合によっては、生死の問題に直結することもあったでしょうから、仕方なかったと言えます。
ただ、かつては、そうした閉鎖的ともいえる中でも、無礼講的な、ハメをはずことが許さる行事(お祭りなど)が施されていましたし、年齢層や男女別の集団などによって、いわば悩み相談、異端的な者への教育なども行われていましたので、バランスは取れていたところもあったかと思います。
やがて、都市社会化が進み、人々は住む場所と働く場所が変わり、生活の糧も間接的に得るようになりました。
しかし、共同体的な仕事のやり方は、昔から生活の場にあったわけですから、まさに人々の精神に染み付いた感じになり、たとえで言えば、まるで遺伝子的に受け継がれてきたように感じます。
だから、生活の場(家)から離れた職場であっても、そこに昔のムラ社会の掟やルール、集団での同調性・協調性の雰囲気が精神的に維持され、日本人らしい働き方が、そのまま時代は変わっても定着していたのだと推測されます。
極端に言えば、村長、年長者のいうこと守らなければならない、先輩・経験者によるものは正しい人の意見である、みたいなことで、その村長が上司とか社長に変わっただけなのです。
ゆえにサービス残業とかパワハラとかが、まかり通る社会が、ある面、続いていたと言えるでしょう。
しかし、時代は変わって行きますし、環境の体制も変化します。
それでも、長い間、集団の力で仕事と生活を動かす、保証するという精神的なルールと言いますか、雰囲気、もしかすると、ミームという言い方をしてもよいのかもしれませんが、その変化はとてもゆっくりだったように思います。
ところが、このコロナウィルスのインパクトによって、急激に変革が強制的になされようとしています。
そり最たるものは、オンラインでのテレワーク化の進展です。
今までは、同じ場所に集まって仕事をこなすという形式が普通でしたし、むしろ、それが強制的でもありました。
この形が、先述したように、ムラ社会の特徴を受け継いでいたものであることはわかると思います。
テレワーク化が進むことで、職場に直接的に集まらなくなり、たとえ組織としては同じ会社・チームで所属していても、実際は、おのおのが自宅などで、オンラインを通して一人一人、独立して仕事をするようになったわけです。
こうなると、その場で直接的に動く、関係する、関係させられるというものがなくなります。だから、直接的な協力体制、悪く言えば、強制的命令・指示の影響が弱まるだけではなく、集団の空気を読むことさえ、しなくてもいいことになります。
集団では、結果よりプロセスとか所属意識、同調することが重視されることもあります。
企業としては利益という成果・結果を生み出さねばならないはずが、結果よりも、仕事のやり方とか、協調性とか、従順性とか、それが大事にされることがあるわけです。
もちろん、組織である限り、チームワーク、目的達成のための集団による協力的な効果は無視できず、組織マネージメントも大切です。
しかし、あまりにそれが強くなりすぎ、目的のためより、チームのためが先という、本末転倒になったり、空気を読まねば集団から排除されるという、独立的な人、個性的な人、または敏感過ぎたり、逆にあまり周囲のことが気遣えない気質的な要因をもっている人には、つらいところがありました。
そのような人は、結局、独立・起業を選ぶか、そのようなスキルとか意欲が持てない人は、社会からはじき出され、誰かの保護下に入るか、社会保障制度に頼るか、あるいは、フリーター・派遣社員のような働き方で、点々と職を変えるなどして、なんとか自分が保てる生き方を模索するしかありませんでした。
かつて生活の場と仕事の場が直結して同じだったムラ社会にあっては、仕事ができない者であっても、生活の場としての助け合いがあり、それなりの保護体制もあったと言えます。
しかし、現代では、職住の分離と、貨幣・金融経済が進んだことで、仕事によってお金を稼げないものは生活もできないとなってしまったわけです。なのに、仕事場は、精神的には、ムラ社会のルール引き継いでいる状態です。
そうした状況が長く続いたわけですが、今年からは本当に変わった、いや、変わらされてきたのです。
ムラ的とも言える集団的な協力体制で、空気を読みつつ行ってきた仕事・職場が、一人一人の空間と時間で行えるようになり、一応、会社や組織としては存在はあるものの、物理的な集団・チーム・組織は弱くなり、ネットワークでつながっている個人という感じで、中世のギルド的な様相ながら、まったく新しい働き方、組織のあり方になるかもしれません。
ここで、やっとタロットの登場ですが(苦笑)、この変化は、マルセイユタロットの「恋人」カードから「審判」のカードの上昇のようにも思えます。
「恋人」カードは、三人の人間たちが話し合っている(その名の通り、恋愛関係を示唆しているとも取れるのですが)ように見えます。
人々の距離は近く、直接話し合える近さです。だから、この人たちは、まさに、物理的に直接的に会話できるような組織とか関係性を示すと考えられます。そうした直接的コミュニケーションと距離が重要なわけです。
一方、「審判」のカードとなりますと、「恋人」カードと同じように、三人の人物はいますし、距離は近い感じはするのですが、人々は裸であり、上空の天使を見ています。(それぞれの視線を追うと、全員天使に気づいていることがわかります)
一方の「恋人」カードの人物たちは服を着ており、上空の天使(この場合は小さい天使で、キューピッドでもあります)に気づいていません。
これらのことには、明らかな対比と象徴性の意味が隠されているのですが、詳しくは講座でお話するとして、ここでは、コミュニケーションの質や方法が、この二枚では変わっていることを指摘しておきます。
いわば、オンラインを通したネットワークでコミュニケーションするのが「審判」だとすると、旧時代のような、直接的コミュニケーション、集団的関係性を表すのが「恋人」と言えるでしょう。
これからの時代、組織に属しながらも、自分というものを大切にした働き方がもっと進むでしょう。
集団で作業するにはつらかった人や、なじまなかった人、さらには、自閉スペクトラム症と診られるような人でさえ、働きやすい体制が整えられてくるかもしれません。それは、人によっては、とても希望が持てます。
また、集団圧力や、上司や同僚との関係によって、仕事そのものよりも、人間関係で悩み、苦しかった人にも朗報となります。
上司からの命令は、テレワークでも、もちろんあるでしょうが、直接的に顔をつきあわせているのと、そうでないのとでは、影響力が違いますし、実際に接触する時間自体が少なくなりますから、心理的負担は軽くなると思います。
目に見えない世界では、人々の仕事の苦しみ・ネガティブな思いも、全体として溜まっていて、それが連鎖したり、他人にも影響を及ぼしたりしていると考えられますから、それらが少なくなれば、思念の重さは軽減され、人々の心の浄化や気づきも増して、社会全体も、いい意味で軽く、フレキシブルになると考えられます。
平たく言えば、これからはマイペースで仕事ができ、人から邪魔されることは少なくなるということです。
かつてよく言われた、「仕事のやり方は、(人に聞かず)盗んで見て覚えろ」みたいな、奇怪ともいえる指導方法も、オンライン・テレワークでは、ますます意味不明なことになり、教える側はきちんと文章なり画像・図面なりを見せたり、送ったりなどして指示しないとダメですから、そういう、妙ちきりんな指導も減ると思います。
こう考えると、世の中の流れは、霊的な意味で、真の個人の独立に向けて進化が加速していると見えます。
そして、個人の独立性を獲得しつつ、同時に必要に応じて、それぞれの能力や知恵、個性を皆で活かしあう(補い合う)という、ネットワーク的な、流動的かつ自由的共同(協力)性も築かれる流れにあるでしょう。
それは、自立型共生社会とでも言いましょうか。
そんな方向性に、実は、コロナウィルスの影響でも、向かっているのだ考えるこができるかもしれないのです。
前に「節制」への社会移行について書きましたが、「恋人」「節制」「審判」、このどれにも天使がいます。
最終的には、天使が描かれている、もうひとつのカードである「世界」として、完成に向かっていくのでしょう。